1.雨の拍動

 智樹の運転する車に乗り込み、向かった先で環は呆然とし、珍しく間の抜けた声が出た。

「智樹、何でこんなところに立ち寄った」

「それがさぁ、酔っ払って気がついたらここにいたんだよね」

「酔っ払って気がつく距離じゃない」

 環がそう言ってはみたものの、智樹は酒乱だ。酒を飲んで意識を失い、変な場所で目が覚める。そんなことは日常茶飯事だ。いや、それにしたってここは智樹の自宅や店のある辻切つじき区から車で1時間はかかる。

 そう逡巡する環の目の前には廃墟、もっと言うと廃校がそびえ立っていた。

 まだ明るい陽が差し込む中でも鬱蒼とした木立をかき分けて進み、その奥に隠れていていた鉄筋コンクリート3階建の建物は、それなりに朽ちていた。一歩足を踏み入れればガラスの破片がキラキラと散乱し、深くクラックの入った壁からパラパラと何かがの欠片が零れ落ちる。廊下や教室に張られた天井の壁紙は雨漏りのせいか垂れ下がり、天井裏の鉄筋の骨組みが顕になっていた。灰色の塗壁には大きなシミができている。

 智樹は理科室の実験台の上で目が冷めたらしい。


「変なところで起きることはよくあるんだけどね」

「勘弁しろよ。ここには幽霊がいないのか? 逆にいそうだけど」

「いないことはないけど、普通に薄いのがいるだけ。まぁ昼だし?」

 確かに幽霊が出るなら夜だな、と環は思い直す。

 環は『普通に薄い』の部分はスルーした。これは智樹の感覚によるもので、どうせ聞いてもわからない。

「水の音もここで?」

「うーん、多分」

「多分? 幽霊は気にならないのに雨音は気になるのか?」

「ああほら、今も聞こえるでしょ?」

「俺は幽霊は見えないし聞こえない」

 けれども自身が感知できないということは、やはりその『音自体』が幽霊なのだろうか。音が独立して幽霊になるなぞありうるのか。雨音が幽霊になってどうする。

 環には俄には信じがたかったが、智樹は頷き、両手をその両耳に覆うようにそっと当てた。


「多分あっち」

「わかるのか?」

「多分だけど。音の幽霊っていうのならさ、よく聞けばわかるかと思って」

「お前が何を言ってるのかわからない」

 環は智樹の後に付いていく。薄暗い学校だ。背の高い智樹についてくなら、周りなど見えない。時折突然現れる障害物を避けながら、たくさんの廊下をくぐり抜けてたどり着いた先は昇降口だった。

「ここが一番聞こえるのか?」

「聞こえない」

「どっちだよ」

「音がいっぱいすぎてよくわからなくなった。ねぇ、雨って空から降ってくるけどさ、その前って海からくるんだっけ?」


 昇降口はやたらに広く、何台かの靴箱が倒れていた。そして所々、外から侵入したのか蔦が這っている。その出口の先は中庭に繋がっているようだ。中庭といっても生い茂った木々に覆われ、その先は見えない。

「海水が蒸発してできた水蒸気が集まって雲になり、それが冷えたり山にぶつかったりして雨滴になって落ちてくる」

「ふうん? さすが大卒」

「これは小中くらいの知識だよ」

「そうするとこの水の音の幽霊は太平洋から来たのかな」

「近くの池の水が蒸散したのかもしれん」

「浪漫ない」

 わずかに不貞腐れる智樹の言を聞き流しながら、環には確かに気になることがあった。

 ここはなんだかおかしい。薄っすらと世界の重複を感じる。

 世界の重なりの評価という点で、環と智樹の意見は似通っている。

 智樹にとって人が生活する世界と霊というものが存在しうる世界は薄氷うすらいのように幽けき膜で隔てられている。智樹のようにその感触に鈍感な者は、気付かぬうちに踏み越えてしまう。だからなるべく気をつけて、智樹は何か違うなと思うものには近寄らない。

 一方の環にとって世界とはもとより複層的だ。人を含めた様々なものは、その多くの世界にまたがって存在している。だから神社や暗がりといったその境界が通常より曖昧なところでは、人はその隔たりを容易に踏み越えてしまう。

 つまるところ、この場所は智樹にとっては世界の境は既に破壊されていて、環にとっては別れているべき複数の世界が溶け合っていた。


「お前はいつもよくこんな変な場所を見つけてくるね」

「アハハ」

「それでどこがわけ?」

「んーとね、あっち」

 尋ねては見たものの、環は何となく予想はついていた。この先に可哀相な何かがあるのだ。智樹が妙なことに首を突っ込む原因の半分は、智樹自身の性格にある。中途半端に優しい智樹は、可哀想なものを放ってはおけない。

 智樹の背中を追って昇降口を抜けると、薄っすら雨が降っていた。それが環の髪と肩口を柔らかく濡らす。けれどもその湿度は腰より下に伝わることなく蒸散する。既に現実世界ではあり得ない事象が起きている。

 環は警戒しながら見渡すと、中庭には一本の大きな木が生えていた。見たこともない奇妙な木で、高さは4メートルほど。形は樫の木に似ているが、その茶色の表皮はドクリドクリと波打っている。

 2人の認識するこの木は現実世界には存在し得ないはずの木だけれど、2人にとっては通常覗き見うる範囲の奇妙な光景の1つだ。

 環は昇降口を超えた時点でいくつか位相を超え、既にここは現世と異なる異界に移動したと感じていた。


「ほら、誰か寝てる」

「なんだこれは」

 環の眉根に皺が寄る。

 その木の真ん中あたりには、人の上半身が埋め込まれていた。ちょうど環と目線が合う程度の高さだ。

 正確にいえば上半身がめり込んでいるわけだから、下半身はきっと木の内側だろう。そしておそらく人ではない。その皮膚はやや青みがかっているし、その表皮はしっとりとしめり、どこか粘着質そうなゲル状のもので覆われている。環はその表面を丁寧に目で負うと、その人間の鼓動が木の表皮の拍動と同期していることに気がついた。とすればやはり、生きている。この人間も、木も。


 環は一瞬、その人間に触れたものだか躊躇した。けれども智樹は躊躇も何もなくその首筋に触れた。そしてその人間の瞳が薄っすらと開き、パラパラと降る雨の音が強くなった。

 その人間はゆっくりと左右、というより2人を不思議そうに眺める。

 環が試しにその眼の前で右手をゆっくり動かすと、その瞳はゆっくりとその動きを追う。

「この子、話は全然通じないんだけどさ、なんか窮屈そうだなと思って」

「またそんなことを」

 そう呟きつつ、環は智樹の言に違和感を覚えた。

「お前にはどんなふうに見えるんだ?」

「青い子供が木に埋まってて、苦しそうなんだ」

「大まかなところでは一致するな、俺は別に苦しそうにはみえないが」

「そうなの?」

 環と智樹は物の見え方が異なる。

 それは多分アプローチの違いからくるもので、見え方が異なるということはこの人間は環と智樹で現れ方が異なるということだ。智樹の感覚器官で接触して問題がなくても、環が接触すると危険なことは往々にしてある。

「それで他には?」

「他? 多分この子が嫌な気分になったらパラパラっていう音が強くなる」

「ああ、だから雨音の幽霊なのか。じゃあこの眼の前の青い人間は幽霊じゃないのか?」

「なんで?」

 智樹は実に不審げな表情で環を見つめる。

「この子は幽霊って感じじゃ全然ないじゃん?」

「へぇ。じゃあお前には木の脈動と雨が見えてないのか」

「雨? 雨が降ってるの?」

「ああ。さっきからな。それでお前はどうしたいの?」

「この子をここから出してあげたい」

「なんで」

「可哀想だから?」

 智樹はさも当然のように発する。

「お前の行動原理はだいたいそれだな」

 智樹は再び不思議そうに環を眺めた。

 やはり智樹は中途半端に善人だ。可哀想な、特に人間や動物であれば助けたくなる。時には妖怪の類ですらも。

 環は改めて目の前の、智樹が言うには人間を見る。環にはその眼の前の存在は人間には見えなかった。いうなれば妖精とか妖怪だ。なぜならその子、というより木が脈打つ度に雨がどくりと揺れるからだ。仮にこの人間が俺たちと同じ世界の性質を持つとしても、この世界に既に根を張り、既に俺たちが住む現実世界ではあり得ない存在と成り果てている。

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