1-27
「サンドストーン伯爵子息」
凛とした声が、ハインツの耳に届いた。それはまるで丸く小さな鈴のように、澄んだ綺麗な音色だった。面白くなさそうに眉の辺りへシワを寄せた悪役令嬢が、声のした方を一瞥する。
「マルガレーテ様」
かつかつと床を靴底が叩く音。次第にそれが大きくなっていく。こっちに近付いてきているんだ、とハインツが察知した瞬間に、ソファーの横、彼の方からちょうど見える位置でマルガレーテがぴたりと歩みを止めた。マルガレーテはアダリーシアの方を見ると、頭を下げる。
「突然ノックもせず入室してしまい、申し訳ございません。本日の授業を担当された先生が、サンドストーン伯爵子息に緊急の用事があるとの事でしたので」
そう言うと、マルガレーテはハインツへと目を向けた。
「先生から伝言役を頼まれていたんです。別室にてお待ちしているそうですから、そこまで案内しますね。……行きましょう」
視界が滲んだのは、きっと気のせいではないのだろう。マルガレーテは膝を折り曲げると、座ったまま動かないハインツと目線を合わせるようにして話しかけてきた。この時になって初めて、彼の頭の中からあの痛みが綺麗さっぱり無くなっている事に、気が付いた。ハインツの唇は小刻みに震えながらも、ゆっくりと動き出そうとする。しかし、悪役令嬢は彼を解放するつもりはないようだった。ハインツから手を離し、マルガレーテの方に向き直った彼女は嘆息しながら言葉をぶつける。
「いいえ、その必要はありません。マルガレーテ様。どうか私達の事は見なかった事にして、お引き取りください」
自分よりも身分の低いマルガレーテに対してアダリーシアが敬語を使っている事への屈辱すら、彼は抱かなかった。深い、深い絶望感で胸の中が埋め尽くされたからだ。彼女は今、マルガレーテに向かって支配魔法をかけたに違いない。見なかった事にしてここを立ち去れ、というのは人への頼み事の内容としてあまりにも不自然すぎる。こんなに近い距離なのだ、きっと効果も発揮されている事だろう。
しかし、ハインツの予想に反してマルガレーテはその場から動く事なく、ただし顔だけをアダリーシアの方へ向けてきっぱりと告げた。
「それは出来かねます」
アダリーシアの目が点になったのを、ハインツは自分の瞳で確かに見た。沈黙が流れる。不思議そうな顔を浮かべたマルガレーテが今度はハインツの方を見て再び「行きましょう」と言った。アダリーシアが勢いよく立ち上がる。突然の行動にマルガレーテも驚いたのか、目を丸くして膝を伸ばし、彼女の方を向いた。その様子はハインツがこの世界に転生する前にSNSで見た『びっくりしてジャンプする猫』にちょっと似ていた。マルガレーテの身長はアダリーシアより僅かに高いようだ。目を丸くしたまま首を傾げるマルガレーテ。その頭には疑問符が浮かんでいるように見えた。悪役令嬢が目を吊り上げて、マルガレーテへ両手を伸ばす。がし、という音がつきそうなくらいの勢いでアダリーシアは後頭部を手で覆った。
悪役令嬢が何をするつもりなのかは、すぐにわかった。ハインツの頭が真っ白になる。あいつが、モノになる。ただでさえ人形みたいなあいつが本物の人形になってしまう。俺の目の前で。
「————ッおい‼︎」
彼の体はその時になってやっと自由を取り戻した。ソファーから立ち上がり、二人の間に割って入ろうとする。しかし、魔法から解放されるのがあまりにも遅すぎた。
「……ここから、立ち去りなさい」
悪役令嬢の冷たい声が、静まり返った室内に響く。マルガレーテは、自身の宝石のような瞳をぱちぱちと瞬かせた。薄桃色の唇を動かしたのと、ハインツが片腕でマルガレーテの肩を抱いて自身の方へ引き寄せ、もう片方の腕でアダリーシアを突き飛ばして遠ざけたのは同時に起きた出来事だった。
「それは出来かねます」
数分前と全く同じ言葉が、その口から放たれる。突き飛ばされたアダリーシアだけでなく、ハインツの目も点になった。気がした。いやまあ俺の目ってもともと点みたいにちっせえから『目が点になった』って表現されたとしてもいつもと変わんねえ状態なのかもしんねーけどなはははと彼は心の中で他人事のように呟いてみる。凍りついた空気の中、「どうして……」という悪役令嬢の呟きが聞こえた。そんなリアクションをしてしまうのも当然の事だ。何せマルガレーテは、あんな至近距離にいながら、脳の近くに触れられていながらも、その支配魔法を跳ね除けたのだから。一回ではなく二回連続して失敗しているところからも、どうやら偶然による不発ではなさそうだと察せられた。
マルガレーテは不思議でたまらないと言わんがばかりの表情を浮かべながらも、彼の方を振り返る。その肩はやたら華奢で、思っている以上にマルガレーテという人間は小柄なのだ、という事をハインツは実感させられた。が、すぐに自分が何をしたのかを思い出して勢いよくマルガレーテの肩から手を離し、両方の手のひらを広げて上にあげる。顔全体を侵食していく熱が鬱陶しくてたまらない。目を横方向へ逸らしながら、彼は口を開く。支配魔法から解放されたにも関わらず、なんとなく動かすのに重みを感じた。おかげで声がもごもごとした、くぐもったようなものになってしまった。
「わっ、わ、悪ぃ!」
「いえ、謝る必要はございませんよ。先生をお待たせしてしまってはいけませんし、そろそろ向かいましょうか」
「お……おう」
アダリーシアの前だからか、マルガレーテはハインツに畏っているように見える。リーゼルに対しても敬語を使っていたが、そこには確かに敬愛が込められていた。しかし、今のマルガレーテの態度は正しく『他人行儀』なものだと言えるだろう。そんなに親しい間柄とは表現できない(し、むしろハインツの方がそれを望んでいなかったはずだ)が。
それでも、何故だか、心がちくりと小さな針で刺されたような感覚がした。
胸の辺りに手を当てて、原因不明の痛みに首を傾けるハインツ。そんな彼を他所に、マルガレーテは呆然と立ち尽くすアダリーシアに向かって再度頭を深々と下げた。
「改めて謝罪を。お二人の時間を邪魔してしまって、申し訳ありませんでした。それでは失礼致します」
そう言い切ると、マルガレーテが背筋をぴんと伸ばしてドアの方へ進んでいく。ハインツもその後を足早に追いかけた。教師に呼ばれていると言うのならちょうどいい、ここから立ち去る理由になるのだから。アダリーシアにもう一度支配魔法をかけられて操り人形にされたくはない。豪華な飾りで縁取られた両開きのドアを押して廊下へ出たマルガレーテに続いて、ハインツも部屋を出る。扉が閉まる間際に、悔しげに唇を噛んでこちらを見つめている悪役令嬢の姿が視界に映った。
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