10日目

周が通い始めてから十日が経った。毎晩茶屋の開く時間ぴったりに訪れて、閉店する時間に帰って行く。家庭的な料理を食べ、酒は飲まず、色事めいたことは一切匂わせずにただ話をするだけ。

果たして楽しいのだろうか、この男は。自分から吹っかけたことは棚に上げて不思議に思う。自分で言うのもおかしな話だが俺は決して話が上手ではない。むしろ下手な方だ。今まではそれで閨事を回避してこられたけれど、周は辛いと思っていないのだろうか。

別に情が湧いたわけじゃない。絆されたわけでもない。ただ、毎晩安くもない金を払うのに豪華な食事もせず床にも入れず、おまけに話し下手の相手となるとさすがに嫌気がさすんじゃないかと心配になったのだ。

「それで諦めてくれたら好都合なんだがなぁ」

「本当に? 姐さん、最近すごく楽しそうなのに」

「どこがだ!」

髪を整えてくれていた禿が、後ろでクスクス笑う。まだ客を取ることはないが、いずれはそういう訓練も始まるのだろう。

そうなると、今みたいにゆっくり話すことはできなくなる。せめて今の、なにも穢れていない間くらいは穏やかに過ごして欲しい。ここに売られた時点でそれは叶わぬ夢かもしれないが。

「雲雀、あんまり適当なことを言うな」

「適当じゃありませんよ。自分から髪の手入れを頼んでくる姐さん、僕は初めて見ました」

「それは……お前に負担がないようにと、思って」

「ふぅん」

元から客を取らないと決まっていたが、一応何があるか分からないので毎日髪は整えてもらっていた。着物は簡素なものではあったが髪だけはすぐに結い上げることができない。

ただあまり自分の見た目に興味がなかったせいでいつも雲雀には「なんでもいい」とか「好きにしてくれ」としか言ってこなかった。

しかし周が通うようになり、必ず身支度をすることが決まってからはそうもいかない。こちらである程度決めないと、その後には時間のかかる着付けやらが待っているんだ。最初から俺が決めていれば色々と楽だ。俺も、雲雀も。ただそれだけの話なのに何を浮き足立っているんだか。

「今夜はどの着物にしましょうね」

「なんでもいい。あいつは特に気にしないから」

「そうでもないですよ。帰られる時にすれ違ったけど、昨日の着物はお気に召しているみたいでした」

「はぁ? なんで分かるんだ」

「そう言ってたからですよ、姐さん」

いつの間にそんな仲になっているんだ。というかそういうのは俺に直接言え。なんで禿にしか言わないんだ。俺のことだろ? そっちの方が喜ばれると思わないのか、あの朴念仁。

いや、別に喜びたいわけじゃないが。嬉しくもないし。

「今日の打掛けはどうします? 以前松屋のご隠居が贈ってくださったものとか、まだ袖を通してないでしょう?」

「あー……うん、まあ、そうだけど」

だが、さすがに他の男からもらった着物はまずくないか? 周は気にしなさそうだけど、なんとなく俺が嫌だ。たとえそれを見て「綺麗だ」と言っても胸の内がすっきりとしない。

お前はそれでいいのか、と突き詰めたくもなる。言う筋合いなんかありもしないのに。

「昨日って、どんな着物だったっけ」

「ええと、花車でした。金の刺繍がされている」

「そうか。じゃあ今日は」

同じように鮮やかで濃い色の着物に、大きな花の柄が施されたものにしよう。淡い色よりも濃い方が好きなのかもしれない。俺もそっちの方が着ていて落ち着く。

一体どんな顔をするかな。似合うと思ってくれるだろうか。思っていても直接言ってくれないのなら聞いてみよう。今日の質問はこれにしてみても面白いな。もし、好みがあるのなら「じゃあ旦那様が買っておくれよ」と言ってみても悪くない。

あの柔和な笑顔がどうなるのか見てみたい気もする。

「姐さん、やっぱり楽しそう」

「仏頂面よりはいいだろう?」

「とても!」

無邪気に笑う雲雀の頭を撫でてやると、まだ丸くて柔らかい頬が擽ったそうに緩んでいった。


そう息巻いて座席に座ると、なんだか妙に緊張してきた。別に俺がどんな打掛けを着ていたといても周は何も思わないかもしれない。多少は何かしらに気づいて欲しいけれど、だからと言って浮いた言葉を向けられたらきっと可愛くないことを言ってしまうだろう。

素直じゃないから、と雲雀に言われるのにも慣れてしまったが、こればかりは性格なんだ。すぐに変えろと言われても難しい。そもそも幼い頃は見た目なんてなにも気にしていなかった。むしろ倹約、質素、質実剛健な暮らしをしてきたんだ。そんな人間がいくら陰間とはいえ、こんな場所には不釣り合いなのだ。

もうすぐ店が開く。そうしたら、きっとすぐに周はやってくるだろう。何が楽しいのかニコニコとしながら、今日も俺に受け取られない手土産を持って。

「やあ、夜鷹。こんばんは」

「こんばんは。今夜も来たね」

「もちろんさ。そのために大急ぎで仕事を終わらせてきた」

今日の周は藤鼠色の紬に濃紺の羽織という、普段より畏まった格好だった。言葉通り仕事が終わってすぐにやってきたのかもしれない。いつもの着流しも、粋な感じで悪くない。でも本当はこういう格調高い方が似合うんだろうな。

癖の強い髪は雰囲気を柔らかくし、切れ長ではあるが琥珀色の瞳はどこか優しげだ。どんなに着物を気崩しても品の良さまでは隠しきれない。それは、いつ何時でも背筋をすっと伸ばして座る仕草からも伝わってきた。

そんな、見るからに誠実そうな男に媚びたような口調で着物について尋ねるなんて。なんだか滑稽な気がしてしょうがない。

「こんな格好じゃここだと浮いてしまうかな」

「たしかにね。旦那様は、いかにも金持ちって感じだから」

「使い道を知らないだけさ。使わないから貯まるだけ」

まるで修行僧みたいなことを言って、周は困ったように笑う。なるほど確かに、毎晩陰間茶屋に通うとなれば他の趣味に金を費やすことはできないだろう。一晩だけでも随分と金を取られる。それを、百夜だ。

生半可な気持ちではできないだろう。

だからこそ俺は客にそれを求めた。俺を抱きたければ、本気で向かってこい、と。生半可な気持ちで俺を抱こうなんて、それは矜恃が許さない。いくら陰間とはいえ、どうしても譲れないものがあった。

周は、それをわかってくれるのだろうか。

「本当は貴方に打掛けを贈りたいんだけど、生憎と私はその類に疎くてね。何を選べばいいか分からないんだ」

「慣れてそうなのに」

「まさか。弟への贈り物にさえ頭を悩ませるんだよ」

「弟君、ですか」

その響きに胸の奥がぐっと締め付けられた。かつは自分もそう言われていたからだ。周に対してどこか安心感を抱くのは、彼の持ち兄らしさを感じ取っていたからだろうか。彼の弟は一体どんな人なんだろう。知りたいことは山のように湧いてくる。相手に興味があるのは俺の方ばかりなのか?


いつの間にか自分の中に周が居ることは当然のように思えてしまい、なんだかおかしな気分だった。

「そうだ、打掛け。どんなのが好きか教えてくれるかい?」

「それが今日の質問ってわけだね」

「うん」

「欲がないねェ、旦那様」

今日も今日とて素朴な食事を食べながら、酒も飲まず、俺を抱くこともせず、ただ穏やかな時間を過ごしている。しかも唯一許された質問が、俺の希望を知ることだなんて。

どうしてここまでするんだろう。出会ってまだ十日しか経っていないのに。

「私はあまり着物に詳しくなくてね。贈りたいと思っても何がいいかわからなかったんだ」

「詳しくないだなんて。いつもいいもの着てるじゃないか」

「仕立て屋に任せているから。自分で選んでいるわけじゃないんだよ」

なるほど。本当に自分の身の回りに興味がないようだ。着るものも、食べるものも、与えられるものに満足してそれ以上を求めたりしない。

そんな男がどうして俺にここまで。

(自惚れちゃいけない……絶対に)

ここは陰間茶屋だ。どんなに周が誠実に思えようと、客でしかない。客が飽きれば俺に引き止める術はないのだ。

だから期待しない。「次」という言葉を信じたりしない。周も今は毎晩通っているが、それが明日も続くとは限らない。

そう、自分に言い聞かせると、胸の奥がちくんと傷んだ。

「夜鷹? どうした?」

「あ、ああ……なんでもない。打掛けだったっけ」

「そう。どういうのが好きかな」

「ううん……」

正直言うと、あまり好みというのはなかった。自分で選ぶことはほとんどなく、手持ちの打掛けはほとんど客に贈られたものだ。その日身につけるものは雲雀に選んでもらっているし、周と同じくらい自分も自分に興味がなかった。

そういえば自分で打掛けを選ぶのは初めてかもしれない。陰間になって十年近くになるが、いつも与えられるものばかり身につけていた。欲しいものなんて、そんなの一つしかなかったから。

「あ、周」

「ん?」

そうだ。今日、聞きたいことがあったんだ。質問しようと思って身支度の時からずっと考えていたこと。

それこそ今聞くべきではないか。

変に緊張してしまう。口の中が乾いてしょうがなかった。もういっそ、酒でも飲んでしまいたい気分だ。それでも喉の奥をこじ開けて、掠れた声で絞り出したのは。

「き、今日の打掛け、似合っているか……?」

自分でも笑ってしまうくらいみっともない、小さな声だった。陰間として、客に使うべき言葉も出てこない。太夫なんて威厳はなく、震える手を抑えるために握りしめたまま動かすことができない。

どうして、こんなにも調子が狂うんだろう。

「似合ってるよ、とても」

「ほ、ほんと?」

だから、周にとってはなんでもない一言に、こんなにも喜んでしまうんだ。

「うん。貴方は大きくて鮮やかな柄が似合いそうだ」

今度、仕立ててくるから、と言う周は、今まで見たどの花よりも美しく、鮮やかで、眩しかった。


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