不屈の葵
ヌマサン
第1章 夢幻泡影の章
第1話 黎明
天正十一年、十二月二十六日。その日の岡崎城は慌ただしかった。城外とは対照的に、城内はバタバタと人の足音が幾重にも重なり、騒がしすぎるほどである。
陣痛に耐える声をかき消すように弓づるをかき鳴らすのは貴人の出産や病気のときに邪気をはらうために
石川安芸守は松平広忠と同じく、
早暁にもかかわらず、わざわざ産屋の外まで出向いていた城主・
「殿!」
「おおっ、生まれたか!?」
「はい、元気な和子でござりまする!」
産屋から産声が上がったのは寅年、寅の日、寅の刻。帝王になる資質を備えていたなどと後世で言われるこの時刻、東照大権現として神格化されることになる和子が乱世に生を受けた。
十七歳の若き三河国岡崎城主・松平広忠にとって待望の嫡男である。生母は十五歳とあどけなさの残る尾張国緒川城主である水野妙茂の娘・
広忠は世継ぎである以上に、我が子が生まれたことの喜びに打ち震えていた。しかし、まだ喜ぶには早いと体の奥底から湧き上がる感情に慌てて蓋をした広忠は、於大の方が無事なのかと矢継ぎ早に確認する。
そうして母子ともに健康であると知り、安堵した。口腔内を拭われ、臍の緒が切られる。へその緒を切る胞刀の役を務めるのは、酒井
松平広忠の嫡男が誕生したことは於大の方の父、水野
「父上、お聞きになられましたか!?」
「げほっげほっ、何をじゃ、信元……」
妙茂は不吉な咳を繰り返しながら、廊下を必要以上に大きな足音を立てて渡ってきた緒川城主・
恐らくは報せを受けて慌てて馬を飛ばしてきたのだろう。粉雪の舞う冬だというのに、額に汗が滲んでいた。
そんな父親譲りのしたたかさを持つ水野下野守は老父の側へどかりと腰を下ろすと、開口一番、松平広忠の嫡男の話をし始めた。
「父上、そうおとぼけにならずともよいではありませぬか。今朝、岡崎の松平広忠の元に嫡男が生まれたことでございます」
「おお、そうであった……ゴホン。確か、寅年、寅の日、寅の刻に生まれたとか言っておったな」
「某にとっては甥、父上からみれば外孫にあたる者。この和子が松平の当主となれば、松平と水野の結びつきはこの上ないものとなりましょう」
「ふん、信元よ。それは本心から言っておるのか?」
「無論にございます。可愛い甥っ子の誕生を心底より喜んでおりますとも」
妙茂は信元の顔を見て、思わず笑みがこぼれた。
仮に、目を閉じて言葉だけ聞いていたとしたならば、妹が無事に出産を終え、甥が誕生したことを喜ぶ一人の伯父に思えたであろう。
しかし、信元の目を見れば、妙茂には分かってしまった。策略家の心を知るは策略家のみ、といったところであろうか。
「して、岡崎へ祝いの使者は遣わしたか」
妙茂からの確認に首肯する信元。雪がちらつく中、祝いの使者が向かっている姿を脳裏に浮かべながら忠政は横になる。
「父上、外は寒うございます。くれぐれもご自愛くだされ。父上には長生きしていただかねば、ろくに親孝行もできませぬゆえ」
親孝行者の仮面をかぶり、妙茂のいる二の丸を後にし、緒川城への帰路につく。刈屋城にて妙茂・信元の父子が対面した頃、岡崎城内は三河国に積もる雪も溶かしきってしまうのではないかと思うほどの熱気に満ちていた。
松平広忠も於大の方の産屋にて我が子との対面を済ませ、その赤子は御年88歳の
永正5年の永正三河の乱において、
和子の誕生に年始の賀と、ここ数日の岡崎城は慌ただしい。そんな静けさが戻らない岡崎城内であっても、小さな小さな握りこぶしを虚空に伸ばし、ぱっちり開いた無心な目であたりを見回す竹千代。
そして、竹千代の実父・広忠は新年の挨拶をするべく出仕してきた家臣たちを茶会や宴でもてなしていた。そんな中、広忠は盃を持って石川安芸守忠成の元へと上機嫌に歩いてゆく。
「安芸。改めて蟇目の役、大儀であった」
「もったいなきお言葉。臣下として当然のこと。若君の蟇目の役を務められたこと、我が家の誉れにございまする」
「うむ。そうじゃ、
石川彦五郎、のちの
「はっ、今年で十になりました。竹千代君をお支えする武士とするべく、厳しく躾けておりまする」
「左様か。左近大夫は達者にしておるか」
「達者……とは申せませぬが、歳の割には壮健にございましょう」
「うむ、石川忠輔といえば当家発展の基礎を築いた功臣の一人じゃ。長生きしてもらわねば」
「そのお言葉を聞けば、父も喜びまする」
石川安芸守が深く一礼すると、広忠も喜色満面であった。その後も、広忠は忠成に長男・
「助四郎はしっかりして参りました。齢は十一でござりますが、それがしの孫とは思えませぬ」
「ほう、興味深い。して、それは何ゆえじゃ?」
「はい、三河者とは思えぬ、口達者でして。ああ言えばこう言う生意気な小僧なもので……」
「ハハハ、頼もしい限りではないか。口下手よりは達者の方が良い」
下手より達者である方が良い。その言葉に忠成もなるほどと思う反面、度が過ぎると口は禍の元との言葉の通り、災いを招き寄せるのではないかと懸念するのであった。そんな石川助四郎こそ、のちの
「殿、新年あけましておめでとうござりまする!」
「おお、雅楽助か。今、そなたの舅と話しておったところよ。ささ、近う寄れ」
やって来たのは酒井雅楽助政家。彼は改めて広忠から胞刀の役を務めたことを労われていた。褒め慣れておらず、照れくさそうに頬を人差し指で搔いている。
「雅楽助のところには、まだ嫡男は生まれぬのか。そなた、わしよりも5つ年上であろうが」
「ははぁ、まだにござります。しかしながら、まだまだこれからにござりまするぞ」
「その意気じゃ。今後とも忠勤を励んでくれよ」
「ハッ、今後とも粉骨砕身、松平家の繁栄のため、この身を投げ打つ所存にございまする!」
そう言って胸をドカッと叩く酒井雅楽助と、その舅である石川安芸守らと話していると広忠の眼前へやって来たのは
「新年あけましておめでとうござりまする」
「大蔵か。今年もよろしく頼むぞ」
声をそろえ、深々と礼をする阿部定吉。そんな彼らから新年の挨拶の次に口から飛び出したのは、広忠の後見を務め、現在は今川義元へ年賀の挨拶をするべく駿府へ赴いている松平
蔵人信孝は広忠の父である先代・
そして、今現在、広忠ら岡崎松平家は蔵人信孝の主導で、東三河の国衆・牛久保の牧野氏を支援していた。この牧野氏は旧領の三河国今橋領の奪還を試みていたのだ。牧野氏が今橋領をめぐって対立するのは
戸田宗光は今橋領をめぐって牧野氏と対立しているだけでなく、於大の方の実家である水野家と渥美半島をめぐって対立していた。
「大蔵、そちは何がいいたい」
「然らば言上仕る!ただちに信孝殿を排除なされるべきです」
「それは聞き飽きたぞ。何度、言われてもわしは叔父上を追放する気にはなれぬ。わしにとって叔父上は父の如き存在なのだ」
「何もかも承知のうえで申し上げておりまする」
ぎろり、と怒りを帯びた目を向ける広忠。十八の若き当主の眼差しは、阿部大蔵を貫く鋭い光を放っていた。しかし、さすがは松平家重臣の筆頭格、広忠の眼光ごときで臆することはなかった。むしろ、ここぞとばかりに信孝排斥を訴えかけていく。
「今、当家は殿のもと、松平家は一丸となっております。それは殿もご承知のことと存じます」
「うむ、それは信孝叔父上やそなたら重臣らが心を一にして働いてくれておるからに他ならぬ。であるのに、叔父上を追放すれば当家は腕を一つ欠くに等しいのだ」
「確かに、これまでの功績には目を見張るものがございます。しかし、このまま信孝殿の勢力が拡大していけばどうなるか、殿はお分かりのはず!」
語気を強め、膝をすすめる阿部大蔵。彼が最も恐れているのは松平蔵人信孝が勢力を拡大していくことで、当主である広忠の立場を脅かすこと。そうなれば、松平家は再び分裂しかねないのだ。
「くっ、牧野氏を支援するのも叔父上の深謀遠慮あってのことだ。それは分かっておろうが」
「……牧野を支援することで、同じく牧野を支援している今川氏とは間接的に味方ともいえる状況となる。それは三河への進出を虎視眈々と狙っている今川義元と敵対する道を避けることにつながる、ということでございましょう」
「そうじゃ!叔父上の主導で水野家と婚姻同盟を結んだことで今は織田家との関係は悪くない。しかし、それもいつまで続くかは分からぬ。ゆえに、いざ織田と一戦交えるとなった折に、今川という後ろ盾の有無は大きな違いを生むのだと申しておる!」
どうして、水野家と婚姻同盟を結ぶことが、織田家との関係悪化を避けられることにつながるのか。それは水野下野守信元の正室が桜井松平
松平信定の長男で現当主・
「然れども康孝殿の所領を併合して勢力を拡大した信孝殿が、今川氏との外交でも成果を挙げれば松平家内部での立場は殿を凌ぐほど強大なものとなりましょう。そうなれば、信孝殿を当主にしようとする輩が出てもおかしくはござりません」
降り続く雪を溶かしてしまうほどの熱を込めて弁舌を振るう阿部大蔵の願いは、ただただ広忠の立場を確固たるものとすること。そうすることが、松平家のためなのだと心底より信じている。
「殿、信孝殿の排斥につきましては、
広忠は阿部大蔵の言いたいことが分からぬほど愚かではない。ただ、自身の岡崎帰還にも尽力してくれた叔父への恩義と有能さを捨てきれないのである。
また今回も聞き入れられずか。そう阿部大蔵が諦めかけたところへ、心強い味方が到着した。生母が阿部大蔵の叔母にあたる
「なんじゃ、また阿部大蔵が信孝殿を排除するよう勧めておるのか。お主も懲りぬ奴よ」
「何を、昨晩は信孝殿を排除することには賛同すると申しておったくせに」
「フン、言うた言うた。酒に酔っておったで、記憶は定かではないがな。ワハハハハハ……」
軽口を叩きながら登場した大久保新八郎は、ドスンと床に腰を下ろす。先ほどとは打って変わって、実に真剣な眼差しである。
「殿、この大久保新八郎忠俊も信孝殿の排除には賛成でござる。あの者は確かに口達者で、視野も広い。しかしながら、功績を鼻にかける癖がござる。これを捨て置けば排除されるのは信孝殿ではのうて、殿の方じゃ」
「く、口が過ぎようぞ!」
たまらず石川安芸がたしなめるも、日焼けの似合う大久保新八郎は意に介さない様子。これには阿部大蔵もこらえきれず、口元を袖で隠して笑い始める。
そんな奇妙な空気の中、広忠は思案した。己は今、松平家のためにどうすべきなのか、次を担う竹千代のために父親として何ができるのかを――
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