2023.02.06(月)

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 昨日からのつづき。日が替わって、『小林秀雄全集 第八巻』のなかから「「罪と罰」についてⅡ」を読み始める。ドストエフスキーの長編小説『罪と罰』についての評論というか随筆で、小林さんは生涯に何作もドストエフスキーの人と作品に関する文章を発表している。「ドストエフスキイの生活」という作品が有名だ。


『罪と罰』をはじめて読んだのはちょうど二十年前。2003年(平成15年)のことだった。自分でも小説を書き始めた時期にあたっていて、これまでに読んだことがなかった、世間で名作とされている作品を選んで、いくつか読んでいた時期に当たっている。『アンナ・カレーニナ』や『魔の山』をはじめて読んだのもこの年だった。


『罪と罰』はこれまでに三度ほど通読したけれど、ここ十年くらいはまったく再読できていなかった。この「「罪と罰」についてⅡ」の冒頭で小林さんはこんな風に書いている。



P.305


《ドストエフスキイが、これを書いたのは四十五歳の時であった。作の主人公は二十三歳の大学生である。四十五歳にもなった作者が、二十三歳の青年の言行を、何故あれほどの力を傾けて描き出さねばならなかったか。これは、青年にとっては、難解な問題である。この作が青年達を目当てに書かれたものではない事は勿論なのだが、悪い事には、その異常な強烈な印象は、多感な青年の心をあんまり巧みに掴み過ぎた。「罪と罰」という作品は忘れられ、作品から与えられた感動だけが記憶に残る。四十五歳にもなれば、今更「罪と罰」でもあるまいという事になる。世間を小説風に見ることから始めて、小説を世間風に見ることに終る、どうもこれが大多数の小説読者が歩く道らしく思われるが、そういう読者の月並みな傾向の犠牲者として、ドストエフスキイくらい恰好な大作家はいない様である。》



 小説の読み方の一つに再読がある。小林さんの文章自体、二十代で読んだときと三十代で読んだとき、また四十代で読んだときと、比べてみると読みの印象が異なるという経験談を書かれている方が作家の中にも幾人もいらっしゃる。また子供の頃に読んでいた本を、大人になってから読んでみるとこんな物語だったのかと、往時には気がつかなかった事柄に行き当たるという経験を述べられる読み手に出くわすこともよくある。今思うのは、作家四十五歳の作品を、同じくらいの年齢になった読者が読めば、若いうちに読んだときと違った発見に行き当たるのではないかといった期待感である。今回この評論(随筆)を読みながら、自分でももう一度、『罪と罰』を読み直してみようという気持ちを強く持った。二十代・三十代のときには不完全にしか消化しきれなかった部分も、多少は読みこなしうるのではないかと期待して。



P.319


《諸君は、既に納得されたであろう、これがドストエフスキイが一人称小説の形式を捨てた場所である事を。人間とは何かという問いは、自分とは何かという問いと離すことが出来ない。何故かというと、人間を一応は、事物の様に対象化して観察してみる事が出来るとしても、それは、人間に、あまり遠方から質問する事になるからである。人間は何かである事を絶えず拒絶して、何かになろうとしている。そういう人間に問いを掛けるには、もっと人間に近付かねばならぬ。近付き過ぎるほど近付いて問わねばならぬ。僕に一番近付き過ぎている人間は、僕自身に他ならない。自己を烈しく問う者が、何等の明答も得られない様を、僕等は「地下室の手記」に見る。彼は疑いの煉獄から出ることが出来ず、出ようともしない様も、まさに僕等の読む通りである。》



 ドストエフスキーが小説を書くに際してどれほど人物に迫りながらも、そこに一人称の限界を知るに至って一人称小説の形式を捨てなければならなかった理由。「地下室の手記」はまさしく袋小路に到る道だった。しかし外部に触れることで地下生活者は変わっていかざるを得なかった。『罪と罰』は三人称小説でありながら、いかにラスコーリニコフの視点について奥深く書かれていることか。『罪と罰』本編はかれの心理に触れるけれど、ドストエフスキー自身は心理学者ではない。評論では、かれが、サイコロジストではなくリアリストであるということも指摘する。論理的なものの考えとか心理学とかでは追いつかない、対象を正しくみるときに現れる真の姿を描いているだけのことではなかったか。ラスコーリニコフが侵す二つの殺人。そこに到るまでの経緯も、それが起こってから彼が辿る蹌踉とした足取りも、まるですべてが夢に魘されているかのように立ち現れるセカイについて、ドストエフスキーの筆はいかに対象に真摯であり続けたか。これは論理的に考えても、宗教的に考えても、心理の流れだけを取り出して考えても、不足する処が生じてしまう。考えるのではなく、そのままに見て感じることがまず重要である。



P.364


《ラスコオリニコフを駆り立てた「デモン」は、否定的な破壊的な意志ではなかった。彼は、日常の瑣事を侮蔑し、個々の事物の価値を知ろうともしないのだが、又、真理が一定の形を持ってやって来れば、もう彼には不満であり、それを乗り越えようとする。あらゆる所与は忽ち課題と変ずる。断わって置きたいが、彼は決してそういう哲学者でもないし、彼の哲学的教養も言ふに足りないのだが、作者が主人公をそういう哲学的気質として描いたという事は間違いない事である。序でに附記して置きたいが、遂に哲学者にならぬ哲学的素質、哲学者には無智と映る哲学的気質は世の中には無数にある筈だが、これらを哲学的システムによって真に凌駕する事は非常な難事であって、それは恐らく稀れにしか現れぬ最高級の哲学的システムだけに可能な仕事だ。その事に気が付きたがらぬ事、即ち大多数の哲学者等の凡庸さに他ならぬ。ラスコオリニコフの様な皮肉を知らぬ精神は、所謂懐疑派にも厭世家にもなる事は出来ない。彼等の憂い顔が、多くの人々に何を語ろうと、彼等は一種の充たされ、満足した人種である。彼等は、いつも課題に取り巻かれている振りをしているが、実は、課題を狡猾な冷静な微笑によって、所与に変ずるのが彼等のやり方である。彼等は、疑うというより寧ろ信じないのである。凡そ目的というものに無関心でいて、而も何を進んで疑う要があろうか。》



 この箇所では自身が信じてもいないことを口にして生計を立ててている人のことが示されてもいて、それはわたしには現在マスコミに出演するコメンテーター、御用学者、ネットで配信をしている言論人についてもあてはまる言葉ではないかと思ってしまった。翻って自分自身はどうかとも。疑いもしないし信じもしないことを口先だけで言葉を弄することのないように。しかしラスコーリニコフが立たされている心理上の極地は、わたしも故西村賢太作品を何作か読んできたこともあり、一連の作品で北町貫太が置かれた地点ともある種似た部分があるように思ってしまう。言動や行動として他者から見られ受け止められる表の面がある一方、その裏に、貫太自身がいかに御しがたい自身と格闘し葛藤しながら生きている局面があるかを作中目の当たりにしてきた。ラスコーリニコフにも内面と外面の両面が齟齬をきたしていて、しかも貫太にまして大変なのは、自分の五官を通して体験する外部の印象までが熱に浮かされ夢に魘されるかのように確たる形をとってくれないことだろう。彼は何処にも行き場のない自身を、それでもどこかに持っていくために行動しなければならない必要に迫られていた。


 全部で60ページほどの文章だったが、読むのに二時間くらいかかる。しかしこの文章を読みながら、やはりいまこの年齢でもう一度『罪と罰』を読んでみようという気持ちが大きくなってきた。いまできる精いっぱいの読み方で作品にぶつかっていこう。


 読了後、時計を見ると朝の3時過ぎ。いまちょうど空に満月が出ている時間らしい。金麦500mlを一本持って外へ出る。西寄りの空にあるSnow Moon(スノームーン)を見ながら缶を飲む。白い冷たそうな月。いつもより遠くに見えるため孤高の月といった印象を受ける。雲一つない空には、ところどころ等級の明るい恒星が光っていた。


 十五分ほど過ごした後、家に戻り、昨日の残りの煮物を温め直して金麦の残りと一緒に食す。練りからしをたっぷりつけて食べるのが好きだ。


 食後、新潮文庫版『罪と罰(上)』を本棚から抜き出してくる。ラスコーリニコフが下宿を抜け出すシーンからゆっくり読んでいく。この時間は第1部2章の途中まで。


 YouTube等で時間をつぶして、朝10時、買い物へ。


 アジアンバーガーズのキャンペーン中のマクドナルドのバーガー、「油淋鶏チキン」と「スイートチリシュリンプ」の二種類を単品で購入。これを一度に昼食で食べるというなかなかアレなことをやってしまう(炭水化物爆弾!)。(でも2個で900kcalくらいだから食べすぎとまではいかないだろうと目算。)どちらも甘酸っぱい味のバランスで油淋鶏のほうが衣がけっこうバリバリした食感で食べ応え抜群。2個とも思ったよりも嵩があって二個食べるとかなりおなか一杯に。(そりゃそうでしょう。)これはよかった。期間中にもう一度くらい食べることもあるかもしれない。


 食後、PS5起動。『エルデンリング』で最初の関門を霊馬で突破。まだレベルも14くらいだからほとんど始まってもいない。ファストトラベルの地点を見つけたのに満足して終了する。その後、『ドラゴンズクラウンプロ』の予約特典についてきていた専用の『デジタルゲームブック』をプレイ。今回はウィザードを選んでみる。以前ドワーフかファイターで一度クリアしたことがあったように思う。しかし記憶は曖昧。まったく新規で遊ぶ感覚で楽しめたのは物忘れが激しい人の特権だろうか。(褒められたことではない。)スキルは最後まで温存して、ラストバトルで湯水のごとく使用する。危うい場面はほとんどなく、ストーリーとテキストに集中することができた。いずれ女性キャラ(アマゾネス・エルフ・ソーサラー)でも遊んでみたい。


 4時前就寝。6時起床。


 入浴後、すこし読書『罪と罰(上)』。


 9時頃、夕食づくり。作ると言っても今回は簡単に。小皿にほたるいかを盛りつけ。またお椀にごはんを盛りつけ、その上に、きざみのり、きざみ大葉をまぶしかけ、カットしたサーモンといくらを載せて、サーモンいくら丼にする。わさび醤油をつくって回しかけてから食す。魚介類という事でいちおう立春朝搾りの日本酒も買ってあったけれど、今回は開栓せず。お米もけっこうあったし、お昼に食べすぎてることもあって控えめに。各単体美味しいものしか載ってないから、美味しくないわけがない。(わさび好き。)ささっと入ってしまう。


 食後、アニメ『とんでもスキルで異世界放浪メシ』4話、と

 『アルスの巨獣』4話、視聴。

 異世界メシは、主人公とペット(!)がただ料理をつくって食べておいしいな、うまいなといっているのを見ているだけみたいになってきて、わたしは何を視ているんだろうという気持ちになる。今の時代のコンテンツはこれでいいんだろうかと冷静に返る。それでもいちおう主人公はフェルの薫陶の甲斐もあって(というよりは仔を千尋の谷に落とす獅子の要領で)、無事火炎魔法を習得することができた。レベルも上がったらしい。心中どうであれ、つづきも絶対視てしまうわけだけど。

 アルスの方は新たな仲間が二人加わる。これでいちおうフルメンバーになったのか? クウミとジイロ。カンナギを使いつぶすナギモリが多いという指摘。気になるな。これはラストの方でクウミが大変な目に遭うことになるフラグなんだろう。きっと。帝国側にもクウミに瓜二つのカンナギらしき女の子がいるからいずれ対することになるんだろうか。こちらは当初の期待感を維持したまま視聴を続けている。

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