29・疲れました
この空気で『恋バナ』なんていう単語を出してきた私に、こはるが眉間にシワを寄せる。それはそうだろう、彼女にとって『恋バナ』は、同性である葵への気持ちを他人に吐露することに他ならない。それも、親しくもないどころか嫌ってさえいる私になんて、絶対に嫌なはずだ。
ずっと大事に隠してきた気持ちの出口としては、最悪の場所だろう。
「私は、貴方の島本さんへの気持ちを絶対に否定しない。約束する」
こはるの気持ちは多分、私が想像している以上にドロドロしたものに違いない。苦しい恋愛なんて経験したことのない私に、それを推し量ることは出来ない。
でも、私達の間にはあまりにも言葉も理解も足りなすぎて、このままでは悲劇が生まれる可能性がある。そうならないためにも、こはる自身の口からきちんと本音が聞きたかった。
困惑、嫌悪感、理解不能。様々な気持ちがこはるの顔をよぎる。私の考えを探るように細めた目で窺っているけれど、これに関してはこっちも腹を割って話しているのだから、出来ることなら信じてほしい。
無言で見つめあったままでいると、スピーカーからブツブツと小さなノイズに続いて、下校を促す音楽が流れ始めた。もうそんな時間か。これが流れたら、あと15分で校門を出なければならない。
「…………今日は時間がありません」
「え?」
低く呟かれた声へ反射的に聞き返した私に、こはるが不機嫌そうに引き結び、もう一度言った。
「今日はもう時間がありませんから、またの機会にしてください。私も心の整理がしたいです」
苦々しそうに告げたその言葉に、胸の内がぱあっと明るくなった。力技の交渉だったけど、道が開けたような気持ちだ。
確かに、こんな話を急にされても困るだろう。私だって、話を振っておいた側だが、何をどう話すのかを全く考えていなかったのだから、頭を整理する必要がある。
「ええ、ありがとう。話をしても良いと思ったら、いつでも言ってちょうだい」
「わかりました」
掴んでいた腕を離すと、掴まれていた場所をこはるがそっと摩る。痛かっただろうか、申し訳ないことをした。
「考えた結果、話したくないと思ったら諦めてください」
「その時は、改めてもう一度トイレにお誘いするわ」
「やめて下さい、めんどくさい人ですね」
顔をしかめて、心底嫌だという気持ちを隠そうともせず、こはるがため息をつく。今でも嫌いだとは思っているのだろうが、さっきまで向けられていた憎悪は少しだけ和らいでいた。
嫌っている態度を好ましく思うのもおかしな話だが、心に26歳の女性を抱えている私にとって、こはるのその様子は年相応の女の子がふてくされているようにしか見えない。
思わずクスリと笑ったら、「何ですか?」と睨まれた。
「ううん、普段のいい子ちゃんスマイルも可愛いけど、今の酷い顔してる若島さんの方が、私は好きよ」
裏こはるやブラックこはるとでも呼べばいいだろうか。普段の彼女が完全に作り物というわけではないだろうが、こっちの方が素に近そうだ。
嫌いだと罵った相手からそんなことを言われて拍子抜けしたのか、こはるの顔から毒気が抜け、呆れたような眼差しを向けられる。表情豊かで、大変よろしい。
「誰のせいで酷い顔になってるか、わかってますか?」
「ごめん、そうだったわね。私はもう戻るけど、若島さんは可愛い顔に戻してからにする?」
「……そうします」
またね、と声をかけ、こはるを残して女子トイレから出る。何事もなかったかのように廊下を歩いて戻るつもりだったけど、その場でカクンと膝から力が抜けてふらついた。
「あはは、思ったより緊張してたみたいね、私」
こんなことで、こはるとの次の話し合いは大丈夫なのだろうか。いや、でもまあ怖かったもんなぁ。貴女がいなければって言われた時、心臓がキュッとなったし。
とはいえ、別れ際の雰囲気はそう悪くなかった。キレたら刺されそうだけど、話が出来ないわけではないみたいだ。
「はー、紗良に会いたい。癒されたいなぁ」
今朝会ったばかりだというのに、もう顔が見たくなってる。本当になんで紗良は椿ヶ丘になんか行ってしまったんだろう。同じ学校なら、もっと一緒にいられたのに。
帰ったらお泊まり会の日の動画を見て、紗良成分を補給しよう。あと、良質な百合も摂取しないといけない。
まだかすかに震える足を動かし、私は部員達が賑やかに帰り支度をする教室へと戻った。
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