因習村へ行こうよ!

志村麦穂

0 警告

「俺たちは騙されている、騙されているんだ」

 派出所に駆け込んできた男は、駐在の胸ぐらを引き寄せて訴えた。げっそりとやせ細り、掻き毟られた頭皮は髪とともに抜け落ちる。ひび割れた唇からは支離滅裂な言葉の羅列が垂れるばかりで、男の正気を担保するものはひとつもなかった。糞尿に浸かりきっていたかのような臭いに、駐在は病院への連絡をすべきか迷ってしまう。真っ先に疑われたのは薬物による幻覚とせん妄状態だった。しかし、留守を任されていた駐在は配属されたばかりの新人で、即断する判断基準を持ち合わせていなかった。彼にできたことは、ヒステリィと苦悶の隙間に漏らされる断片的な情報を取りまとめ、なんとか男をなだめようとすることだけだった。

「帰ってこないから、探しに行ったんだ。三日間の予定が、一週間連絡がとれなくて、何の音沙汰もなかった。足取りも曖昧で……居所を掴んだときにはひと月も経っていた」

 恐慌状態からまともに文脈を持った会話ができるまでに十数分。落ち着きを取り戻した、というより狂い疲れた男は訥々と語り始めた。肩をひどく内巻きにした男は、見てくれが酷いせいでわかりにくいが、二十代の前半といってよい若さだった。

 呂律は怪しく、時系列の乱れた話は何度も前後を繰り返した。

「風邪をこじらせたせいで、一緒に行けなくなったんだ。代わりに友達が」

「まさか、その友達も失踪したのか?」

「違う、違うんだ」

 男は頭を抱え込む。頭の中に何かが入り込んでしまったかのように、苦痛の元を取り除こうとこめかみを執拗に引っ掻く。噛み潰されてぼろぼろの爪先で、肉を掘ろうとする。皮膚が裂け、肉がぼろりと崩れ、赤い泡が染み出してくる。男は構わず掻き続ける。駐在は彼の手を縛るか逡巡する。遮ろうとすれば、彼が暴れ出しかねない。そうなればヒステリィに逆戻りだ。

「何が、違うというんだ?」

 駐在は話を解きほぐすことに専念しようと促した。事件性があるかもしれないからだ。彼の脳裏に世間話に聞いた噂が引っ掛かっていた。神隠しにあったから探してくれ、という旨の捜索願が出されらしい。別の派出所に勤務する彼の同期から聞いた話だった。

「まったくの別人になっていた。彼女は彼女じゃなくなっていた」

「人が変ってしまった、ということか?」

 男は首を振った。激しく何度も振ったものだから、彼のポケットから財布がこぼれた。男は気に留めた様子もない。駐在は断って中身を検める。紙幣は千円札が一枚と、新幹線の領収書、小銭が少々と大学の学生証。駐在は顔写真つきの学生証と見比べて、いささか態度を硬化させた。

「これはどこで? きみの物ではないようだが」

「俺も行ったんだ。行ってしまったんだ。連れ戻しに……村に。あの呪われた村に」

 会話は噛み合わない。駐在は男が錯乱して他人の家に押し入ってしまったのではないかと危惧し始めていた。アルコールの臭いこそしないものの、やはり薬物の酩酊症状に思われたのだ。

「これは俺だ」

 駐在が薬物の検査キットを探していると、男が学生証の顔写真を指さして言った。

 顔写真は出力の過程で多少荒くなっていたが、目鼻立ちはもちろん、輪郭さえもはっきりと別人だと言い切れた。

「彼女も、俺も、違う! こんなのは普通じゃない」

 再び男の様子が急変し始める。体をけいれんさせ、言葉からは脈絡が失われる。

「あいつら、俺を殺したんだ! 俺は殺された! まかり通っている、殺人だ。掟だ、掟のせいだ! 村の外でも、おかしくなるのさ、皆! この国の人間全員だ!」

 駐在が抑えようとも、痩せ衰弱した体からは信じられない力で跳ね飛ばし、手足をめちゃくちゃに振り回す。壁や机にぶつかり、肉が跳ね、血が飛ぶ。それでも男は痛みにひるむ様子もない。

「俺は正巳だ、俺は正巳だ、俺は正巳だ。俺が来馬正巳なんだ。なぜ違う? そうか、そうだ。そうだとしか考えられない。やはり! やはりだ! お前らもグルなんだな。全員がグルで、仕掛け人だった! 演じている。ここはまだ舞台の上なのか? 俺以外の全員が、俺を嵌めようとして、俺を殺したんだ。あいつも、美折も殺された……神様だったのに! 神様を殺したんだッ!」

 男は三度、狂う。

 けたたましく嗤う。

 そして、再び告げられる。

「俺たちは騙されているんだ!」

 それは次に訪れる誰かに向けられた警告だった。

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