望み

 俺は直下に丸椅子を拾い上げて、この失態を取り返すかのように鈍化した身のこなしを露払いする。


「……」


 そんな俺を彼は何も言わず見ていた。互いに言葉にせずとも判っていた。今置かれている状況の深刻さや、目眩のするような日常の変化が、俺達の関係にも多大な影響を及ぼしている事に。他愛もない会話だったと思う。呼吸の置き方、相槌の間合い、なるべく感情を抑制しながら、彼の負担を考えて短い時間で見舞いを切り上げた。何をどう喋ったのかはどうでもよく、同じ空間で同じ空気を吸った事。それが何より大事だった。


 ただ、見舞いを繰り返すたびに、ぎこちなさは和らいで、学校での話題を手土産に病室へ通うようになる。


「ずーっと学校の周りを走らせられてさ。途中で吐いてる奴もいたよ」


「サッカー部、また入ったんだ」


「そうなんだよ」


 部活には属していないし、中学の三年間の活動を目処に高校では縁を切っていて、それを彼も知っている。


「あ、高野あゆみ。覚えてるか? アイツが宮坂と付き合っててさ。教室でキスをしているのが教師に見つかって」


 高野あゆみは、出色した花貌の持ち主で一年時の入学式には遍く男子生徒の視線を集めた事で有名だ。そんな高野あゆみと接点を持つ事は勿論、異性との交友を耳にするなど願ってもやってこない。教室を分け合った同じクラスメイトでありながら、谷間のように断絶された関係にある。


「あとは……教師が女子にセクハラまがいの事をして、壮大な全面戦争に」


「そうなんだ」


 ありもしない学校での出来事を彼に吹き込んだ。教室の隅で、名前すらろくに呼ばれない俺が、彼の興味を惹かせる一つの方法として「嘘」を利用した。貧相な人間関係のシワ寄せがまさか、このような形で現れるとは夢にも思わないだろう?


 季節を跨ぎ、窓の外で風が桃色に染まり、春を運ぶ。日差しの温かさに背中を押されて、俺はこれから先に待つ未来の話を持ちかける。


「退院したら、何がしたい?」


 出口が見えない長い入院生活に少しでも前向きな志しが欲しかったのだ。


「どんな事だってしたい。望むなら」


 俺は彼に顔向けできなかった。典型的で杓子定規な、箸にも棒にも引っかからない学生の一人として、埋没した日々を臆面もなく謳歌し、嘘で塗り固めた学校での出来事を彼へ授かる事しかできない俺は、糞にも劣る。だからこそ……。


「何が望みだ?」


 ベレトが催促する返事に関して、逡巡する事なく答えられた。


「どんな事だってしたい。望むなら、全て」


 俺のそんな答えは、計算のうちに入っていたかのような賢しら顔をするベレトは、嬉々として言う。


「それでこそ、柱の一人だ」

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