悪魔の足音と神の贋作 -5
曇天の広がる空は、エヴァの心まで重くしていく。言葉にするにも喉の奥でつっかえてしまうような感覚に襲われ、執務室の掃除をする手もつい止まってしまうほどだった。
「……シスター、今日は休むか」
「無理はよくないですものね」
「あ、いえ、少し考え事をしてしまっただけです……!」
エヴァの様子を見ていたリベリオとセレナが、そんな言葉をかける。心配させている事に申し訳なく思っていると、エヴァを観察していたリベリオはテーブルに置かれていた冷めたティーカップをセレナに差し出した。
「…………セレナ」
「えぇ、お茶のお取替えをしてまいりますね」
リベリオの一言で察したセレナは、自然にわざとらしくならないよう部屋から出ていく。気を遣わせたという罪悪感が、エヴァの中で顔を覗かせる。
「俺がお茶を飲みたかっただけだ、気にするな」
すべてを見られているような、そんな気がした。
(リベリオ様は、私みたいに人の心の声が聞こえるわけではないのに)
時折すべてを聞いているのではと、そう錯覚してしまうほどだった。
セレナがいなくなったのを確認したリベリオは、それで、と言葉を続けてくる。
「……で、なにを気にしている」
「大した事では、ありません」
「あの母親の事か」
「…………はい」
兄弟の母親は、結局見つからなかった。どこに行ったのかもわからず、そこにいた事実すらなくなっているようで。元々彼女の一家はヘロンベル教に元々入信していたなどではなく教皇の救いを求めてきた移民の一家だった事もあり、行く宛てなどがわからないらしい。
しかしエヴァは彼女の声を、あの縋るような言葉を確実に聞いた。それすらも嘘だったのかと思うと、それは信じがたい。
(だけど、もう一つ)
エヴァには、気がかりな事がある。
「……リベリオ様、あの子ども達は」
母親のいない子ども二人がスラムで生きていくのは、かなり難しい。
それを知っているエヴァにとってはかなり心配な部分であったが、リベリオは目を細めながらその事か、と言葉を零した。
「安心しろ、ひとまずは教会管轄の孤児院で預かってもらう事になった……あそこなら、今よりいい生活もできるだろう」
「なら、大丈夫なのですが……」
それでも、エヴァはあの純粋な声と母親の苦しむ声を思い出してしまう。ふとした瞬間に彼女の事を考えて、つい気持ちが沈んでしまう。今までは聞くだけだった告解部屋も、こうして触れたり言葉の裏を見る事がリベリオと会って以来多くなっている気がする。優しさに触れると同時に、今回のような心の矛盾に触れる事も少なくない。
「あれだけ、赦しを乞うてきたのに」
「人間なんて、そんなものだ」
本当に、そうだろうか。
(それならば、なぜ彼女はピクシー様に)
エヴァに、頼ったのだろうか。
逃げてしまうなら最初からそうしていたはずであり、告解部屋なんかには来ないはずだ。最初から逃げるなら、苦しそうな告解はしないはず。
その事がどうしてもエヴァの中で腑に落ちずにいると、リベリオはなにを思ったのか小さく溜息を零した。
「……傍から見れば確かに使い込みがバレてしまった事に対しての失踪だろうが――シスターはそう思っていないのだろう」
「……それは、もちろんです」
あの時の悪魔に対する彼女の声。言葉から出る感情は間違いなく恐怖だったからこそ、バレてしまったからという安直な理由とは思えなかった。
「まぁ俺もシスターの言葉をすべて信じる事まではできないが、引っかかる部分はもちろんある。兄さんへの報告はひとまず保留にしようと思う」
「ありがとうございます……」
こういった事は、今までにもあったはずだ。声を聞くだけのエヴァにとって、聞いた声に対しアドバイスなどはできても助ける事はできない。それは他でもないエヴァ自身がわかっている事で、今までもそうだった。
その、はずだったのに。
(私が、私ではなくなっているみたい)
この聞こえた声に、なにかできないのか。救う事はできないのか。なにかもっと、できた事があったのではないか。
今まで存在しなかったはずの感情はエヴァの中で膨らんでいき、だからこそ彼女に手を差し伸べる事ができなかった自分に対し罪悪感すら顔を覗かせている。
(どうして人は、他人に対してこんな感情を持つのだろう)
わからなかった。この感情も言葉も、それから誰かの持っているその優しさも。
なにより、前院長の残していった宿題も。
「……やはり私に、人の心はわかりません」
前院長が言っていた言葉も、リベリオが見せてくれると言った外の世界も。
すべてエヴァには理解できず、その感情につけられた名前もわからない。シスターエヴァという存在にとって、心の声を聞く事に頼っていた今までから、そのような事を想像する事はできなかったから。
(リベリオ様は初めて告解部屋で会った時、嘘を見抜いてほしいと言っていた……私には、とてもではないけどできない)
あくまでも表面上の心の声しか聞こえないエヴァに、それを思っている真意はわからない。改めて、己の無力さを実感していた。
「…………」
そんな気分が沈んでいるエヴァをどう思ったのか、面白いと思わなかったのか。真意はわからなかったが、それでもリベリオはゆっくり立ち上がりながら、エヴァの方へ近づいてくる。
「ならば、俺で試してみるか?」
「……試す、と、言いますと――」
なにを言いたいのか、エヴァにはわからなかった。
だからつい言葉を返すと、リベリオは鼻と鼻が触れそうなほどに顔を近づけてきた。吐息も、心臓音も瞬きも。すべての音が聞こえてしまいそうな距離に、エヴァも息を忘れてしまいそうになる。
「人の心がわからないなら、俺の心の声でも聞いてみるか?」
「リベリオ、さま」
「なぜ目を逸らす」
なぜ、と言われたところでこの状況に置かれればエヴァでなくとも同じ事をすると思った。
(それに、だいたい声を聞くのだって私の方からなのに……相手から聞いてみるかとこられてしまうと調子が狂う……!)
逃げるにも気づいたら壁まで追いやられていて、行き場はない。
目の前にいるリベリオもこころなし真剣な顔でどうする事もできず、その時についリベリオの顔に目がいってしまった。
(けど、これって……)
聞こえてきたのはザリザリとしたノイズの音で、それが強く思っている事なのはすぐに分かった。
(聞くかとか言っておいて、ノイズだらけだったら意味がないのに……!)
どれだけ強く思っているのか、まったくと言っていいほど聞こえない。これなら心の声も聞こえないと一瞬でも思ったエヴァだったが、状況はそうもいかない。ノイズだらけであってもリベリオは一向に離れる気配がなく、エヴァがなにかを言わない限りこのままのつもりのようだ。バクバクと今にも破裂しそうな音と、身体の火照り。
しかし正直な話、エヴァの方が限界だった。
頭まで熱くなり茹でられてしまったようで、くらくらしてくる。
「どうしたシスター、顔が赤いぞ」
(誰のせいだと……!)
今にも叫びたい気持ちでいっぱいだったが、それよりもこの二人きりの空間という状況に対してで頭の中はいっぱいだった。近すぎて不敬ではないか、そもそもなぜこの状態になっているのか。そんな事ばかりを考えていると、頭の中が真っ白になり――
「や、いや――大丈夫です!」
「ぐ、ぁ!?」
思わず、強めの頭突きをリベリオの身体に向かいしてしまっていた。頭部の痛みでエヴァも一瞬我に返ったが、本当に一瞬の話。やはり戻らない心臓の音はあまりにもうるさくて、気が動転しているのはエヴァ本人でもよくわかるほどだった。
「あ、あの、私アンナとマリネッタ様にお使いを頼まれていたのを思い出しましたので!」
もちろん嘘だったし、そんなお使いをする予定なんかはない。ただこの状況を、名前のわからない心臓のうるささをどうにかする事でエヴァの頭はいっぱいだ。
エヴァにはわからない、これがいつだったかリベリオの言っていた「どきっとした」という感情と同じである事を。
かなり強い頭突きだったようで蹲るリベリオには申し訳ないと思ったが、そんな事を言っている余裕も今のエヴァにはない。
バン、と大きめの音を立て閉まるドアと共に、エヴァは外へ消えてしまう。
残されたのは、リベリオ一人。
「…………俺は、なにをやっているんだ」
茜色の空のように顔を染めながら言葉を零す、リベリオだけ。
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