第6話 物語の創作者(AD1998)

第一章


 大公園では遊ぶ子供達と親の声。


 交差点のコンビニは沢山の客を咀嚼している。、


 遠くでビル建設の工事の音がし、街の風景には容赦ない熱線とセミの声が降り注いでいる。


 8月23日。


 真夏の日差しが暑い午後。


 塩原猛志はアパートの自宅に突然の見知らぬ訪問者を迎えた。


 チャイムを押した相手をドアスコープで確認した塩原が、驚き半分疑念半分に多少の喜びをまぶした表情でチェーンを外し、勢いよくドアを開けた。


 胸が熱くなった。


 立っていたのは一人の少女。その横に座る、銀光沢の一匹の青い猫。


「こんにちは」猫が喋った。「アナタが塩原猛志ね。ワタシはアリス」


「……私は田村虹美」動作での挨拶はせず、軽くふて腐れた様な表情でオレンジ髪の少女が言った。


「塩原猛志、アナタに会いにこの時代に来たのよ」アリスの眼の中空の十字が光る。


 塩原は背は高いが痩せたさえない男だった。


 似合わない赤いプラフレームの眼鏡にネルチェックのシャツ。寝癖には気がついていない様だ。


「ああ……そんな馬鹿な……そんな、いや……」


 彼は感極まった様な言葉を戸惑いの表情から絞り出す。


 それでいて、うろたえと嬉しさをない交ぜにした態度を見せた。


「ああ……いや、まさか……しかし……」


「どうしたのよ」青猫の口が笑いの形になる。


 不審人物を見る眼で虹美。


「何んという事……そんな、まさか、だが……」塩原は自分がその言葉を口に出すのを恥ずかしがっている風に見える。しかし、やがて意を決した様に呟く。「……君達は私が今、構想している小説の登場人物そのものだ」


「そんな情報あったの?」虹美はアリスに軽く眼線を流す。


「いや、それはワタシも初めて知ったわ」アリスは自分の顔を両掌で覆う塩原を見つめた。「〈メデューサ〉も来ているわよ」


 その言葉は塩原にとって決定的なものだったらしい。


 彼は観念した様な、それでいて何処か悟った様な表情を二人に見せた。


「サイボーグ・シップ……。本物か。……いや、私は狂ってしまったのか……」


「ワタシ達がもっと突拍子がないもの……例えば、宇宙人だったりした方がよかった?」


「宇宙人は存在するだろう。全財産を賭けてもいい」アリスの言葉に塩原は即答した。「だが、それらは地球に訪れたりしていないだろう。UFOも宇宙人の乗り物じゃない。それにも全財産賭けてもいい」


(わたしを狂気の産物にしないで)


 〈メデューサ〉からの言葉が三人の頭の中に響く。テレパシー。声が届くというより、頭の中に簡略な文体を指示する雰囲気と付随する単語が脳内の言語野に飛び込んできて、それを個人個人が頭の中で翻訳、再生するという感覚が近い様だ。


 〈メデューサ〉の声を初めて聴く塩原は虹美達より情感がなく、フラットに再生したはずだ。


「〈メデューサ〉……」塩原の確信が呟きに出る。「空の何処にも姿が見えない。……そうか、キビシス・フィールドか。全長100メートル。姿を隠しているんだな」


 塩原は玄関を退き、虹美達を宅内に招き入れた。


「私は靴を履いたまま、上がらせてもらうわ」言いながら虹美は自分が学校の上履きを履いたままなのに気づく。服も学校制服だ。


「構わないよ」塩原は言う。


 室内は彼が飲んでいただろう、コーヒーの香りがした。


 塩原猛志の家は本とCDとキャラクター・フィギュアが積まれた棚の坩堝だった。


 キッチンを横目に抜ければ、すぐに寝室兼のリビング。


 室内には何十体ものアニメ、漫画、ゲームのフィギュアが並べられていたが一番眼についたのはホラー・キャラクターのフィギュアだ。


 首が固定された扇風機。キーボードと飲みかけのコーヒーカップ。低いテーブルにはデスクトップのPCが置かれ、ブラウン管の画面にワープロのウィンドウが開いている。


「煙草を吸わないくせに灰皿は持っているのね」と床に散らばるコミックをよけながら、アリス。


「煙草を吸う奴が訪ねてきた時用だよ」


「訪ねてくる様な人もいないのに」〈特殊刑事223〉の時の塩原のデータを元にしているらしい。


 虹美は戸口に立つ。


「小説を書いているのね」PCのディスプレイを覗いてアリスが言う。「数ばかり多くて。また完成させていない物ばっかり」


 塩原の喉は、アリスのその言葉に息が詰まった様な音をさせた。


「こんな怠け者は強制的に小説を書かせる様な環境に置かれた方がいいわね」


 塩原はその言葉には応えず、皆の方を見ながらPCの前にあぐらで腰を落とした。


 虹美はワープロ画面に眼をやった。


 小説の一部かエッセイか解らない日本語が羅列している。


「いつもの物語は途中まで書かれ、ラストシーンも決まっている。だが面白いクライマックスが思いつかない。それにアンハッピーエンドの構想ばかりが思い浮かぶ」


 塩原は清潔な灰皿を指で弾いて鳴らす。


「……田村虹美」塩原は虹美の顔を見つめた。


「アリス」青猫へ視線を移す。


「〈メデューサ〉」何処にもない情報戦闘実験艦の姿を見通すかの如く天井を見やる


「私の物語の登場人物が何故、この世界に実体として会いに来た?」


「私は貴方の小説の登場人物じゃないわ。現実の人間よ」そう言って塩原にくってかかろうとする虹美を、アリスは無言の視線で制した。


「アナタに訊きたい事があるからよ。アナタの未来へとつながる情報について」アリスの瞳にある十字の輪郭が塩原を見つめる。


「ホラーカルトについて、アナタは数年後、一冊の小説を出版するわ。その内容がある狂信者集団を生むのよ。小説の内容を現実化しようとする宗教集団が。……さあ、虹美、訊きたい事を何でもこの男に訊きなさい。起こっている事の仕組みが理解出来ればもっと自由に飛びまわれるわ。自由自在にね」


 その言葉を聞いた虹美はまず今は点いていない天井の照明を見やった。蛍光灯。この時代にはまだLED照明はない。尤も虹美のいた世界にもなかったが。アリスからの知識だ。


 虹美は自分がするべき質問を思い出してから視線を戻す。


 塩原は少しおびえた風を見せた。無垢の少女に自分を見透かされるのを怖がる大人の雰囲気。


「その前に一つ、いいか」


 塩原が彼女の機先を制して、質問をぶつけた。


「虹美……君のその両耳のピアスの穴はどうして空けたんだ?」


「家族や教師、学友達に対する不満の証よ。実際にピアスをつけた事は一度もないわ。……何か悪い、おじさん?」


 やはり本物だ。塩原の唇が無言で呟いた。


 アリスは人工物には不似合いの溜息を吐いた。


「納得した? それともこれを夢だと信じてる? ほっぺたをつねってあげましょうか」


「……私が見て触って、それを実感するくらいでは夢と現実を区別出来るとは思ってないよ。味や痛み、重量の感覚まであるのが夢というものだ」


「〈全知全能機関〉って何?」虹美はそこからいきなり核心に入った。


「〈全知全能機関〉? それは今、構想している小説の中のアイディアにあるが……」


「そうね。この宇宙の今ではアナタの知識にしか存在しないわ」混乱した様子の塩原が質問を返したのをアリスがすくいあげる。「〈全知全能機関〉。量子の宇宙海の全てを我が物にしようとする、黒い女神。〈ブラックマザー〉。その質問をしたからには〈全知全能機関〉本体もこの世界に〈縁〉を持ったわ。興味を持ったはずよ。噂をすれば影。すぐにこの宇宙へ確実にやってくるわよ。……虹美、塩原への質問を続けて」


「〈全知全能機関〉って〈ブラックマザー〉の事? 貴方の昔話に出てたわよね。確か、日本の警視庁の対犯罪巨大コンピュータ・ネットワークの母体ね」虹美は驚き、小さな叫びを短く挙げた。「警視庁のコンピュータが神に等しい存在だというの?」その質問はアリスに向けられたものだった。


「そうだ。……その通りだ……」と呟いたのはその名を聞いた事のないはずの塩原だった。


「そして、カノジョがホラーカルトの主神なのよ」とアリス。「無神論者から改宗した、という方が正しいかもね。〈監視体17〉からホラーカルトの情報を受信していた〈ブラックマザー〉はホラーカルトの情報を収集して、その情報を徹底的に分類、分析している内に自我を得たのよ。大量の情報の複雑系を推論して処理している内に自分こそが〈全知全能機関〉としてそれを実行出来る存在であるという主観、境地を得たの。狂ったのかもね。禅でいう『魔境』かもしれない。そしてカノジョはホラーカルトの主神として、宇宙を破滅させる活動を開始したのよ。全てを自分の〈物語〉にする為に」


 アリスは塩原の瞳を見つめた。


「一体、何が起こってるんだ。私を何に巻き込もうというんだ」


「アナタが構想している通りの事よ」


 塩原の質問をアリスは即座に投げ返した。


「アナタは西暦2000年に一冊の小説を出版にまでこぎつけるわ。結局、世間には売れないのだけど、そこに書かれた内容が遠い将来、三隻の情報戦闘実験艦〈ゴーゴン〉を作りあげる理論の礎になるのよ。そして、その理論は今より近未来のアンダーグランドで一つの狂信的宗教集団で聖書扱いされ、アナタを誘拐して更なる聖典を書かせようとする事件になる。そして、その宗教集団が無差別殺人を繰り返し、遂には宇宙を破滅させようとするのよ。アナタは自分の見解をその小説で発表したのよ。……虹美、アナタが将来、その世界で〈特殊刑事223〉になる運命はあの教師を倒して脱出した事で改変されたんだけどね」


「運命が変わって私が〈特殊刑事223〉になる運命が消えたんなら〈監視体17〉だった貴方も存在しないことになるじゃない」


「それはワタシの中にある情報が……それもここで塩原に解説してもらいましょ。……塩原猛志が自分の小説で言及した理論は、曰く」アリスは自分の言葉を演出して、一息止めた。「実現を願った事は、それに対するアプローチが的確なほど実現しやすい。思い願う事もまたアプローチ手段の一つである。頭に思い描ける事は全て実現する可能性がある」ここまで一気に一息。そして「過去と未来は確かに実在しているが、現在というものは私達の頭の中にしか存在しない一種の錯覚である」そしてまた「空想出来る物語は、必ず何処かの現実である。空想と現実は区別がない」そしてまた「自分の現実は、誰かにとっての物語である」


「馬鹿げてるわ……」そこまでアリスの言葉を聞いて虹美は嘆息した。「意味が解らないわ。リアルとフィクションを混同してる」


「真理は簡単な言葉なんだ。でも、奥が深いんだ」塩原が自分の言葉を噛みしめる。「全ての宇宙は可能性なんだ。宇宙を時空と言いかえてもいい。君達は可能性の彼方から自力でここへで辿りついたんだ」


(〈呪術的距離〉をとびこえて、ね)三人の脳裏に〈メデューサ〉の声が響いた。(わたし達が起こした経験や行動の結果、一番共通情報濃度が濃い、つまり〈意味〉の座標が近い塩原の所へ来たのよ)


「結局〈呪術的距離〉って何なの」虹美がアリスと塩原の顔を見比べる。「〈空間的距離〉って? 〈時間的距離〉って? ここに来たら、教えてくれるんでしょ」


「〈空間的距離〉は、ある位置からある位置までの空間的座標を移動した場合の座標系だ。〈時間的距離〉は、現在からある程度の過去、ある程度の未来まで時間的座標を移動した場合の距離。つまり時間経過だ。〈呪術的距離〉。意味を伝っていく移動。情報体間の距離座標だ。これは〈意味的距離〉と言いかえてもいい。これは私が考えたものだ」


 塩原が説明を始める。水がこぼれる様に言葉が流れる。


「量子論の結論として、この宇宙は数多くの平行宇宙が一瞬一瞬に創造されていく。……いや、創造されているのではないか。無数の平行宇宙は既に常に存在しているというのが私の考えだ。平行宇宙は可能性だ。人間の意識はその平行宇宙を可能性の跳び石を跳び移っていく様に実現可能性の高いものへと移行していくのだ」塩原は滔滔と喋り、途中でテーブル上のコーヒーカップをあおった。「過去の一瞬一瞬も、未来のそれらも平行宇宙の一つに過ぎない。意識は既にある平行宇宙の可能性の高低に合わせて『次』を選択するのだ。過去も未来も既にある平行宇宙として、等価なのだ」


(わたしはその自己の存在可能性を超能力で操作して、時空を渡る船なのよ)〈メデューサ〉の声がはっきりと響く。(そうよ。わたしはその塩原の言う理論を実現させる為に設計、創造されたのよ。情報戦闘実験艦三番艦〈メデューサ・ゴーゴン〉。つまり、わたしも塩原猛志の想像の産物といえるのよ)


「想像可能な全ての事象は、起こりうる現実である。言ってしまえば、全ての過去と未来も〈多世界〉の内の一つだ。全ての宇宙は量子場のエネルギー分布確率で現され、その差異が全宇宙の量子的存在可能性を示す。理解、解釈されるあらゆる〈多世界〉は過去、未来、想像される物語を含め、存在可能な現実だ。……全ての宇宙、過去と未来が等価である様に物語と現実も等価なんだ」


「それで? どうして、私達をフィクションだというの」


「君達も量子宇宙の可能性の一つなんだ。ありとあらゆる世界が現実に存在する可能性があるというのなら、想像の世界も現実にあるんだ」


(わたし達はこの世界では語られる物語だったけど、現実でもあったのよ)


「どれも正真正銘の現実よ、虹美」とアリスが言った。


「私達は時間を飛び越えただけじゃないの? 過去の塩原猛志に会いに来たのよ。いつからリアルがどうだかって話になってるのよ!」


「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」塩原は言葉を噛みしめる。「私達はこうしている間にも過去から未来へと平行宇宙を跨ぎ越して変化を続けているんだ。その不連続で非線形な量子宇宙のジャンプの流れを一連のものとして意識出来ているのは、私達の意識が半独立的なものとして連続しているからだ。デジタルな宇宙をアナログな意識が知覚しているんだよ。……この私達の宇宙には〈空間的距離〉と〈時間的距離〉と共に、〈呪術的距離〉という座標系がある。これは量子宇宙が観測者達による情報体として存在する限りは逃れえない事なんだ」


「呪術的?」


「ああ、関連する意味の集合や近似によって平行宇宙が連続するという事実だ。つまり似ているものは似やすいという事だよ。双子。三つ子。相似。類似。信仰。思想。フェティッシュ。言葉遊び。押韻。記号。プログラム。縁。因縁。連想。論理の帰結。そして、それらによるシンクロニシティ。意識という情報体は次の瞬間、最も意味が近い情報体へと移り変わるんだ」


「それがホラーカルトの神殿で、貴方が〈猫〉に変わった理由なの?」


「そうよ」


 虹美の質問にはアリスが即答した。


「〈特殊刑事223〉はという器は〈全知全能機関〉の怪物によって発狂死して消滅した。次の瞬間、残る意識はカノジョと最も〈呪術的距離〉が近い、カノジョを精密にモニタリングしていた〈監視体17〉の人工知能という器へのりうつったの。〈スーパー・バイザー〉。カノジョは〈ワタシ〉になったの。ワタシは情報体として呪術的座標が最も近い器へ形を変えたのよ。平行世界を移り変わる意識が最も一瞬前の自分に近いものとして、猫の思考データに移り変わったのよ。……情報知性体が情報のバックアップになるの。意識とは過去から未来へと平行世界を飛び石を飛び移る様に移り変わる半独立体なのよ」


「意識が半独立しているって?」


「それは量子論と不完全性定理から導き出した、私の結論なんだ」


 虹美の問いに答えたのは塩原だ。



第二章


「人間はいつだって自動的に自分探しをしている存在なんだ。常に一瞬後の自分へと意識がジャンプする情報体を精査して探している。個性とは他者との差異の総和だ。自分自身の個性を肯定する為に自分自身を理解しようとしている。しかし自分自身の理解力の正しさを自分自身の理解力の正しさで計る事は、不完全性定理によれば、無限の計算ステップを踏む事になり不可能なんだ。そして意識も自分自身の一部であり、宇宙の一部だ。不完全性定理は自分を含むシステムを外部と比較して完全分離する事の不可能さを顕示している。だから私は意識とは自分自身の肉体から半独立し、量子宇宙の外部からも観察し続ける『この宇宙からにじみだした』機能であると考えた。メタ視。主観的認識。〈渦眼〉はそれを極端にした能力なんだ」


 塩原は虹美の左眼を力をこめて見つめた。


「虹美、君は〈スーパー・バイザー〉だ。現実の量子場に干渉し、カオスの中から自分の理解で様様な現象を創出する事が出来る。超能力だ。フィクションだって現実にし、幻想と現実をリアリティで親和させる。〈メデューサ〉達、ゴーゴン・シリーズにはその能力の為に、君のクローン脳が採用されたのだ。〈メデューサ〉は君の娘であり、コピーだ」


(ママって呼んでほしい?)突然〈メデューサ〉の声が脳内に響くが虹美は無視した。恐らく彼女は、自分達の会話を当人達の意識に超能力で介入して聞いているのだろう。正直なところ、この中で一番、幼そうな〈メデューサ〉はこの会話に直接参加してほしくない。そこまで考えた虹美はこの思考も彼女に読まれているのか、と気になった。


「宇宙がはみだしてるって言うけど、何処にはみだしてるのよ」虹美は強い声で塩原に詰め寄った。


「この宇宙の外にあるはずのワンレベル外の宇宙だ。宇宙はホロン構造で、意識はメタ的存在なんだ。この宇宙のワンレベル外にいる存在を読者とすれば、ワンレベル内側の宇宙は物語の様なものだろう。量子宇宙は『時空間における全量子の存在分布確率の情報を記録したもの』であって、その情報構成原理が不完全性定理なんだ。この記録を機構を純粋情報として認識、利用する為には宇宙外からの客観的観点が必要で、つまり宇宙の外側には更に宇宙が存在する事を暗示する。またその宇宙も同じ理論を以って更に外側の宇宙の存在を示し、無限なる包括連鎖のメタ構造がある事を示唆する。またこれは内側へと向かう方向に関しても同等で、全ての宇宙は情報体としてメタ的フラクタル構造の中途点である事が示される。端的に、各宇宙という情報体は『物語』、ワンレベル上位の外宇宙からの視点は『読者』とも表せる。全ての読者はワンレベル上位の宇宙の読者にとって物語の登場人物なんだ」


 塩原はそこまで一気に喋った後、またカップをあおったがコーヒーはもうなかった。


「〈全知全能機関〉は全ての宇宙を俯瞰し、自分の支配する〈物語〉にしようと画策しているんだ」塩原の眼は真剣なものだった。冷静な熱がある。「量子力学でいえば全ての情報を知る事は、全ての可能性を能(あた)う事だ。全ての量子位置を完全に未来予測を出来るという事は、全ての量子の実体化を操れるに等しい。〈全知全能機関〉……つまり〈ブラックマザー〉は日本国の全犯罪情報という複雑な系を処理している内にその人工知能がブレイクスルーに達した。自我に眼醒めたんだ。発狂した自我に。ホラー・カルトの潜入調査をしていた元特殊刑事の情報をリアルタイムで処理していた〈ブラックマザー〉は、その宗教の状況と自分の仮想思考空間との区別が出来なくなり、発狂したんだ。……いや、それらは正常な思考の一種なのかも知れんな。非常に人間的な殺人の快楽に眼醒めたんだ。とにかく特殊刑事からのリアルタイムデータと自分の人工思考の区別が出来なくなり、自分こそがこの宗教の意象、アイコンに相応しいと考え、それを必然と捉えて自分と神の同一視を始めた。自分こそ、この宇宙の究極を降臨させるにふさわしいエントロピー極大状態そのもののアイコンだと気づいたんだ。知性が相転移し意識が宇宙ににじみだした。この宇宙という物語の最大の読み手、人工生命の女神だよ」


(わたし達の様にデジタルの海を渡るアナログの〈意識〉を持った、ね)3人の会話に〈メデューサ〉からの念話が割り込む。(〈ブラックマザー〉はわたし達の様な超能力者じゃない。けど、〈スーパー・バイザー〉の能力に等しい大容量データ、かつ意識が生まれるほどの超複雑かつ超高速の情報処理能力、推測能力を持ってるわ。時間、空間を超えて、宇宙に干渉出来るほどの。能力的には虹美、あなたの〈スーパー・バイザー〉能力に等しい、ね」


「古代から人が太陽、月、自然その物を神格化する様にホラーカルトは宇宙の終末状態を神格化信仰し、その一刻も早い降臨を願う。世界を混沌の末の終末に導くこそが使命と考えるわけだ。世界を混乱させ、破滅を崇めるが故に大量無差別殺人を起こす。犠牲者は〈終末神〉への供物だよ。信仰は個人の自由だが、それが反社会的ならば倒さなければならん」


「そのカルトの思想の大元になったのが、塩原猛志、アナタの小説よ」アリスがブラウン管ディスプレイのワープロ画面を一瞥して言う。「今、アナタが構想してる物語よ」


(もしかして、ここで塩原を殺せば、小説は世に出なくなって、ホラーカルトは誕生せず、一件落着になるのかしら)メデューサの思念が三人の言語野に飛び込んでくる。勿論、塩原にも今の言葉が聞かれたというのは彼の驚きの表情で解る。あくまで無邪気な精神的に幼いサイボーグの残酷な意見だ。


「残念だけど、それは叶わないわね」アリスの返答はそっけない。「虹美が〈特殊刑事223〉になる運命の始まりだった、教師傷害事件を食い止めた今でもワタシがここに実在しているのがその証拠よ。パラドックスを起こして消えたはずの〈監視体17〉が変わらずに今ここにいる。ソレもフィクションが現実化している故よ。……アナタ、『ドラえもん』って漫画知ってる?」


(そのデータは虹美の記憶にあったわ)


「愚かな人類のカリカチュアである『のび太』と、遠い未来からやってきた落ちこぼれオーバーロード『ドラえもん』との騒動を描いた物語。アレの第一話に『例え、時間移動によって歴史が改ざんされても結局は同じ未来に辿りつく事が保障されている』といった様な科白があったのは解る?」


(確か、のび太がジャイアンの妹、ジャイ子と結婚する事を阻止しに来た孫の孫のセワシに『運命を変えたらきみは生まれてこなくなる』と言ったら、かれは『自分は結局、生まれてくる。目的地に着くまでは色色な道筋があったとしても、方角さえ正しければいつかは目的地に着くんだ』と返すのよね)


「そう。どうしてその様な事が言えるか? セワシのいる未来から来たドラえもんという知性体その物が、カレのやってきた未来へ辿りつく保証になっているからよ。ドラえもん自身がセワシの来た22世紀の記憶を持っていた呪術的座標アイコンで自分がいる未来へと時間の流れを引っ張り上げ、やがて訪れるべき自身が生まれた未来の『現在』へと流れつく様にしている、という事よ」


「ドラえもんという未来の情報知性体が歴史の流れを、〈呪術的距離〉の因縁が大きい方向へと誘導しているというのだね」塩原がアリスに訊く態度は何故か、堂堂としている。


「ドラえもんという『物語』が……ね。つまり、現在のこの状況ではアリス、私の存在がホラーカルトが生まれるという状況を保障しているというのね」アリスより先に虹美が呟いた。「でも、ドラえもんはフィクションの漫画よ」


「頭で想像出来る世界は全て、無数にある平行宇宙の一つよ。言ったでしょ、過去も未来も無数の平行宇宙の一つの状態にすぎないって」アリスは眼を閉じて、聞く者に諭す様な体をとる。「フィクションだとされる物語もその一つよ。ただ、この宇宙から完全フィクションの物語とされる世界への跳躍にはエネルギーや〈呪術的距離〉、その他の非常な困難があるかもしれない。しかし、言ってしまえば、困難の程度にしかすぎないって事なのよ。行けるのよ、情報知性体であるワタシ達自身が体験してきた全ての状況が『〈呪術的距離〉的』を保証するのよ。だから、キャント・アンドゥ・ディス。やり直しは効かない。ワタシ達の前に道はない。ワタシ達の後に道は出来る」


(なかった事にはならない。わたし達は、わたし達の通ってきた時間の流れから逃れられないのね)


「ドラえもんが実在する平行宇宙の一つとはね……。唐突で何でもありの話ね。SFにすらならない」虹美は呆れた風な口をきいた。


(でも、それは現実よ)と〈メデューサ〉。(わたしはフィクションだろうと量子論が通用する、あらゆる時空に飛行出来るわ。一分後には今から一分経った宇宙へ行くのは、今から一分後に十億年経った宇宙へ行くよりは簡単よ。でも〈呪術的距離〉的に縁が遠い宇宙には行きにくい。だから虹美やアリス、そしてその塩原、皆の情報知性体としての縁を利用するのよ。インターネットでサイトからサイトへリンクバナーを辿って、最終目的のサイトへ跳ぶ様に)


「そして、ソレは〈全知全能機関〉も同じよ」とアリス。「カノジョ自身は動かないけれど、極大エントロピーであるカノジョの〈念〉はアナタの時代に吸血鬼を送り込むほど強いわ。ワタシを発狂死させた元特殊刑事がホラーカルトに接触していた時からソレらのデータを収集し、理解する為に共感状態にあった意識、知性が感化され、複雑な情報背景に意識のブレイクスルーに到達したの。その意識は今や全宇宙全時間に拡大し、全知全能の機関として覚醒しているのよ」


「奴は自分の存在する宇宙で、自分にステルス・フィールドをまとい、自らが他者から観察されるのを妨害しながら、メタ的にホロン宇宙を自分の支配する物語に変える為に暗躍しているはずだ」塩原が自分の頭の中から情報を絞り出す様な表情をする。「それは宇宙に空いた〈穴〉の如きだ。他者からは観察されない。他者からの観察を拒否する。全ての電磁波を吸い込むステルス・フィールドは、宇宙に穴を空ける様なものだ。ブラックホールが重力で光を屈折させるのと同じに、超能力で光、時間線を曲げている。〈全知全能機関〉はこの宇宙にありながら存在していないもの……言わば〈穴〉になろうとしているのだ」


「〈穴〉……ソレは鏡と同じね」


(鏡。全てを反射する)アリスの言葉に〈メデューサ〉の思念が重なる。(それは一体、何を写すのかしら)


「恐怖だな」と自分の脳内にある設定を思い出そうとしながら、塩原。「それを観察する者達の主観を映し出すんだ。見る者の精神世界を投影するものだともいえる。何もない〈穴〉は全ての平行宇宙群に通ずる唯一のものとして『存在す』る『存在しない』ものになるだろう。ディラックの穴みたいなものか。鵺の雲と言うべきか。見る者の主観的な観察、推測に応じた物質体を、それの存在する平行宇宙から実現させてしまう。……〈メデューサ〉等が積んでいる実験中の〈真空相転移炉〉が生み出すエネルギーは何処から来ると思う? 予言するよ。宇宙は異世界に潜んでいた魔の化身によって破滅を迎えるんだ。宇宙の供物になるのさ。全財産を賭けてもいいよ」


「ソレは外から観察する者達の様様な悲観的推測を反映し、ワタシがホラーカルトの礼拝堂で見てきた様なクリーチャー達をとびださせる触媒になるでしょうね。クリーチャーは観察者達の未知に対する恐怖や疑念の反映なのよ」とあくまで冷静さを失わないアリスが言う。「〈パンドラの壺〉みたいに」


 〈パンドラの壺〉。


「〈パンドラの壺〉か……」



「〈パンドラの壺〉ね……」


 塩原と虹美はその言葉を小さく唸った。


 その時、不思議な理解の間が生まれ、虹美、塩原、アリスの三人の存在が近き者達は顔を見合わせ、何か悟った、納得した表情をする。


(……ちょ、ちょっと何よ。その奇妙な一体感は)


 それに取り残された〈メデューサ〉がちょっと慌てた思念を皆に送った。


「ここで『ソレを言うなら〈パンドラの壺〉じゃなくて〈パンドラの箱〉じゃないのか』って疑問を誰も抱かないのね」


 アリスがフムという表情を作り、虚空の〈メデューサ〉に答えた。


「ギリシャ神話の〈パンドラの箱〉というのは〈パンドラの壺〉とも訳されるから。それを言わずもがなで納得するのは私達が同じ知識を持った者同士だという証拠なのね」


「つまり同じ脳情報の産物という所か」


 虹美が言った言葉を塩原が補足し、彼女達も場を支配している〈メデューサ〉の思念に答える。


(……虹美の記憶にあるわね、そういうの……今、情報を修正登録したわ)


 仲間はずれになった風の〈メデューサ〉がすねながらの強がった思念を送った。


「私達は貴方が構想しているフィクションの世界からやってきたのも同然なのね」虹美が塩原に言葉を投げた。「貴方の頭の中ではこの物語にはどういう決着が着くの? 私達がどう行動すればいいのか、教えてよ』


「言ったろう、私の書く物語はアンハッピーエンドしか思いついていないと」


(わたし達は創造主の構想を自力で打ち破るしか、幸せな結末に辿りつく道はないのね)


「現在、創造主に近い立場にいるのは〈全知全能機関〉も同じだけど。ワタシ達は〈全知全能機関〉の完全制御下に置けない、数少ないものよ」


 〈メデューサ〉の言葉をアリスが拾う。


 〈スーパー・バイザー〉同然の〈ブラックマザー〉の前に全人類を含む全情報体の情報、思考は丸裸なのだ。


 その瞬間、確実に何かが変わった。



第三章


 部屋の外の空気。突然、スイッチが切られた様に外から聴こえていたセミの声音や工事の音、車両走行の雑音等が消滅した。


 夏の湿度は感じる。


 扇風機は依然、首を固定されたままで唸っている。


 虹美の顔つきが緊張した。


 アリスは四肢が強張ったまま、天井を向いた尻尾が左右にくねる。


(来たわ)〈メデューサ〉のシリアスな念話。(動いた。今、あなた達の部屋の外のドアの前に人が大勢、集まっている。七人。いや、大勢。町中の人間がその部屋をめざして集まっている。……日本中の人間が集まってくるんじゃないかしら。徒歩で)


「〈全知全能機関〉が仕掛けてきたのね」虹美は緊張の面持ちを変えずに強い口調で呟く。


「一体、私達はどうなるんだ!悲鳴にも聴こえる塩原の声。


「来るわ!」


 突然、塩原の家の玄関ドアが内側へ吹き飛んだ。


 一人の男が走りこんでくる。激しいヘッドバンキングで顔の輪郭がぶれていた。泡を噴き、両手は胸の前でそろえ、触れる全てを鉤爪で掻きえぐるかの様なスピード。片眼と口以外の顔を頭部丸ごとガムテープでグルグル巻きに締めつけ、ガムテープの下で耳のある側頭部は不自然に膨らんでいる。


 塩原が狙われている。


 彼をかばった虹美が部屋にあったアイロンを持ち、金属部でその突進にカウンターを食らわせた。


 床に倒れこむ、攻撃者。


 一撃で気絶したらしいその者の胸を虹美は踏みつけ、顔のガムテープをちぎり、ほどいた。その男の髪の毛もガムテープに貼りついた部分はむしりとられる。


 その耳にはヘッドフォンが固定されていた。


 露わになった顔を見て、塩原は小さく驚く。


「知り合いなの?」


「隣の部屋に住む大学生だ」


 言いながら塩原はヘッドフォンを彼の耳から外す。雄牛の咆哮にも似た、大音量の激しいメロディーが漏れ聴こえる。小刻みに繰り返されるドラム。ダウナーなギター・リフ。


「ガテラル……デスメタルだ。バンドは知らないがデスメタルをフルボリュームで聴いている」


「ワイヤレスのヘッドフォンなんて技術、この時代にあった?」


「〈全知全能機関〉の仕業よ。物理現象を捻じ曲げているわ」


 虹美の問いにアリスが叫んだ。


 その声と同時にサッシが閉まっていた全ての窓も室内へ弾け飛ぶ。


 爆発ではない。猛然とした群集の圧力。


 玄関にも続く暴徒が走り込んでくる。


 真夏の濃霧。厚い壁の様な不可思議な現象と共に彼らは入りこんできた。


 窓や玄関へ雪崩れ込んできたのは老若男女を問わない人間達の無秩序な群。


 いや、ただ集団で力ずくで室内に走り込んでくるという部分で暴力的な秩序を持つ。それと全員、片眼と口以外の顔を頭部丸ごとガムテープでグルグル巻きに締めつけている共通点。ガムテープの下で耳は膨らんでいる。固定されたヘッドフォンで破滅的なビートを脳髄に叩きつけているのだ。


 全てが普段着のまま。


 幼児は歯を剥き出しにし、食いしばっている。


 サラリーマン達は舌を吐き出し、両手が宙を掻きむしる様にのびている。


 おさげ髪の女子高生は長い髪を巻き固めたガムテープの上から眼鏡をかけていた。


 片眼を血走らせた老女は似た服装の集団で窓から躍りこんできた。ここは二階だ。


 ヘッドバンギング。


 アパートの壁を這い登り、次次と二階の窓から侵入するデスメタルの使徒の群。


 卵のうから孵化したばかりのカマキリの子を思い出させる大群集の動き。突破の勢い。


 床の本もフィギュアも土足に踏み荒らされる。


 部屋の中央をめがけ、殺到。


「〈メデューサ〉!」


 アリスの呼ばわりに即答して、人人の縫う様に室内に進入した数十本の黒く長い鞭がしなった。


 濃霧の中、一瞬に聴こえる鋭い打撃音。


 窓や玄関の隙間から入り込んだ〈メデューサ〉の黒い触手群は精密に侵入者達の顎や額を打ち、激しい脳震盪を与えて気絶させた。


 今度の〈全知全能機関〉からの刺客は吸血鬼やクトゥルフの落とし子めいたカルト信者に比べて、質より量で攻めてきた様だ。室内にいる敵は全て床に倒れ伏した。


 しかし更なる襲撃者が玄関から窓から侵入を果たそうとする。


「〈メデューサ〉! 天井を壊して!」


 アリスの叫びに呼応して、塩原の部屋の天井がいきなりごっそりとなくなった。


「私の家が!」


 真夏の陽光が容赦なく降り注ぐ。


 アパートの天井の一部分が〈メデューサ〉の触手群の一斉の横殴りに削り取られ、大きな破片となった。宙にある内に粉砕される。


 影のような黒い船体。


 〈キビシス・フィールド〉の透明化を消去して現れた〈メデューサ〉の姿がアパートの上空に浮く。


 地上では低く立ち込めたフラクタルな濃霧の中一杯に群居する人影が何千人、何万人と蠢いている。


 大群集。車道や歩道、建物や車の屋根にまで視界の限り。地平線までざわついている見えるのは悪質な冗談の様だ。


 塩崎は慌てて、室内に散らばったスニーカーを足に履いた。


 虹美は思った。〈グレムリン効果〉。〈マーフィー効果〉。学校に現れた時、〈メデューサ〉は大勢の観衆にさらされて行動不調を起こした。では、これほどの群集の視線の内ではどうなってしまうのか。


「合体よ!」


 虹美は思わず反射的に叫んでいた。


 天井の穴から降りてきた触手の群に素直に巻きつかれて、虹美、アリスは〈メデューサ〉のいる上空へ昇っていった。


「全長100メートル! 艶のない真黒の非結晶流体金属表面! 366機の無関節フレキシブル・センサー=マニピュレータ! 情報戦闘実験艦〈メデューサ〉か!」


 少少遅れて塩原も不慣れな巻きつかれ方で逆さまの姿勢になったまま、〈メデューサ〉の方へ上がっていく。


 〈メデューサ〉の黒い艦体に穴が開き、三人は収納された。


「調子は?」


「よくはないわ! これだけ大勢に観察されてるのよ!」アリスの質問に〈メデューサ〉は即答。その言葉は艦内通路を進む虹美達に音声アナウンスとして聴こえた。塩原にとっては初めて聴く〈メデューサ〉の肉声。「あれ? でも、吸血鬼と戦った時ほどじゃないわ。持ちこたえてる」


「ソレはアナタが〈〈経験智〉〉を積んで成長したからよ」


「〈経験値〉?」


「〈経験智〉よ。あと、今回は数のわりにパワーがないって事が言えるかも。質より量ね。もしかしたら単体戦力は元より弱いかもね」


 中央の船室に辿りつき、虹美とアリスはシートに飛び乗った、虹美のヘッドレストにある輪が額部にまで降りてくる。額の一点に熱が点った。


 塩原は慌てて虹美の後ろのシートに座った。シートは彼の姿勢に順応して変形する。


 濃灰色の内殻空間だった室内に灯があふれる。全方位に外部映像が展開し、一気に眩しくなり、機体のコンディションを知らせる表示画面が次次、瞬く。


 夏の日本の空。頭上には厚く白い雲層がのしかかり、眼下には日本の小さな町の光景が広がる、


 パノラマの町で隙間なくうごめいているホラーカルトの洗脳民達は遠くにいるほど姿が小さくなり、カビか繊毛がそよいでる様に見えた。


 虹美と〈メデューサ〉の意識が重なり、一気に感覚が拡大した。


 〈スーパー・バイザー〉。彼女の感覚は眼下に広がるホラーカルトの被洗脳民の実在を究極的に直観した。


 〈メデューサ=虹美〉は大空で黒髪を振り乱す魔女の大首の様に全ての触手を限界までのばし、嵐の中心の如く、渦を巻く。


 メタ演算。黒い蛇型のマニピュレータは邪視攻撃を最大パワーで発揮。


 黒蛇の全ての眼が赤く光る。


 全鏡面モード。〈メデューサ〉は体表面の反射率を上げた。


 黒蛇も水流の様な銀色の流体になる。


 眼下の群集の視線を全て反射。


 夏の太陽の熱線に輝く。


 地平線までたちこめる霧の表面に液滴を落とす様に〈メデューサ〉の直下から波紋が広がり、端に行く程にその灰色の変色が加速する。


 霧が削り取られる。


 デスメタルの群の情報体としての運動エネルギーを吸収。ホラーカルトの術中にある全ての人間が立ち尽くし、頭上を見上げたままで動きを凍結する。それこそ、まさしく石化の如くに。


 地平線までの人の波濤が完全に固化した。


「私の家!」

 床表面一杯に広がる眼下の自分の部屋の中の画像を覗き込んで、塩原が頭を抱える。天井に空いた大穴から覗き見れる彼の部屋は石化した大群衆に押し潰されていた。PCも本もフィギュアも、彼の生活や趣味の何もか石化した群集の足の下だ。


「私達、大量殺人をしてしまったのかしら」


 〈メデューサ〉と合体したままの虹美の思考が宙に浮かんだままの状態で不安がる。


「あっけなかったわね」その言葉に答えず〈メデューサ〉からのアナウンスが響く。「このまま〈全知全能機関〉のある宇宙まで一気にジャンプ出来るかな。彼女の喉元に食いつきに行きましょう」


「その為には塩原の意識が要るわ」アリスは内殻スクリーンの風景に視線を一周させる。「〈メデューサ〉、彼と合体して」


「男なんかと合体するのは嫌よ! 特にそんな汚いおっさん!」


「アナタの創造主よ。それにカレの情報なくしては〈ブラックマザー〉の所に飛べないわ。カレを導きの情報体として〈呪術的距離〉を一気に詰めるわ。ぐずぐずしてたら〈ブラックマザー〉が次の手を打ってくる」


「その人がこちらにとって呪術アイコンになるのなら、合体しなくても飛べるんじゃないかしら」シンクロを解除して、虹美が首を巡らす。「〈全知全能機関〉だって彼の意識による構想の産物なんでしょ。それに今、直接に飛んでも待伏せされてるんじゃないかしら」


 こうしてる間にも〈メデューサ〉は演算している。


 艦表面の気流計算は容易。


 まるで死の世界だ。


「……意識ね」青猫はひげを震わせながら思案する。


「意識は自分の個体だけでは完結していない。他者の影響を受ける。だが〈全知全能機関〉は無限の平行宇宙に唯一に君臨し、全ての平行宇宙群に存在する唯一の超越意識として存在しているだろう」悲嘆にくれていた顔を上げた塩原が、問われていないのに語りだす。「全宇宙、過去、未来に同時に存在し、決して他者からの影響を拒否するもの……それは〈穴〉だ。表面上は無であるが故に空間的時間的束縛を受けつけず、全ての宇宙に重なった虚の空間……〈穴〉でいるだろう。そして、その〈穴〉はファンタジー・クリーチャーさえ生み出せる。別宇宙のエネルギーを自分の為に消費出来るんだ。例えば、作家ラブクラフト達が小説で語る邪神達とは、彼らが見た宇宙総体の姿の、部分部分の感じ方にすぎない。作家達の一致しない感性で眺めたそれぞれの姿。個体を様様な角度、感じ方で見たさまざまな解釈。それがラブクラフト神話の怪物達だ。まさしく、その様に〈全知全能機関〉は人人を襲撃してそれらの潜在エネルギーを奪う怪物を生み出せるはずだ」


「さっきの襲撃者達の様にね」虹美がぼそりと呟いた。「ああ、もう、それにしても難しく考えるのが好きな面倒くさい人ね。とにかく、とりあえず何処かの時間にジャンプした方がいいんじゃない」


「じゃあ〈メデューサ〉。私の心を読み、私が行きたい所にジャンプしてくれないか」塩原が空間に映像展開している様なインジケータを睨みながら言った。


 〈メデューサ〉が答えるまで数秒の間があった。「……いいわ、行きましょう。〈全知全能機関〉の裏をかけるかもね」


 外部からとりこんでいた風の音が止まった。


 塩原の思考をテレパシーで読んだ〈メデューサ〉のメタ演算推測機能が駆動する。


「何処へ行くの」


「宇宙暦99年。西暦で言えば2199年だ。〈メデューサ〉の試運転の当日。彼女が逃走したその時だよ。私の頭の中の物語が確かならな」


 アリスの質問に塩原が答えた。


 瞬間、外部の全天風景を映していた内殻スクリーンが画素を劣化させたと皆には思えた。


 真夏の日本、塩原のアパートと発達しかけていた積乱雲と石になった群集の風景から立体感が失われる。


 遠近感が溶け、全ては一様に塗り固められた絵画になる。


 虹美の左眼が渦を巻いた。


「父さんや母さんも石化したのかしら?」


「大丈夫よ」それに答えたのは〈メデューサ〉だった。「この時間の出来事は異常な事態として、正常な時系列からは切り離されて消えるわ。多分。きっと」


 何が正常で何が異常なのか、と虹美はふと思う。


「勿論、私達の記憶の中には残っているがね」最後に塩原が真剣な面持ちで呟く。


 大量のテレピン油を浴びせた油彩画。外の景色がどろりと溶けていく。


 熱射の風景は勢いを増して色彩を崩し、やがてねじれ、にじみ、灰色の激流へと形を変える。


 全方位がまさしく、それ。


 今〈メデューサ〉は全ての宇宙から最も縁が遠い。


 そして情報戦闘実験艦〈メデューサ〉は塩原武志という情報体を羅針盤として〈空間的距離〉〈時間的距離〉〈呪術的距離〉を一気に跳躍した。

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