鬼の仔
白銀隼斗
第1話
何度も何度も発砲音が鳴り響き、何度も何度も肉の跳ねる音が鳴り響き、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も…………………………………………………………………………………………………………………
肺を汚染する程の汚い煙に路上に染み付いた吐しゃ物の跡。頭上を横切る高速道路をトラックが駆け抜ければ、ぱらぱらと塵のようなものが降ってきた。
とても綺麗とは言い難い街。そこの路地裏に、陽から隠れるようにして一匹の“鬼”がいた。
「見て。あの仔」
表の道を通った種を孕んだ女が指をさした。汚らしいものを見る眼で見下す。こんな世界的に見ても貧しく卑しく最高に汚らしい街に住んでいながら、自分はまるで高貴な出のお嬢様と言いたげな顔で見下してくる。
「“鬼”の仔だ。関わったら何されるか」
その女を孕ませた男が吐き捨てるように言う。この男は相応しい顔つきで全体的にやつれた様子だった。さっさと通り過ぎたいのに女がしつこく、「嫌だね。こわい」と言葉を繰り返すので頭に来たのか眼を見開き、髪を掴んで引っ張った。
「お前はいい加減その癖を治せ! いつもいつもしつこいんだ!」
怒鳴りながら遠ざかってゆく声に少し顔を出し、覗き込んだ。陽の光が顔に射しこむ。無表情で無気力で何を考えているか分からない顔をしていた。
ぺたぺたと汚いコンクリートの上を裸足で歩く。ビルとビルのあいだやひとけのない通路、夜道を使ってでしか移動出来ない。表に出れば何をされるか分かったものではない。
ふと足が止まった。元々色白だった肌は薄汚れて垢がたっぷりとついていた。それを狙って汚染蠅が羽音を鳴らしてやって来る。ぶうんっと意地悪に飛び回って足元に引っ付いた瞬間、その足をあげて蠅を払い更に踏みつけた。ぷちりと極々僅かな音が聞こえた気がする。
「おじさん」
全ての歯が鮫のように尖った口を開き、眼前の男に話しかけた。その声は少女のようでもあり大人の女の声でもあった。
「あ?」
振り向いたのは眼帯をつけた眼つきの悪い男だった。トレンチコートの下には着物を着ており、靴は鉄板の入ったブーツだった。手袋をした指のあいだに紙巻きたばこが挟まっており、ゆらゆらと雲のもとに帰ろうとしていた。
「おなか、すいた」
そう言って少し俯き、自身の腹に手をやった。男は軽く見つめたあと顔を背け歩き出した。ブーツの音を聞いてから裸足を踏み出した。その横を汚い溝鼠がそそくさと通っていった。
新鮮な血のついた肉の塊。どちゃりと地面に投げだされたそれに鼻を近づけた。すんすんと匂いを嗅ぐ。
地面に這いつくばって生肉を吟味する小汚い少女を、男の傍にいる若いのがあからさまな眼で睨みつけていた。ほうれい線の鼻に近いところに皺を寄せて、気持ち後ろに退いた。
「オヤジ、なんでこいつ飼ってるんスか」
まだすんすんと匂いを嗅いでいる様子に問いかけた。オヤジと呼ばれた男は表情を変えず、ただ煙を吐き出した。ヘビースモーカーなうえに女好きだから、煙臭いのと香水臭いのとでろくでもない男の匂いになっていた。
「兄貴からの最期の願いだったんだよ。俺だって好きでコイツを飼ってる訳じゃないが、時々“金になるからいいんだよ”」
無機物を見る眼で少女を見下すと、視線を感じたのか顔をあげた。その眼は綺麗な空色で髪は金色、歯は全てぎざぎざと尖っていた。また瞳孔が蛇のように細くなる時があり、今はその時だった。獣のように四つん這いになったまま固まっているのを見て、男は煙草を口から取り上げた。
「さっさと食え。後で仕事があるから早くしろ」
黒い眼帯が白い煙で薄れた。少女は肯く事もせず、眼玉だけを動かして若い方を見た。ひっと声を出して驚いた。
「今日はお前の当番だぞ。驚いてどうする」
ニコチンを吸い込むと喘ぐ女のように赤く灯った。
「いや、だって……“鬼”っスよ」
恐怖で逆に眼が離せないのか、空色の双眸を見つめつつも身体はのけぞっていた。男は片目で若いのを一瞥すると踵を返しながら言った。
「鬼は鬼でも鬼の仔だ。父親のピアスつけてるし平気だ。お前如き襲わないよ」
ぎいっと軋むドアを開けてさっさと居なくなった。
少女、ちおは“鬼”の仔である。鬼がどういう存在なのかは不明で大した事も解っていないが、一言で言えば人外であり簡単に言えば化け物である。
特異な見た目に牙が鋭く、また怪力で人間の形をした猛獣……。食うのは決まって生肉だけ、という話だ。そんな化け物を片親に持つのがちおで、生まれた時から噂が広まり今では溝鼠と暮らしている。
一応ヤクザの親分である男、平岡に保護されているが、基本人の近くで過ごすのを嫌いとするので常に外を彷徨っている。それを繰り返すうちに平岡も諦め、GPS機能のついた足輪をつけてさせて後は放置している。
何を考え、何を思い、何を目標に生きているのか。平岡が問いかけても一切口を開こうとしないので、本人以外には何もわからない不気味な存在へと成っている。
「うっ……マジで全部食ったのか、お前」
地面には散り散りになった生肉のカスと血と、それとまだ新鮮な脂が残っていた。ちおはその場に座り込んでじっとしており、口の周りは赤黒く変色していた。若いのは相変わらず引きつった顔で見つめ、ややあって適当に手招きをした。
「風呂、入るぞ」
背中を向けたがすっと立ったのを気配で感じ取り、ぴくりと肩を揺らしたあとぶるぶるとわざと身震いをして嫌な気配を取り払った。よくこれでちおの当番を務める事が出来るが、彼女の当番は日替わりで尚且つランダムだ。平岡の撃った弾の位置と、平岡のその日の気分と、平岡の吸った煙草の灰とで決まる。場合によっては連続して同じ者が当番になる時がある。特にへまをやらかした時と、平岡を怒らせた時には。
風呂と言っても平岡が所有している倉庫の一角で、蛇口に繋がれたホースと業務用のボトルに直接入れられたシャンプーとボデイソープが転がっていた。じっと突っ立っているちおに若いのは少し苛立ちを覚え、「なにしてんだ、早く脱げ」とせかした。
「……脱ぎ方がわからない」
不意に大人の女の声に聞こえそうなそれに若いのは眼を丸くし、訝しげに眉根を寄せた。
「まさか、ずっとオヤジにやってもらってたのか」
ちおは肯いた。それを見て若いのは深く溜息を吐いた。いつもなら酒臭い息だが、今日は当番なので朝から飲んでいるウイスキーの瓶を片付けて来た。オヤジよりも怖い相手だからだ。
「変なところで過保護だな……オヤジも大概何考えてるかわかンねえ」
ぐちぐちと愚痴をこぼすとポケットからゴム手袋を取り出し、嵌めながらちおに近づいた。身長は平均的な小学生ぐらいで身体は平たく、食事には困っていないのにやせ細っていた。それが鬼の特徴の一つ、とも言われているが単なる体質のせいかも知れない。若いのはごくりと固唾を飲み込んでそっと両手を伸ばした。
暫く経って平岡が倉庫にやって来た。また煙草を咥えており、臭い臭いニコチンのにおいをまき散らしながらホースがある方に視線をやった。
然しそこには血だまりに倒れた男がいた。一瞬立ち止まってから近づく。
「ちお、何かやったのか」
近くには素っ裸のちおがおり、じっと死体を見下していた。
「ああ、その前に身体洗うか。時間がもうない」
平岡は死体を一瞥もせずに素通りし、ちおの頭をぽんっと撫でた。ややあって平岡について行き、全身をくまなく洗った。
「なるほど。俺が伝え忘れたせいだな。まああいつも馬鹿だから関係ないか」
ちおの身体には不思議な紋様がある。鬼であれば必ず浮き出てくるものなのか、それとも彼女だけなのかは不明だが、それは右の肩甲骨辺りに存在する。
「死体は、どうするの」
紋様があるだけなら問題ない。だが少しでも触ったら鬼の逆鱗を逆なでする事になる。例えふとした瞬間に指の関節が当たっただけでもアウトだ。一瞬にして命を刈り取られる。
平岡は新品のシャツと下着とズボンをちおに着せながら、面倒くさそうに答えた。
「あー、お前食うか?」
ぐっと首のところから頭を出してかぶりを振った。
「硬そうだからいい」
死んでも尚、鬼の仔には受け入れられなかったようだ。平岡は適当に返事をすると、溶かして捨てるかと独り言を呟き灰の溜った煙草を掴んだ。
「今日も実験?」
きちんと畳んでいた名残が、白いシャツの表にも裏にも現れている。また少しサイズが大きく、細い身体付きが余計際立って見えた。平岡は倉庫の地面に対して灰を落とし、気のない返事をした。
「数時間耐えるだけだ。お前の好きなもん買ってやる。それかどこか連れて行こうか?」
たまにはそれもいいだろう、何せちおはどこにも行きたがらない。影から陽のもとに出てくる事さえ彼女はしようともしない。鬼の仔だからと言って真っ先に殺しに来るような人間は片手で数えられる程度だ、こんな雑多で人の出入りも激しい街では殆ど零に近い脅威だ。ちおは無駄に人間を恐れている。
「どこか?」
平岡は懐から懐中時計を取り出して時刻を確認した。もういい加減“研究所”に向かわなければ間に合わない。時計を戻しながら一瞥をやった。
「先に移動するぞ。話はそのあいだでも出来るだろ」
ざっとブーツの底が、倉庫の地面に残っている数カ月前のピンクチラシを擦った。乳房をアピールした娼婦のモノクロ写真が印刷されており、ちおはそれを無表情に見下した。一体いつから掃除をしていないのだろう。
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