第21話

 カワさんは、しばらく窓の外を眺めていたが、数分すると自分の部屋から持ってきた本を広げた。窓越しの太陽の日差しは、熱さを帯びて室内を眩しいくらいに明るくしていた。


「こりゃあ、随分と暑い外出になりそうだな」

「痩せるかなぁ」


 ふっとカワさんが視線を上げて、そんな呟きをもらす。


 ゼンさんは二つ目の薬を掌に乗せたまま、眉間に皺を寄せてカワさんを見やった。


「日焼けするだけだろう。ミトさんには、日傘が必要だな」

「ゼンさんみたいに、僕も引き締まった肌の色になれるかな?」

「俺のは、たんに浅黒いって言うんだ。シミやそばかすだらけだぜ」


 そう答えて、ゼンさんは薬を飲みこんだ。次の薬を飲むまでの間、外の風景でも見ようかと首を動かした際、瞳孔を貫くような眩しい光に目を細めた。


 サングラスか帽子が必要になりそうだ。麦わら帽子をかぶっていた母の姿を思い出し、ゼンさんは拳をぎゅっと握りしめた。


 T遊園地は、愛之丘老人施設から国道で、一番早ければ四十分で着く。これは渋滞に巻き込まれることなく快調にドライブが進み、当国道の法定速度六十キロで走り続けた場合の換算推定時間である。


 その国道に乗るまでは、田舎町の細道がしばらく続く。そこを考えると、約一時間と計算した方がいい。少々混んだ場合は、マサヨシがいうように一時間と二十分はかかるだろう。



 そこまで考えたところで、ゼンさんは窓からカワさんへと視線を移した。


「ミトさんは、車酔いをする方だろうか?」

「僕は大丈夫だと聞いてるよ」

「カワさんは?」

「左ハンドルの車を運転していたから、左側に座れば特に酔わないと思う」

「くそっ、富裕層が」


 ゼンさんが毒ついても、カワさんは臆病癖が直ったように「えへへへ」と笑うだけだった。それからしばらく、二人はミトさんと外出する時間を待ちながら、読書とお喋りを楽しんだ。


             ◆◆◆


 午前九時三十分頃。


 カワさんは、職員に頼んで買ってきてもらった使い捨てカメラを持ち、ゼンさんは、大事にしまって取っていたロケットペンダントを、ポケットにしまい込んで部屋を出た。


 そのロケットペンダントは、妻との結婚生活が終わりを告げた時に、彼の手元に残った唯一の思い出の品だった。今日、断ちきる想いと共に息子に渡すつもりでいる。ゼンさんは、背筋をピンと伸ばした。


 ゆっくりとした足取りで一階へ降りると、身分証が入ったカードケース、飲み物、麦わら帽子が看護師たちから手渡された。フロアには入園者と来客者がまばらにおり、入口となっている正面ガラスからは、贅沢なほどの太陽の光がこぼれていた。


「いい天気だね」

「ああ、いい天気だ」


 カワさんが言い、ゼンさんも相槌を打った。


 ポケットに両手を突っ込んだまま、ゼンさんが立ち尽くしてしばらくすると、正面入り口に、光沢を持った黒色のボックス乗用車が停まった。日差しを反射する滑らかな塗装が高級感を引き出し、車体の隅々まで磨かれたそれは新車に見える。車高があり、幅も広い。

 

 それを見たカワさんが、落ち着きなくおどおどとした。車から降りてきたダークスーツにネクタイ無しの白シャツ姿の男を見て、「ゼンさんの息子さん?」と控えめに尋ねる。


 ゼンさんは、すうっと目を凝らすと、「ああ」と喉から声を絞り出した。

 

 マサヨシは唇を一文字に締めて、つかつかと足早にやってきた。光沢かかった革靴がひとたび館内に響くと、中にいた職員や来客たちの視線が自然とそちらを向いた。


 すらりとした長身に、数本の白髪しかない癖のある黒い短髪。少しばかり余分な肉が少々ついてはいるが、鍛えられた筋肉がその身を引き締めているようだった。凛々しく揃えられた眉の下には、彫りの深い双眼がある。


「迎えに来ました」


 同じ背丈のゼンさんと向きあい、マサヨシは社会人がすっかり身に沁みた礼儀台詞を口にし、けれど仏頂面で不服そうな口調でそう告げた。


 ゼンさんは、受け付けの壁に掛かっている時計をチラリと見上げた。彼と同じ怪訝面にある眉間の皺を深くする。


「十五分前行動か」

「社会人の心掛けだ、基本的なことだよ。部下にそれを教えているのに、上司がやらないんじゃ示しがつかない」


 マサヨシはそう言い、ふいっと視線をそらした。そのまま受付けに向かうと、最後の外出手続きを始める。


 そこに、オカメ看護師が車椅子のミトさんを連れて現れた。ミトさんは膝掛けに皺の入った白い両手を添え、こちらに向かって微笑みかけてきた。その暖かい空気は以前のような親しみがあり、カワさんが思わず「ミトさん」と声をかけて駆ける。


「はい。ミト、と申します。今日、一緒にひまわりを見てくれる方?」


 その時、ミトさんが子供みたいな少し舌足らずな口調で、穏やかにそう告げてきた。


 以前のような感覚がまだ抜けていなかったカワさんは、駆け寄ろうとした足並みを落とし、涙腺が緩むのを堪えて、それから顔を上げてにっこりと笑った。


「僕は『カワさん』、そして、向こうにいるのが『ゼンさん』」

「今日は運転手さんが一人いて、ミトさんたち三人を連れて行ってくれるんですよ」


 オカメ看護師が、助けるようにしてそう言った。


 ゼンさんは、ポケットの中で触っていたロケットペンダントから手を離した。ゆっくりとミトさんに歩み寄ると、カワさんの隣で膝を落として彼女と目線を合わせ、ハッキリと言葉を区切りながら優しく声をかけた。


「こんにちは、ミトさん。今日は、とてもいい天気だよ。向日葵がとても綺麗に見えるだろうね」

「ええ、とても楽しみよ。私、理由は忘れてしまったけれど、ひまわりがとても好きなの」

「僕は元気いっぱいの花だから好きだよ。なんだか、日差しをサンサンと浴びて、楽しそうな花のイメージがあるし!」

「ふふふっ、私もそう思うわ」


 ミトさんは上品に微笑した。わざとらしくおどけたカワさんも、ようやくいつもの照れ笑いを浮かべて頭をかいた。


 切なさや悲しみは、ひとまず置いていこう。それらは、今は影を潜めなければならない。ゼンさんもそれを分かっていたから、心の底からミトさんに笑いかけた。「三人で、向日葵を見に行こう」と彼が告げると、カワさんも口を開いた。


「ミトさんと、ゼンさんと、僕の三人で見に行けるなんて、とても嬉しいよ」


 けれどカワさんは、そのあとに続くはずだった言葉を切るように、不自然に口をつぐんで誤魔化すように笑った。三人で暮らせたら、という台詞を、ゼンさんは思い出していた。笑うカワさんの瞳は潤んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る