性の正と未来のミライ

柏季せんり

第1話「蒼かった空と日常」

第一章


 昼休み。いつものように一人、中庭で昼食をとる僕の頭上を、一筋の飛行機雲が通り過ぎて行った。

 高校生になって一年と少し、自分なりに学校生活にも慣れることができたと思っている。

 元々女子高だったこの学校は、昨年度、つまり僕が入学した年から、男女共学へと舵を切った。

 その経緯に特別な理由は無いようで、行く年の少子化問題や、男女平等を推進する世の中への対応などが絡んだ、一連の社会情勢を見据えてとのことらしい。

「しっかしなー…。」

 何年も前から提起されている問題を、あたかも自分たちが先進的に取り組んでいると見せかけるような、そのようなスタンスには少し疑念が生じる。

 それでもどういうわけだか、その経営方針が高く評価されたらしく、文部科学省から教育改革重点指定校なんてものに選定されているから驚きだ。

「蒼いな…。」

 覚悟はしていたことだったが、やはり共学になった初年度の男子志願者は、少なかったと聞く。

 この学校は国内でも有数のお嬢様学校で、進学校でもあった。

 通っている生徒も、有名な企業の社長や役員の娘だとか、政治に疎い僕でさえも聞いたことがある、政府関係者の娘だとか、それはもう凄い人たちで溢れかえっている。

 とにかく高校入学と同時に上京したかった僕は、国から助成金が下りている関係で、学費が公立高校並みに安かったこの学校に入学したのだが…。

 クラス内で男子は僕を含めて三人だけしかいない。

 そして、問題なのは人数だけではない。

 現在工事中なのだが、男子トイレや更衣室などの設備が完全に整っていないため、職員用もしくは来賓者用の設備を利用することになっている。

 普通このような設備は、最低限整えてから共学を名乗ってほしいと思うのだが、百歩譲ってこれは我慢できる。

「一番の問題は、クラスで孤独っていうことなんだよな。」

 もう、今の悩みはこれに尽きるし、これがすべてだと思っている。

 ある程度予想していたものの、それを上回るほどにつらかった。

 時折訪れる女子だけの空間に、僕たち男子は厄介扱いされてしまう。

 孤独というものは、いついかなる時でもつらいものだ。

 しかし。これは入学前に考えないといけないことであって、いまさら不満を述べることではない。

 だからこの環境には、僕たちが順応していくほかないということは、自覚している。

 この学校…、名前を私立結城学園というが、東京都多摩地区に位置する環境豊かな高校として知られている。

 敷地面積は国内でもトップクラスの広さで、本校舎、旧校舎、グラウンド、球技場、水泳場(温水)、武道場、体育館といった建物が存在している。

 ちなみに僕が今いるのは、旧校舎裏の小さな広場だ。

 どこか一人になれる場所が欲しくて色々な場所を彷徨った結果、やっと見つけたこの場所には、大きな一本の桜の木が立っている。

 何でも昔戦争があったときに、この近辺で無くなった方々を、一時的にこの桜の木の下に仮埋葬していたらしい。

 戦時中の話だ。おそらく正式なお墓を造る労力や時間がなかったのだろう。

 勿論今は別の場所できちんと葬儀を行って、安らかに眠っていると聞く。

 この桜の木は当時の歴史を知ることができる重要な文化財として、国から指定を受けており、学校内にあるにもかかわらず、この桜の木だけは国が管理をしている。

 しかしそのような歴史があるため、好き好んでこの桜の木の近くに来ようとする生徒は、ほぼいない。

 日中の昼休みでさえも、僕以外に生徒を見たことがないくらいだ。

 僕は特に気にするようなことではないと考えているので、穴場スポットとして使わせてもらっている。

「さてと。」

 今日の昼食はメロンパンとアイスコーヒー。

今日の、というか学校がある日はほとんど同じものばかり食べている。

 地元にいたころ、自宅近くの小さなパン屋さんの名物が、メロンパンだった。

 その味が忘れられなくて、上京して一年以上が経過した今でも、パン屋さんではメロンパンを買ってしまう。

 癖というか、地元離れできていないというか…。

コーヒーは自販機やコンビニで買ったものではなく、毎朝自宅で淹れたコーヒーをボトルに移して持参している。

 これも地元にいたころの名残で、近所に喫茶店などがなかったため、コーヒー豆をネット通販で取り寄せて、自分で調べた知識で淹れていた。

 周囲からは、凝り性やら変わり者やらとよく言われたものだ。

 それでも、その他ほとんどのことに関しては、特段凝るということは無く、むしろどうでもいいと思っている。

本当に好きになったものにだけ、普通の人よりもこだわりが強くなる。

きっとこういう解釈で間違いはないだろう。

「うまっ。」

 コンセプトは、時間がたっても美味しいコーヒー。

今は喫茶店でアルバイトをしているため、昔と違って身近な人から教えてもらえる環境が整いつつある。

 豆は月末に、通いなれたお店で購入している。

 毎月必ず行っているので、店員さんと顔見知りになっていて、僕が店に行くと、生活のことを気にかけてくれたり、まだ店頭に並べていない商品を紹介してもらえたりする。

 一人暮らしをしていると、こういう人がいてくれると心強い。

「んーっ、そろそろ時間か。早いな…。」

 大きく伸びをした後に思わず愚痴を言ってしまった。

 昼休みは一時間あるので、むしろ他の高校よりも長いくらいだと思う。

しかしリラックスできる貴重な時間だからか、いつもあっという間に時間が過ぎている感覚に襲われる。

「あ、浦瀬。ここにいたか。探したぞ。」

「え?」

 滅多に人が来ないから少し驚いて振り返ると、担任の先生が立っていた。

「休憩中悪いな。今、ちょっといいか?」

「はあ…。どうかしたんですか?」

 呼び出されたり、それこそ怒られるようなことはしていないはず。

「実はな、今日の午後に転校生が来るんだよ。」

「はい。」

「それで浦瀬、お前の隣の席空いているだろ。転校生、隣に座っても大丈夫か?」

「僕は別に構いませんけど…というか、別にそのときになってから言っていただいても構わないことですし、こういうことって事前に聞いちゃっていい情報なんですか?」

「うーん、とだな…。」

 何だろう。また有名人の子どもとかが来るのだろうか?

「実はちょっと特殊な子でな。」

「特殊、とは?」

「男子生徒なんだが、女子として学校生活を送りたいという生徒なんだ。」

「ああー。」

 なるほど、そういうことか。

「僕は別に構いませんよ。」

「そっか。よかった…。」

 ホッと胸を撫でおろす担任は、初めて見たかもしれない。

 まあ僕としては隣に誰が来ようが、クラスメイトとして関わることに変わりはない。

「このような障碍を持つ生徒を受け入れれるのは、この学校が始まって以来初めてのことでな。前例がないから、いざ転校初日になったら何をするのが正解なのか分からなくなってしまったんだよ。」

「うーん…。」

 今、先生は障碍という言葉を口にした。

 話を聞く限りでは、おそらく転校生は性同一性障碍の可能性が高い。

 詳しいことは分からないが、ニュースか何かで性同一性障碍は呼称が変わったと報道されていた記憶がある。

「その人って、もう学校に来ていますか?」

「ああ。応接室で待っているよ。」

「それでしたら、皆のところに行く前に、少しお話ししましょうか。」

「…いいのか?」

「いや、だって事前にこんなこと言われて、先生のそんな様子を見せられたら、なんだかこっちまで不安になってきますから。」

「すまんな。それじゃあ授業が始まる前、ちょっとだけ顔合わせしてもらってもいい 

 か?」

「はい、分かりました。」


 応接室は、本館西側の一階にある。

 本館の構造は後述するが、応接室は大切なお客さんが来校してきたときに、一時的に本校の職員が応対をする場所だと聞いている。

 だから、自分には縁のない場所だと思っていた。

「失礼します…。」

 先生に促されて入室した先に見たのは、どこからどう見ても女子生徒だった。

 あれ?と思って先生を見ても、あの子で間違いないよといった感じで背中を押された。

(自分が不安だからって生徒の背中を押すのはどうかと…。)

 仕方がないので、そっと対面の席に腰かけた。

「はじめまして。」

 なるべく相手を不安にさせないように、はっきりとした口調で挨拶をすると、

「は、はじめまして…。」

 と、遠慮がちに返事が返ってきた。

 声も透き通っていて女性的だ。

「僕の名前は、浦瀬祥太郎。よろしくね。」

「は、はい。私の名前は一ノ瀬未来っています。…よろしくお願いします。」

 なんだろう、このあふれ出るお見合い感は。

 少し困った表情で先生を見ると、さすがにフォローに入ってくれた。

「えっと、一ノ瀬さん。彼が教室で隣の席になる浦瀬くんね。何かわからないことがあったら、僕に聞きずらいことは彼に聞いてね。」

(え、なにそれ聞いてないんですけど…)

 学校のことをどの程度まで答えられるか分からないけど、このような役割は、特別な事

情があったとしても、学級委員長が請け負うはずだと思うのだが…、もうこうなったら力

になれるように頑張るしかない。

「先生も言ってたけど、困ったことがあったら僕に遠慮なく言ってくれていいからね。」

 そう言って笑って見せると、

「ありがとうございます。」

 と、さっきよりは少しリラックスしたような口調になった。

「えっと、なんて呼べばいいかな?先生と同じ、一ノ瀬さんがいい?」

「あ、えっと…。」

「ん?」

「名前がいいです。」

「え、そうなんだ。」

「はい。クラスメイトから名字で呼ばれるの、あんまり好きじゃなくて。」

 そっか…そうなのか。それなら別にいいんだけど、ちょっと意外だった。

「じゃあ、未來さんでいい?」

「…。」

 何か言いたそうな顔をしている。

 僕としてはなにも間違えてはいないはずなのだが…。

「呼び捨てがいい、です。」

「え、なんで?」

 思わずそう聞き返してしまった。

 初対面の人を呼び捨てにした経験は、今まで皆無だったからだ。


『キーンコーンカーンコーン』


「「あっ。」」

 僕と先生が同時に声をあげて、苦笑いをした。

 これは遅刻の合図であり、もうその烙印を押されることは確定事項であった。

「次って、先生の授業ですよね。」

「ああ。いやー、これは申し訳ないことをした。急いで戻って席についていてくれ。遅刻の記録は、今回は理由があったから書かないでおくよ。」

「ありがとうございます。」

 それじゃあまた後ほどと軽く一礼して、教室に戻った。


 教室に戻ると、クラスメイトから痛いくらいの視線が、これでもかというほどに突き刺さってくる。

(気にしない、気にしない)

 そう自分に言い聞かせていると、程なくして先生と未来が教室に入ってきた。

 一気にどよめく教室内。

 男子?女子?とかそういう議論がさっそく展開されて、おかまじゃないの?という人まで出てくる始末。

 おかまって、たしか差別用語じゃなかたっけ?

 こういったことには疎いのだろうか。

「一ノ瀬未来といいます。よろしくお願いします…。」

(…………)

 静まり返る教室。なんとも重たい空気が流れている。

「席は、浦瀬。お前の隣でいいな?」

「あ、はい。大丈夫です。」

「みんな、これから仲良くしてやってくれ。」

 先生からそう言われたクラスメイト達は、しぶしぶ返事をした。

「………。」

 気分が落ち込んでしまったのか、うつむいたまま僕の隣にやってきた未来の様子を見て、声をかけるべきか迷った僕は、


(改めてになるけど、これからよろしくね。困ったことがあったら、僕に言ってね)


と書いたメモをこっそり渡した。

 そうしたら、自分も何か返さなきゃと思ったのだろう、急いでノートとペンを取り出そうとしたので、返事は大丈夫だよと、極力周りに気が付かれないようにジェスチャーをした。

 ふと先生のほうを見ると、僕の接し方を見て安心したのだろう。

「さあ、頭切り替えて午後の授業始めるぞー。」

 心配事が薄れたような吹っ切れ方で、午後の授業がスタートした。



(キーンコーンカーンコーン)



「おーい、浦瀬。」

 授業が終わった直後、先生が僕のことを呼んできた。

「はい。」

 未来に関することだと思って駆け寄ると、

「この後もし時間があったら、一ノ瀬さんを連れて学校内を案内してほしいのだが…。」

「いいですよ。それは未来も了承済みなんですか?」

「もちろんだ。浦瀬に案内してもらえるならって、安心していたぞ。」

「僕、そんなに大したことしてないと思うんですけど。」

「それでいい、むしろそれが正解なんだよ。さっきのクラスの様子見ただろ。彼女たち…まあ今は男子学生も含むが、まだまだ世の中は理解が追い付いていない。負担をかけてしまっていることは、重々承知している。しかし、浦瀬のような考え方を持っている生徒に頼らないといけない部分も大きいんだ。申し訳ない。」

「いえ、大丈夫ですけど…、これって何か他意があるとか、そういうことはないんですか?」

「鋭いな、浦瀬は。確かに少し複雑な事情はあるんだが…。まあ、時期を追って説明するよ。」

「わかりました。とりあえず今のところは、普通に接すればいいだけだと思っていますから。何か不都合が起こったときは、僕のほうでできることは対応してみます。」

「ありがとう、助かるよ。」

 安堵した表情で、先生は職員室に戻っていった。

「あ、あの…。」

「ん?」

 振り返ると、とても曇りがかった表情の未来が立っていた。

「ごめんなさい。」

「え、なんで?」

「迷惑ですよね、私みたいな人間が転校してきて…。」

「そんなことはないよ。」

「えっ、でも…。」

「絶対ない。」

「…。」

 僕がここまで言い切ってくるとは思わなかったのか、言葉に詰まっているようだった。

「帰り支度は、もう済ませた?」

 俯きながら静かに首を縦にふるのを見て、

「これから学校を案内するよ。他の生徒はもう帰るか部活動に行くかで、この時間に東側校舎に残っている生徒ってほとんどいないんだ。だからまずはこのあたりから案内してあげる。」

「浦瀬さん。」

「ん?」

「私の姿を見て、気持ち悪いとか、思わないんですか?」

「いや、まったく。」

「そうですか…。」

 男子にしては華奢な体で、身長もおそらく155センチ前後くらいだろうか?

 幼さが残る顔立ちが相まって、両側で結んでいる長めの髪の毛がとても似合っている。

 だから女子の制服を着ていてもおかしいとは思わないし、むしろとても似合っていて可愛いと思う。

「ほら、この学校紹介する場所が多いから、そろそろ行こう。」

「はい。よろしく願いします。」

 こうして学校案内がスタートした。


 この学校の本校舎は、大きく東側と西側に分かれている。

 僕たち学生の教室は、その全てが東側に集約されている。

 西側には、職員室や事務室のほかに、先生一人一人に割り当てられている授業準備室、そして各部活動の部室やその活動拠点となる部屋が存在する。

 ちなみに一学年だけでも十を超えるクラス数が存在するため、本校舎だけでもかなりの規模がある。

 そのため、生徒の行動管理の効率化を図って、日中は東側に生徒を集めて、放課後は校内に残る生徒の数が減るため、先生が作業をしている西側に生徒を集める方式を採用しているようだ。

 その手法はとても理にかなったものだと感じるが、設備こそ本校舎内は他の高校とそう変わらない。

 だからここは軽く紹介するに留めて、校庭と向かった。

 今日は木曜日で、明日も授業がある。あまり遅くまで紹介していると未来も疲れてしまうと思うので、他の建物を見渡せるこの場所から説明をすることにした。

「大きな高校なんですね。」

「まあ、そうだね。先進的かどうかは置いておいて、敷地面積と伝統の長さに関しては、近隣の高校の比にならないかも。」

「あの、浦瀬さん。」

「ん?」

「どうして、ここまで優しくしてくれるんですか?」

 そう問われると、明確な答えを出すのは難しい。あえて言うなら…、

「僕が未来と同じ立場だったとして、してほしいことをしているだけだよ。」

「そうなんですね…。」

 少し言葉に詰まっているように見えて、なにか言ってはいけないことを言ってしまったかと思ったが、

「ありがとうございます。こんなに優しくしてもらえたこと無かったから、嬉しいです。」

 笑顔になった未来を見て、僕も嬉しい気持ちになったし、ホッとした。

(今何時だ?) 

そう思って腕時計を確認すると、もうすぐ午後五時になる頃だった。

「今日はこれくらいにしようか。また分からないことがあったら、その時に教えるよ。」

「あ、わかりました…。今日は教えていただいてありがとうございました。」

「どうってことないよ。それから、僕のことも名前で呼んでくれていいよ。」

「え、でも…。」

「なんなら二人のときだけでもいいし。そのほうが友達って感じするでしょ?」

「お友達…。分かりました。し、祥太郎さん…。」

 そう言って恥ずかしそうに俯いてしまった。

 何だこれは、付き合いたてのカップルか?

 一瞬二人で固まってしまったが、早くしないと帰宅ラッシュの時間と重なってしまう。

 結城学園は環境こそいいものの、少々不便な場所に位置している。

 最寄り駅はいくつかあるのだが、その全ての駅からバスを利用しないとたどり着けない場所にある。

 勿論近隣に住んでいる生徒は、徒歩や自転車を使用しているが、中には自家用車で送迎してもらっている生徒もいる。

 しかし社会勉強の一環として、年々送迎をしてもらう生徒は減少傾向にあるらしい。

 それでも入学したときに驚いたのが、最初のホームルームで定期券の買い方をレクチャーする時間が設けられていたこと。

 そういうところは意外と家で教わらない場合もあるんだなって、少し興味深かった記憶がある。

 校庭から校門までは五分ほどの距離にあり、そこを出ると、片側二車線の幹線道路がある。

 その道路をかなりの本数のバスが走っているのだが、出発地点が多数存在しているため、色々な系統のバスが存在している。

 ちなみに同じ場所を走っていても、担当営業所が異なる場合があるため、車内で落とし物をしたときは、場合によっては受け取りに行くのに一苦労しないといけなくなる。

(…完全な余談だな。)

「未来、家はどっちの方面?」

「あっちです。」

 指さしたほうは、僕が住んでいる場所の方面だった。

「祥太郎さんは、どっちですか?」

「僕も同じ方向だよ。」

「そうなんですね、よかったです…。」

 その時、遠くから僕が乗る系統のバスが走ってくるのが見えた。

「僕はあのバスに乗って帰るよ。」

「私もです。」

「そうなんだ。それじゃあ一緒に帰る?」

「はい。」

 奥ゆかしいなあと思いながら、乗り遅れたくないので、足早にバス停へと向かった。


 車内は帰宅客で込み合っていた。

 仕方ないのでつり革につかまってから、スマホを取り出した。

 帰宅時間に授業の復習をしている人をたまに見かけるが、限られた時間でしかも周囲に人がたくさんいる環境で、僕だったらとてもじゃないけど集中できない。

 復習なんて十分くらいあればできるし、娯楽は家に帰ってからいくらでも時間をとれるから、帰宅時間はニュースを流し見して情報収集する時間に当てている。

 ふと何となく隣を見ると、未来が必死にバスの揺れに耐えていた。

(ああ、そっか。身長低いからつり革は難しいか。)

「ねえ、未来。」

「はい?」

「僕の服つかんでいいよ。」

「え、あ、でも…。」

「変に遠慮しなくていいんだよ。ほら、倒れちゃうと危ないから、早くつかんで。」

「あ、ありがとうございます…。」

 そして僕の腕の裾の部分を、優しくつかんできた。

(これじゃあ急ブレーキかけたとき危ないけど、まあいいか。)

 クラスメイトとはいえ、今日知り合ったばかりの間柄だ。

 むしろ未来のような振る舞いが自然なのかもしれない。


 その後は何事もなく、終点駅まで着いたわけだが…。

「家、どのあたり?」

「駅を渡ってすぐのところにある、マンションです。」

「ああー。」

 そういえば最近、駅前の再開発で、マンションが出来上がっていたのを思い出した。

 内装の見取り図を見たことがあるが、僕の住んでいるアパートとは広さも設備も全然違

ったことが強烈に頭の中に残っている。

「一人暮らしするには、ちょっと広いですけどね。」

「え、一人暮らしなの?」

 てっきり家族と一緒に引っ越してきたとばかり思っていたから、これはとても意外だった。

「両親は、地方で料理屋さんを営んでいるので、こっちには来れないんです。」

「なるほど…。」

 少し気になるが、安易に他人の家の事情に首を突っ込むほど、自分も野暮な人間ではない。

(早々に話題を切り変えるのが最善だな。)

「夕食とか、大丈夫?」

「料理は好きなので、引っ越してきた日に買った食材を使って、何か作る予定で 

 す。」

「そっか。」

 僕は好き好んで自炊をするタイプではないため、このような人と接するたびに、すごいなあって思ってしまう。

 なかなかきっかけがないと、こういうことは始められない。

「祥太郎さんも一人暮らしですか?」

「うん、そうだよ。」

「そっか、そうなんですね…。」

「どうかした?」

「ああ、いえ。なんでもないです。すみません。」

「はあ。」

「これからよろしくお願いします。」

「うん。こちらこそ。」

「祥太郎さんがいてくれるなら、学校生活、頑張れそうです。」

 にっこりと笑うその姿は、どこか寂しげで儚げで…。

 それでも一生懸命に頑張ろうとしている、そんな雰囲気をしっかりと感じ取ることがで

きる。

「そう思ってくれるならよかったよ。」

「はいっ。」

「それじゃあ、明日も学校あるから、今日はもう帰ろうか。」

「そうですね。あっ…。」

「ん?」

「朝、一緒に登校してもいいですか?」

「ああ、いいよ。七時三十分ごろに駅前に来てもらえれば。」

「分かりました。ありがとうございます。」

「ん。じゃあ…また明日。」

「はい。また明日。」


 未來と別れた後、ファストフード店で夕食を買って、調べ物をするために足早に帰宅し

た。

 手を洗って着替えを済ませてから、パソコンの電源を入れて、作業中に飲むコーヒーを淹れる。

 いつもならカプチーノを淹れるのだが、少し気分を切り替えたくて、エスプレッソを選択した。

 僕が住んでいるこの街は、近隣の街よりも少しだけ家賃が安い。

 実家からの仕送りに頼っている身としては、非常に助かっている。

 僕の家は、駅から徒歩十五分と駅からは少し離れているが、バス停がすぐ近くにあるため、そこまで不便さは感じていない。

 また、自然が多い街としても知られていて、役所もホームページで特集を組んでいる。

「さてと。」

 出来上がったコーヒーと夕食を持って、パソコンデスクに腰かけた。

「性同一性障碍、と…。」

 調べて真っ先にわかったことは、決して障碍ではないということ。

 そして最近では、性別違和という表現に変わりつつあるということだ。

「だとすると、特性のようなものという認識が正しいのか。」

 そして障碍でないということは、特別支援学級に進学する対象からは外れるということも書いてあった。

 しかし、そのためには周囲のサポートが不可欠だということで、その点はこれから僕のクラス内、ひいては学校全体での大きな課題になりそうだ。

 なにせもともと女子高だったから、女子の割合が非常に高い。

 これは僕の思い過ごしかもしれないが、女性は横の繋がりが強くて、噂に対して敏感だと思っている。

 あくまでも男性と比較した場合の、個人的主観に過ぎないが、だからこの学校に未来が転校してきたということは、恐らく明日中にでも爆発的に知れ渡ることになると思う。

「そこも課題の一つだよなあ…。」

 まだまだ不明瞭で難しいと感じることが多いが、これは先生から託されたようなものだから、僕なりにできることはしたい。

 それでなぜこの高校を選んだのかということだが…、先に述べている通り、結城高校は国から補助金が出ていて、私立高校でありながら学費が公立と同程度まで安くなっている。

 そして実はもう一つ、大きな理由が存在した。

 それは多様性社会への理解という名のもと、様々な理由を持った人を等しく受け入れようという試みだ。

 特にこの学校は、政界で活躍する人物の子供が多数在籍している。

 先生のあの表情や態度から察するに、上層部、もしくは国から指示がおりている気がしてならない。

 少し話がそれるが、一定の社員数を抱える企業には、法定雇用率というものが存在する。

 これは障碍者を多く採用する企業に対して、国から助成金が支給されるという仕組みで、反対に雇用率を下回っている企業にたいしては、罰則を命じることができるというものだ。

 そしてどうやらここ数年の間で、その取り組みが学校にも広がりつつあるらしい。

 こちらは原則として、優遇や罰則などの規定はないのだが、そういう生徒を多く受け入れている学校は、文部科学省のホームページに名前が載るらしい。

 おそらくうちの学校も、それが目当て…というのは流石に言い方が悪いかもしれないが、そういうことであるのは明らかだ。

「うーんー…。」

 障碍と特性というのは、似て非なるものだが紙一重な状態にある。

「ここが最大の問題であり、難解な部分ってことか。」

 同性愛者や両性愛者などは、それが個性や特性だということが、最近になって浸透しつつある。

 しかし性別違和に関しては、専門分野の医者でさえも「治療が必要」と言うくらい、なかなか世の中に浸透しにくい状況が続いているようだ。

 結城高校は、男女平等の理念に関しては、他の高校よりも先進的な対応や教育ができていると、学校のホームページでアピールしている。

 しかし、実際に学校生活を送って、今こうして調べ物をしていると、どう考えてもこのアピールはやりすぎな気がしてならない。

 そのとき、学校のホームページに気になるトピックスを見つけた。

「何だこれ、性的少数者への理解?」

 せめてマイノリティという表現に変えたらどうかと思ってしまうが、今はそんなことはどうでもいい。

 どうやら学校として様々な生徒を幅広く受け入れようとしているようで、とりわけ目立つ場所に記述がされている。

 そして希望者には特別な助成金が支払われるとまで明記されている。

「いやいや待ってくれよ。僕ら男子が生活できる環境すら整っていないんだぞ。バリアフリートイレなんて西側に一つだけ。ということはそういう生徒が入学してくることなんか、はなから想定してないのと一緒じゃないのか?」

 制度が環境整備を追い越して独り歩きしてしまっている典型例だ。

 これでは素人の僕から見ても、両者ともに嫌な思いをしてしまう可能性があるのは、目に見えてくる。

「うーん、僕は先生にどの程度まで任されているんだ?」

 未來と友達になれることは、全く嫌なことじゃない。

 しかし未来がなにか生活上不都合を感じたときに、僕はどう対処をしたらいいのだろう。


 なんだかんだで調べ物をしていたら、夜の零時になってしまった。

「今日はもうやめよう。」

 頭でっかちになりすぎてもしょうがない。

 あとは実際に何かおこってから、その時に考えるしかない。

「まあ、なにもおこらないのが一番いいんだけど。」

 パソコンの電源を切って、気分を変えようとシャワーを浴びる。

 少し難しいことではあるが、誰かのために行動するのは嫌いではない。

 長時間画面を見ていたせいで冴えてしまっている目を休めようと、動画サイトで好きな配信者の配信をイヤホンで流しながら、目を閉じた。

 今日は少々気を張りすぎていたのか、目を閉じた瞬間に一気に眠気が襲ってきた。

 どうせこの時間だ。目覚ましもちゃんとセットしたし、このまま寝てしまうのも悪くない。

「おやすみなさい。」

 

 なぜここまで未来のことを気にかけているのか。

 それにはぼんやりと、でも明確な理由がある。

 …寝よう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る