3 本祭をもりあげよう(2)

 天王寺に誘われて、さらに沢の奥へと登って行く。彼女の案内する山の景色は現実世界と乖離した、異界の風景になる。一見すると整備された山道。下草も払われて、空からは適度に陽光が差し込む。美しい風景画を思わせる明るい清流のせせらぎ。しかし、それは見せかけだけのまやかし。

 天王寺が一声解説を加えると、それらは歪んで異界と化す。ぼくが気付いていなかっただけで、こちらの方が本当の世界の姿なのかもしれない。彼女は言葉を触媒に、その舌と口先でもって世界を異化する。天王寺青蛙が呪術を生業とする言霊使いだったとしても、なんら不思議ではない。ぼくらは彼女の言葉に酔い、狂い、惑う。

 彼女が言葉を狂々くるくるる。ぼくは狂う。

「これ、みてみぃ。ウチのイチオシやねん」

 彼女が示した場所には、節のある植物が群生している。あちこちに村人が群がっており、拾った石で植物の表面を叩いている。節のなかは空洞になっているらしく、内に溜まった液体を、直に口を付けて吸い上げている。

「ほんまはこんなして、根っこ近くに穴開けて、ストローみたいな空洞になってるモンを差し込んで自然に垂れてくんのを待つんや。容器に受けて溜まんのをな。でも、みんな我慢でけへんから、中身の入ってるとこを叩き割って直呑み。そっちの方がごみとか入らんでええかもな」

「なんなんだ、これは?」

 訊かなければいいのに、ぼくは問いかけずにはいられない。問い掛けはトリガーだ。彼女に説明をさせる口実になる。知らなければいいのに、知らずにはいられない。ぼくが訊かなかったとしても、美折が訊いてしまうだろう。

「ウケ様の脊柱や。ここら一帯に生えてんのは、ぜぇんぶウケ様の背骨やね。この一個ずつの骨のなかに入ってる髄液が、また甘露やねん。そんなかにもアタリがあってな。時々、骨のなかで自然発酵して酒になってるものがある。伝説の酒や、言われるぐらい旨い。これ呑んでしもたら、ほかの酒なんか下水かと思ってしまうレベルや」

 彼女に言われて目を凝らしてみれば、それは確かに人間の脊柱だった。植物だと勘違いしていたのは、頭蓋骨がのっていなかったせい。足の短い百足のような節の連なりが、緩やかな曲線を描いて空に伸びている。違和感を覚えたのは、伸びている先端部分が尖っていること。鏃型のこの骨は、尾骨と呼ばれるものではないだろうか。

 骨の太さをみるうちに気が付いた。この脊柱は根元が細く、先端にむかって太くなっている。非常にアンバランスな形状だ。それもそのはず、この背骨は上下逆さまに地面から生えていたのだ。頭蓋骨は球根のように地中に埋まって根を張っているのだろう。髪がそのひげ根の役割を果たしているのかもしれない。わざわざ掘り起こして確認する勇気はない。

「さ、割って呑んでみぃ」

 手渡された平たい石器。握り心地がよく、手の皮を破る引っ掛かりもない。力いっぱい振り下ろしてもこちらが怪我することはなさそうだ。

 ぼくは背骨を左手で支え、斜め上から利き手で石を叩きつけた。

 コーン、と乾いた音が響く。

 二度、三度。鹿威しを思わせる、すがすがしい山の音だ。

 五回ほど振り下ろした所で、骨の表面が割れる。中身は空。ひとつめの節は外れだ。

「叩いてみて、音が響いたら空のことが多い。表面まで水っぽくて、詰まった重たい音の節を叩くといいよ」

 来馬のアドバイスに従って、根元の頸椎にあたる部分、下から四番目あたりの節を叩く。

 今度はあたりだ。石が突き破った割れ目から、黄金色に輝く液体が溢れ出す。無駄にしないようにと、背骨の亀裂に唇を添え吸い上げる。とろみのある液体が喉に滑り込んでくる。キレのある清酒のような飲み口に、ふわりと香る奥深い深山の後味。アルコールは強く感じない分、どこかに奥まったところに甘みが隠されている。いくつもの節を通り抜けるごとに濾過されて不純物が少ないせいか、それとも節に閉じ込められているせいで雑菌や余分な菌が入り込まなかったおかげか。軽い飲み口は澄んだ水のようで、底なしに呑めそうだ。喉を鳴らして夢中で吸い上げる。

 ぼくは村人たちと同じように、理性を欠いた姿で脊柱にむしゃぶりつく。髄液をすすり、骨を割ってなかまで舌を這わせる。塩を舐め続ける羊さながらに、なくなっても味を求めて骨をしゃぶりつくす。ちゅう、ちゅう、と耳障りな音が自分の口元からすることにも構わず、背骨に唇を押し当てた。

「竹酒は気にいったか?」

「竹? あぁ……竹か」

 来馬の言葉に我に返ると、脊柱の妄想は取り払わる。眼前には両手を輪にした太さの青竹が、真っ直ぐ天に伸びていた。

「竹の節に酒が湧くっていうのは、昔からある伝説みたいなものだからな。この竹は特別で根から吸い上げた養分ででんぷんを作るんだよ。それを分解するコウジカビを人為的に節のなかに植え付ける。この小さな穴が見えるか? ここからコウジカビを入れて、なかのでんぷんをブドウ糖に分解したころ、今度は酵母菌を植える。あとは勝手に酒ができるまで待つってわけ。この節は天然の麹室か、発酵のための木桶ってところだな。祭りの日だけに呑める特別な祝い酒だぞ。もっと大切に呑めよ」

 来馬の言葉は異化を解く。ぼくの五感は現実に回帰する。

 見回せば小規模な竹林のただ中。広がり過ぎないようにきちんと管理されていることがわかる。夢中で口を付けていた脊柱は消え、村人たちは青竹から天然仕込みの酒でのどを潤す。

 現実と幻覚の反復横跳び。

 どちらが現実なのか、ぼくは既に自信をなくしていた。

 天王寺の言葉はぼくを狂わせ、来馬の言葉は目を覚まさせる。しかし、それも逆なのだとしたら。

 ふたりの言葉が重なる。左右から交互に脳が殴り、揺さぶられる。現実と幻覚の錦織で編まれる風景。隠し沢は虚実入り混じる異郷として、ぼくの目の前に姿を現した。

 天王寺が嘯く。

「そこの蔦を引っ張って、根っこを掘り返してみぃ。ウケさまの腕が埋まっとるから。さすがに生で食べるより調理した方がええけど、とれたてをかぶりつくのもイケるでぇ」

 土より出でたるは細い二の腕から前腕にかけて。手首はついておらず、本来手首や肩に繋がる切り口は皮膚に覆われている。蔦からは何本もの腕がぶら下がり、芋づる式にいくつもの腕が採れる。長いもの、細いもの、短いもの、もぐらに齧られたもの。サイズの異なる右腕、左腕がごろごろと地面に転がる。

 ぼくは土を払うのももどかしくて、引き抜いた先から歯を立てる。一番柔らかくて脂がのっていそうな二の腕を一口目に選ぶ。鮮度のいい腕からは血潮が飛び散り、白装束に点々と赤黒い染みを残す。魚の赤身を口にしたときの、牛とは違うさらりとしたさわやかな肉質。ほどよくのった脂はあっさりと喉を滑り、しつこくない。筋のない柔らかさで、これが女体の肉質であることが否応なしに思い知らされた。土の中で熟成した血は旨味が強く、歯ごたえのいい肘の軟骨と合わせると最高の酒の肴になる。

 脊髄酒、腕肉の刺身、肘軟骨の血のソース和え。

 まだまだフルコースには物足りない。

「ここいらの自然薯は粘り気がちがって旨いだろ。日本人なら、とろろにして米と一緒にかき込みたいところではあるよな。こちに来てみな、面白いものをみせてやるよ」

 山は異形の肉で満ちている。もはや、天王寺の言葉で暗示催眠にかからなくとも、視えるようになっていた。堰き止められた沢には掌が指をくねらせて泳ぎ、古木のこぶは乳房になって垂れ下がる。瞼のついた目玉が木の実として生り、根元は生足に変化して股座を開いている。白い肌、赤い肉。肢体の山。その間を野生の獣になった村人たちが徘徊する。鼻先で肢体の埋まっている場所を嗅ぎ分け、爪が割れてしまうことにも構わずに素手で掘り返す。

 肉には魔力があった。もう一口、と思わせる力。煩わしいこと、面倒なことを考えなくさせる力。

 人々の意識はぼんやりとした微睡のなかで、ただ空腹感だけが癒されないまま貪り続ける。

「木に開いたうろは動物がねぐらにしていることがあるんだ。夜行性で昼間はねぐらでじっとしていることもあるから、慎重に近づけば簡単に動物性たんぱく質が手に入る」

 来馬が木のうろと言った場所は、ぼくにはもう人間の口にしかみえなかった。生気を失ったウケ様の顔が、大口を開け、無音の絶叫のうちに樹木に塗りこめられてしまったような。来馬は口のなかをちらと覗くと、ためらいなく手を突っ込んだ。

「捕まえた」

 引き抜かれた来馬の手に握られていたのは、長細い内臓の管。ぶりんぶりんとうねる活きのいい腸を口から引きずり出した。

「大物だな……毒はないから心配するな。焼けばほとんど鶏肉と同じになる」

 彼はポケットからナイフを取り出すと、さっと掴んでいる先端を切り落とし、つりさげて逆側からしごき、腸の中身を押し出す。

「蛇は肉質によっては硬くなりすぎるから焼き過ぎない方がいい。内臓は出したし、焼く前にひと口いっとくか?」

 彼が捕った腸は蛇だったらしい。一メートル以上はある大きさからするとアオダイショウだろうか。ぼくにはもうピンク色で、表面がてらてらとぬめる腸にしかみえない。首を切られたというのに、腸は細長い体躯をくねらせている。

 来馬は異常のただ中において、正常で現実的だ。だからこそ、彼は異常だ。ただひとり現実がみえている。それに周囲の人間の様子がおかしくても一切気にしていない。いや、そんなことはもうどうでもいい。彼の焼くという文明的な提案は嬉しいが、出来上がるまで我慢できそうにない。

 ぼくは彼の手から捌いた腸をひったくると、血を流す先端からかぶりついた。

 腸壁はこりこりとしたごたえがあって、噛み切りにくさはホルモンのそれだ。細かなひだは噛むと肉汁が溢れ、独特の旨味を押し出してくる。人によっては臭みと酸っぱさを感じて苦手かも知れないが、ぼくは好みの味だった。クセの強いチーズの風味と、塩辛の塩気を薄めて旨味だけを凝縮したような味が病みつきになる。

「おい、メインを食べる前に腹いっぱいになるなよ。もったいないぞ」

「メインって?」

 来馬は顎でメインディッシュの場所を示した。彼について、いくつもの沢を登って行った最上流。地下水が直接湧き出す、透明度の高い泉があった。枯葉などの不純物が極力取り除かれた泉は、一目見ただけで他の食糧庫とは違う神聖な場だとわかった。

「本祭のメインディッシュといえば決まってるだろ」

 泉には一糸まとわぬ姿のウケ様が浸かり、手酌で水を掬い四肢にかけていく。丁寧に、時間をかけて俗世の汚れを洗い流すように、水垢離を行っていた。

「ウケ様だよ」

 来馬の唇がいやらしく歪んだ。

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