ABYSS×BLAZER【長編ファンタジー】

紅星

第1部・序章

ep1/空猫の唄

 ――――夢を見ていた。

 奇跡と出会った、あの日の夜の夢を。




 夜空に青白い冥霊月ルミーナが輝いていた。

 それを祝福するように、森の奥では死霊たちが舞い踊っている。

 愛する生者たちに未練のあまり会いに来る死霊もいれば、恨みを持つ生者から心魂を引き抜き、冥界へと引きずり込もうとする死霊もいる。彼等の思惑は様々だ。


 そんな彷徨さまよう死霊たちを、年端もいかない少年が虚ろな瞳で見詰めていた。

 見るからに薄汚れ、痩せ細った少年。その名を――リゼータといった。

 リゼータは古木にもたれ掛かり、寒さと餓えに震えながら途方に暮れていた。


(ついに捨てられたか。分かっていたことだけど)


 彼を置き去りにした人は、いつまで経っても戻って来ない。

 ここは村人たちが悪霊の森と恐れる、死霊や悪霊が棲まう未開の地。

 ならば子供一人が、そんな森の奥地から生きて帰るのは不可能に近く。そしてそれを知りながら、置き去りにされた意味をリゼータは充分に理解していた。


 リゼータは己の両掌を広げ、じっと見入る。

 そこには双つの幻罪紋カースマークが刻まれていた。


(双罪紋。罪の証であり、災厄を呼びこむ悪しき印……どうしてか俺には、生まれた時から幻罪紋が二つあった)


 幻罪紋を持つ者――罪紋者ざいもんしゃ――が生まれる事は、広く信仰される母神教ぼしんきょうでは不吉とされるが、一般的にはそこまで珍しい事ではなかった。

 しかしある日、バラーガル大陸の東端にあるエブラ村で、前代未聞の事件が起きてしまう。二つの幻罪紋を持つ赤子が生まれたのだ。

 突然そんな異物が生まれたのだから、臆病な村人たちがリゼータを迫害したのは当然の流れだったのかもしれない。


 それでもリゼータは耐えた。決して挫けずに懸命に生きた。

 たとえ誰かから罵られ、たった一人の肉親から暴力を振るわれたとしても。

 貧しさと惨めさ痛みと、どうしようもない理不尽に打ちのめされても。


 リゼータの父親は他界していたので、生活は困窮こんきゅうしていた。

 そして母親は心を壊して働ける状態ではなく、リゼータは二人分の糧を得る為に、十歳にも満たない身体で大人の倍以上働いた。


 人の嫌がる仕事は進んで引き受け、きつい畑仕事にも根を上げなかった。狩りの技術を覚えて獲物を村に還元した。病気や怪我で苦しんでいる人がいれば、看病におもむいたり仕事を代行することもあった。

 そこまでやって、やっと村での生存権を得ることができていた。


 だが、そんなある日――エブラ村を疫病が流行った。


 遠く南方から発生した疫病が、やがて村にまで届き八名の病死者を出したのだ。

 母神教徒の中でも特に狂信的な者たちは、病魔が村を襲ったのは何か原因があると考えた。その疑念の矛先を真っ先に向けられたのが――双罪紋ダブルカースさげすまれるリゼータだったのだ。


(誰かを憎んでも意味が無い。疲れるだけだ)


 しかし齢十歳にして、リゼータは達観した価値観を獲得していた。

 劣悪な環境で磨かれた頭脳と感性は、道理を見抜く観察眼を養い、他者の心情を推し量る洞察力をも育んだ。

 このまま成長すれば、彼は一角の人物へとなっただろう。


 だがその時が来る前に、リゼータは実の母親によって悪霊の森へと捨てられた。


『あんたみたいな疫病神……産むんじゃなかった!』


 去り際に吐かれた、憎悪に満ちた言葉。

 しかしそんな仕打ちを受けてさえ、リゼータの心に憎しみが湧くことは無かった。

 むしろ憎むより、彼女の無力さを哀れむ気持ちの方が大きかった。


(これから……あの人は大丈夫なんだろうか?)


 リゼータが居なくなった後、もはや頼れるものなど何も無いはずだ。

 身体も脆弱で心も壊れてしまっている。そんな彼女に対して、村民がろくに援助をしてくれるとは考え難い。リゼータが消えたことで、村人たちの態度が軟化するとも思えない。

 きっと今まで通り厄介者として冷遇され続け、恐らく最後には――そう思いを巡らせていたリゼータだったが、唐突に思考を停止した。


(……どうでもいいか。俺はもうすぐ死ぬんだから)


 どんなに悩もうが、もうすぐ全部消えてしまう。

 そう考えると、必死に頭を動かすのが馬鹿馬鹿しくなってきた。


 消えゆく灯のような時の中で、リゼータは自分の短い人生を振り返る。

 思い浮かぶのは、理不尽に耐え続けてきた記憶ばかり。そんな狂おしい日々の中で、誰かの気まぐれの優しさに一喜一憂したこともあった。


 しかしすぐに、他者には何も期待しなくなった。

 肉体も精神も摩耗し、いつしか喜怒哀楽といった感情は消え去り、希望ある未来のことなど考えられず、ただ絶望の闇を歩いてきた。


 もはや誰かを羨む気持ちなど、どこかに消えてしまっていた。

 そんな事を考えれば苦しいだけだから。娯楽や友達や愛情といった、世間的にはありふれたものさえ、リゼータには決して手に入らないものだったのだから。


 世界には理不尽が満ちている。

 どうしようもない事が多すぎる。不可解すぎる謎に満ちている。 

 そしてあまりにも――自分という存在は、ちっぽけで無力すぎる。



「……寒いな」


 呟いてふと気が付く。ぽつりぽつりと舞い下りる雪に。

 そういえば、そろそろ冥季ふゆがやってくる。ここ最近の混乱の日々せいで、そんな事すらも忘れてしまっていた。リゼータは空を見上げ「どうりで寒いわけだ」と、白い息を吐きながら独りごちた。


 勢いを増した雪は、暗黒の世界を真っ白に染めていく。

 森の奥に目を凝らせば、怪しく輝く悪霊たちが様子を伺っているのが分かった。


 もはやリゼータの衰弱した身体では、指一本を動かすことも億劫だ。このまま凍死するのが先か、悪霊に心魂を引きずり出されて食われるのが先か。

 寒さと疲労のせいで、強烈な眠気がリゼータを襲う。

 その誘惑に耐えれるはずもなく、瞳はゆっくりと閉じていく。


(これで……楽になれる…………)


 リゼータは全てを諦め、受け入れていた。

 罪紋者である事を受け入れ。迫害される事を受け入れ。肉体と精神の痛みを受け入れ。親にさえ愛されぬことを受け入れ。孤独を受け入れ。絶望を受け入れ。そして理不尽な死すら受け入れた。

 受け入れた――――はずだった。



『――――あいのめがみが、つかわした』


 気が付けば、リゼータは口ずさんでいた。

 村の子供たちが、無邪気に歌っていた童唄わらべうたを。

 いつも遠くから眺めるだけだったが、その唄をずっと覚えていた。



 あいのめがみが つかわした

 そらねこさまは つげられる

 あおいつばさを はばたかせ

 いとしけだかき そのすがた


 びょうまがむらを おそうとき

 ききんがまちを おそうとき

 せんかがくにを おそうとき

 ひとりなみだに くれるとき


 そらねこさまは やってくる

 みちにまよった ひとびとを

 ちいさくよわい われわれを

 みちびくために つげられる


 なゆたのときを いきながら

 そらねこさまが みつめてる

 かわいあたまを なでたなら

 あいのめがみも やってくる




 空猫とは伝説の神獣である。

 母神の遣いとされ、弱き人々の味方であるという。

 御伽話や歌となって世界中に伝わり、それはエブラ村にも届いていた。


 リゼータは神など信じないし、救いなど求めない。

 もしも神がいるのなら、どうしてこんな自分を生んだのか。それが必定だと言うのなら、力の限り抗議してやろうと何度思ったことか。

 だから空猫も嫌いだった。慈愛の神の遣いなどと言うのなら、どうして自分を救ってくれないのかと。そしてやがて忘れてしまった。


 しかし気付けば――空猫そらねこうたを歌っていた。


 その意味も知らず。聞かせる相手も分からず。理性も感情も失って。

 最期の瞬間に、無意識のうちにリゼータの唇は奏でていた。

 ただひたすらに。見たこともない何者かに、まるで祈りを捧げるように。




『――――――――りぃん』


 どこからか涼やかな音色が聞こえた。

 朦朧もうろうとする意識の中、遙か遠くで鳴り響く鈴の音が。

 それが微かに、リゼータの耳朶じだを打った。


『――――りぃん。りぃん。りぃぃぃん』


 天空の彼方から、鈴の音が近づいてくる。

 最初は幻聴かと疑ったが、どうやら違うようだ。


『りぃん』


 やがて音の主が、近くに降り立った気配を感じた。

 リゼータは気力を振り絞りながら、どうにか鉛のように重い目蓋まぶたを開けた。


「…………えっ?」


 するとそこには――――翼の生えた青い猫がおり。

 どこか怯えたようにして、金色の瞳でリゼータをじっと見つめていた。


 驚きを隠さずに、ぽかんと間抜け面をさらすリゼータ。

 夢か幻か。それとも現か。目の前に伝説がいる。幻覚なのかと疑いつつ、リゼータが震える手を伸ばすと、空猫はびくりと身を縮ませる。しかし逃げ出す事はせずに、恐る恐るリゼータの掌を受け入れた。


「…………お前……温かいな」


 掠れ声を唇から絞り出しながら、リゼータは空猫の頭を優しく撫でた。

 すると蒼い猫は安心したのか、甘えるように「にゃあお」と一鳴きした後、掌にその頬に擦りつけてくる。

 愛くるしいその様子を見て、凍り付いていたリゼータの頬が笑みを作った。


 どうしてそれが現れたのかは分からない。

 けれど今のリゼータにとっては、命あるものが傍にいてくれるだけで充分だった。

 その小さな温もりが何よりも心強く――そしてとても愛おしかった。


「…………あっ」


 次の瞬間、リゼータは強烈な虚脱感に襲われる。

 その視界は瞬く間に光を失い、呼吸するのさえも困難になっていた。

 “どうやら本当に終わりみたいだ”と、リゼータは薄笑みを浮かべた。


 そして最期に思い浮かべたのは『あの人』の幻影。

 あの人に愛されたいと。愛してほしいとどれほど願ったか。



『今日はお出かけしましょう。お弁当はあなたの好きな物でいっぱいよ』


『リゼータ。あなたは本当に良い子ね。母さんの自慢の息子だわ』


『母さんはね。リゼータが元気で居てくれれば、それだけで幸せよ』


『リゼータは頑張り屋さんね。そんなあなたが大好きよ』


『愛しているわリゼータ。世界中の誰よりも』



 思い浮かぶのは有りもしない記憶。優しい戯れ言。夢想した母親の笑顔。

 虚りの走馬灯に浸りながら、暗黒の深淵しんえんへとひたすらに落ちていく。

 けれど嘘でもいい。最期くらいは理不尽な現実を忘れさせてほしかった。


 そんな弱い自分を嘲笑いながら、リゼータは今度こそ意識を手放した。

 消えゆく視界の端で、黄金に輝く瞳を捉えながら。






























 ――――深淵なる暗黒の彼方で。


 誰かの呼び声が聞こえた気がした。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


〈作者コメント〉

どうも。クレボシと申します。

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※タイトル(ABYSS×BLAZER)はアビスブレイザーと読みます。ブレザーじゃないですよ。

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