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弱者だとバカにしても、ケガをさせても、手を振り払っても、罵ろうとも。感謝も、謝罪の言葉さえも伝えられていないのに。それでも、マルガレーテが自分に優しくするのは何故なのだろう。何がこの攻略対象を、雑魚ではなくなったキャラクターを動かすのだろうか。ハインツから唐突にそう尋ねられても、マルガレーテは表情を大きく崩す事はなかった。きょとんと小首を傾げて、それからマルガレーテは迷う様子さえ見せずに答える。
「なんでかな。わからない」
けど、と前置きをしてから、マルガレーテが再び歩き出した。一つに束ねられた髪がふわふわと揺れる。数歩前に進んでから、マルガレーテは顔をこちらに向けた。
「強いて言うなら、きっと、私は貴方にかつての家族を重ねているのだと思う」
家族。ハインツはふと、マルガレーテの過去についての設定を思い出していた。幼い頃に事故で両親と、それから飼っていたペットを一度に全て失ったのだとゲーム内のアーカイブで確認できたっけ。この攻略対象は、その時からずっと孤独を抱えて生きてきたのだろうか。
「じゃあ、私はリゼさん達のところに戻らないとだから。……何かあったら、いつでも声をかけて。私のできる範囲内でなら、必ず力を貸すと約束する」
今まで聞いてきたセリフの中で最も攻略対象らしいものを口にしてから、マルガレーテは前に向き直って進んでいく。距離が大きくなる、その前に。彼の腹の中、喉の奥から声が飛び出した。
「マルガレーテ!」
びくりと肩を震わせた、小柄で弱い攻略対象がハインツの方に体を向ける。ハインツは、マルガレーテの方へ向かって一歩を踏み出した。
「あいつらに……リーゼル達に伝えたい事がある。どうしても教えておかねえとなんだよ。だから、俺を連れてってくれねえか」
偽善者も良い子ぶる人間も大嫌いだ。だけど、でも。
マルガレーテの綺麗な、きらきらと宝石のように、星のように輝く目を見ていたら。
後悔したくねえな、と思った。
マルガレーテはその瞳を丸くして、それから頷いた。
「わかった」
マルガレーテは簡潔に答えると、足の動きをぴたりと止めた。ハインツを待ってくれているらしい。彼は大股でその近くへと、マルガレーテの隣へと進んでいった。小柄な身体の隣に並び立った直後、彼は声を上げる。
「あとっ!」
自分の思っていた以上に大きな声が出て、マルガレーテだけでなくハインツ自身も驚いた。湧き上がってくる羞恥心を押さえつけながら、彼はマルガレーテの瞳をじっと見つめた。唾を飲み込む。ごくん、と嚥下する音がよく聞こえた。それがますますハインツの顔を赤く染める原因になった。彼は頬を指で引っ掻くと、頭を軽く下げた。本当は土下座をしたかったけど、こいつはきっと知らないだろうから。マルガレーテはハインツの様子を伺うように、その目をぱちりと瞬かせた。その鮮やかな緑色を見て、彼は以前オタク仲間から聞いた話を思い出した。嫉妬は緑の瞳の怪物である。だから、緑の瞳は妬みの象徴。
俺の方が嫉妬の怪物っぽいのにな。どうしてこいつの瞳はこんなに綺麗に見えるんだろう。なんて事をぼんやり考えながら、彼は口を動かした。
「ごめん、……ありがと」
恐る恐る顔を上げる。マルガレーテが首を傾げた。
「どっち?」
「どっちもだ!! でも主にごめんの方!」
酷い言葉をかけてごめん、ケガをさせてしまってすまねえ、手を振り払ったりして悪かった、散々見下してバカにしてきた事も申し訳ねえと思ってる。伝えたい事は溢れてしまいそうなほどたくさんあったけれど、彼はそれに蓋をする事を選んだ。こんなに言ったところで、言い訳みたいにしか聞こえなくなると思ったからだ。マルガレーテは頭一つ分高い身長のハインツをじっと見つめる。それから、人形のような表情をキープしたまま口を開いた。
「ごめんって、どの事についてだろう。心当たりがいっぱいありすぎてわからない」
やっぱり土下座した方がよかったんじゃねえかとハインツは思う。心底思う。酷い事をされている自覚はあったようだった。それもそうだよなと彼は心の中で納得する。
「お前に対する何もかもについて」
「なるほど」
その返しもどうなの? とハインツは思った。思っただけで口には出さない。自分がやらかした側、つまり加害者でマルガレーテは被害者なのである。マルガレーテは何かを考え込むかのように顎に指を当てた。そうしてハインツの黒く小さな三白眼を見上げて一言。
「確かに、私はとても傷付いた」
機械音声の読み上げか? と言いたいくらいの棒読みだった。口には出さないけれども。いっそ清々しく感じるほどだ。普段は淡々としつつも感情のこもった、なんとなく喜怒哀楽のわかる喋り方をしている分、さっきの発言の棒読み感は際立っていた。いや、傷付いているのは間違いなく本当なのだろう。ハインツの一連の振る舞いで傷付かないというのなら、この攻略対象の心は金属で出来ているに違いない。体は武器で、血液は宝石か。そんな内容のどこかアダリーシアが言ってそうな文章が頭に浮かんだが彼は頭を振ってそれを外へと追い出した。ついでにマルガレーテの戦闘スタイルに関してちょっとした既視感を覚えていた理由を悟りかけたがその悟りも脳内から掻き消した。世の中には至るとまずい思考の深淵があるのだ。いやでもほら、あいつ武器のストックはできないみたいだし。玉を変形させて武器作ってるみたいだし。何もないとこからは作れないみたいだし。そんな事を考えてみたりもする。ただ、傷付いたとマルガレーテの口からはっきりとその言葉を聞いた瞬間に胸がまたちくりと痛んだ。俺が傷付いてどうすんだよ、と内心で呟く。首筋に手を当てながら、彼は言った。
「そりゃそうだろ。むしろ今この瞬間俺がボコられてないだけありがてえなとは思ってるぞ。いや、ボコるなって言いたいわけじゃねえんだけどよ……お前が俺に怒りをぶつけて気が済むんなら、殴るなり蹴るなりすりゃあいい。何してくれたって構わねえ。あっ、お、俺が死なない範囲内でならだけどな!」
それを聞いたマルガレーテは再び考え込むようなそぶりを見せる。そうして、ハインツに目を向けた。
「本当に、何をしてもいいのかな」
「おう」
「嘘ではない?」
「お前だってこの言葉くらいは口に出した事あんだろ。男に二言はねえ、ってな」
「……えっと、私は…………ううん。この話はまた今度すればいいよね。貴方がそう言うなら、わかった」
要求は全部で三つある、という言葉と共に指がぴんと三本立てられる。ハインツは神妙な表情を浮かべながら首を縦に振った。
「全部呑んでやるよ、んで内容は?」
「一つ目。今から貴方の頬を叩かせてほしい。拳ではなく手のひらで、二発ほど」
「ビンタな。グーじゃなくてパーなのは助かるわ」
マルガレーテは女ではなく男なので、割と強い力の殴打が飛んでくるに違いない。頬は高確率で赤く腫れて情けない顔になるだろうが、その方がずっとよかった。目に見えてわかるダメージを与えられたという事実が残れば、多少はマルガレーテにとっての気晴らしになるだろう。あと二つの条件はなんだろうか。在学中は永久にこいつのパシリにさせられっかもな、なんて事をぼんやりと考えた。マルガレーテは自身の手首を動かしてくるくる回し、準備運動じみた動きをする。本気と書いてマジと読む人の動きである。指を握りしめては開く動作を繰り返すと、マルガレーテは満足げに頷いた。ハインツの肩に手を伸ばし、向かい合った状態にさせる。目には真剣なオーラが宿っていた、ように見えた。
「一応聞いとくけど。二発だけでいいのか?」
「二発がいい。私のぶつけたい怒りの数だから」
「は、二つしかねえのかよ……!? ウソだろ、遠慮とかいらねえからなマジで! もっとあんだろ!」
「ないよ。二つだけ」
「……ぶつけたい怒りって、どんな」
マルガレーテはハインツから目を離す事なく告げる。
「私に対する何もかもについて、一つ」
「いやそれ一括りにしたらいけねえやつだろ!」
たまらず彼がツッコミを入れると、マルガレーテは目をきゅっと細くした。じと、という効果音が今の顔に付けるとしたらしっくりきそうだった。綺麗な顔をしている人間からジト目で見られると、なんか、落ち着かなくなる。ハインツは「な、なんだよ……!」と思わず目だけでなく顔も少し背けながら声を出した。
「何をしてもいいと言ったのは貴方。何をするか決めるのは、私だよ」
「それは……そうだけどよぉ…………!! ああクソッ、わかった! わーったから! 好きにしろください!!」
謎に放たれるプレッシャーに耐えかねたハインツがそう答えると、マルガレーテはデフォルトとも言える人形のように綺麗でまっさらな元の無表情に戻った。
「二つ目は、リゼさんと私に心配をかけた事。あの日以来姿も見かけなかったから……貴方の身に何か起きたのかと思った。それに、今日こんな事があったわけだし」
「あー、それはまあ、徹底的に避けてたからな……つーか、なんでお前は俺の居場所を上手いタイミングで突き止められたんだよ」
「その話は後で説明する。今は、貴方を叩く事だけ考えさせてほしい」
攻略対象の言うセリフとは到底思えない内容だった。マルガレーテはハインツの方を見つめる。片方の手で彼の制服の襟を掴んで自分の体の方へ近付けるその姿は、頑張れば乙女ゲームのスチルとして見れそうだった。しかし振りかぶられているもう片方の手が乙女ゲームのスチル感を徹底的に排除していた。初めは右の頬を打つらしい。
マルガレーテがぼそりと爆弾発言を投下する。
「歯が折れたらごめん」
「………………いや、そんくらいは覚悟の上だから。うん。むしろ全力で叩いてくれた方がいいわ。そっちのがお前もスッキリできんだろ。っつうわけで全然気にすんなよな。ハハハッ」
乾いた笑い声が静かな廊下の中で響いた。そう言えばここ廊下だっけ。生徒が来たらとんでもない誤解を招きそうだ。どうか来てくれるなよ、と心の中で祈りながら目を瞑った。
「いくよ」
「おっ、おう……!」
そしてその死刑宣告の数秒後。ばちっ、と先程のハインツの笑い声とは比べ物にならないくらいの乾いた音が、人気のない廊下内に響き渡った。
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