第18話

 電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。


 ひそひそ話しが始まったカウンターの前で、カワさんはゼンさんの袖を引っ張って「一体どんな話をしてるの、ゼンさん」と心配そうに言った。ゼンさんは動かないまま、息子からの返答を待った。


『…………『ミトさん』が誰かは知らないが……ひとまず後で詳しい話を聞く。俺はこれから会社に出勤しなくちゃならないから』

「分かった。連絡を待ってる」


 告げると同時に、ゼンさんは受話器を置いた。看護師たちがピタリと口をつぐんでフロアが静まり返り、カワさんが今にも泣き出しそうな顔で「ねぇ、ゼンさん」と尋ねた。


「一体どうなっているんだい? 僕にはよく分からないよ――」

「カワさん、三人で向日葵畑を見に行こう。俺と、カワさんと、ミトさんの三人で、一緒に」


 言われたことをすぐに理解出来なかったのか、カワさんは数秒の間を置いた。その後で少しほっとしたように、それでいて泣きそうな顔をくしゃりと崩して、空元気な笑みを浮かべた。


「そうか。ゼンさんは、そのために息子さんと連絡を取ろうとしてくれていたんだね。すごく仲が悪いと言っていたのに……」


「一晩中考えて決心したんだ。とっくの昔に縁を切ってるし、迷惑を掛けるのは承知の上だが、俺の家族は、もうマサヨシだけしかいない。向こうの親父さんたちだって絶対納得しないだろうが、いいんだ、これで全部終わりにする。俺の家族は、もう俺だけだ。元妻も母親も他界した。俺にはもう、息子だっていないと思えば、――それだけで俺の世界は完結するんだろう」


 たとえば施設の職員たちは全員敵であると、少し前まで自分が、彼ら一人一人が同じ人間として様々な感情を抱えてここで仕事に励んでいるだなんて、そんなことさえ思わなかったように。


 ミトさんが、向日葵が見られないのは残念だけれど今の生活が幸せだ、とつい最近まで微笑んで、自分たちがそれを、彼女の頭の中の作り話の設定であると気付かずに過ごしていたように。


 ゼンさんは肩をすくめると、カワさんにぎこちなく笑って見せた。


「変だよな。この長い人生の間の一番気がかりだったってのに、一晩中、一生懸命考えて決心がついたら、荷が下りたように身体が軽いんだ。少しくらいなら、素直になれそうだぜ」


 その時、カワさんが「あ」と声を上げ、ゼンさんはそちらを振り返った。


 客人の案内を終えたオカメ看護師が、向こうから大股でこちらへとやってくるのが見えた。彼女は二人の正面に立つと、開口一番にこう言った。


「カワさん、きちんとお野菜まで食べました?」

「うっ、食べました、はい……」

「ゼンさんは、薬は飲みました?」

「飲んだよ」


 問われたゼンさんは、ぶっきらぼうに言葉を返した。しばらくオカメ看護師と睨み合っていると、彼女が立派な腰に手をあてた。


「――聞こえましたけれど『一晩中考え事』ですって? 就寝時間は決まっているんです。しっかり寝てくれないと困りますよ」

「確かに、一晩中は良くなかった。でもな、八時に就寝ってどこの爺さんだよ。あの机はなんのためのものだ? 夜の読書も出来やしねぇ」


「そういえば、本はどうでした? 猫の児童文学もの、結構楽しかったんじゃありません?」


 オカメ看護師の仏頂面には悪意がない。腕を組み、じっとゼンさんを見つめている。

 ゼンさんは舌打ちすると、「足が痛いから車椅子に戻る」と言い訳してそっぽを向いて歩き出した。後ろからカワさんが慌てて彼を追うと、オカメ看護師もせっかちな様子で歩みを合わせてついてきた。


「近くに見当たらないと思ったら、車椅子を食堂に放置してこちらに来たんですか? 見過ごせないですわ」

「見過ごせ、目に留めるな、無視しろ」


 ゼンさんは目も合わさず、間髪入れずそう告げた。


 するとオカメ看護師は、隣のカワさんをジロリと見やった。


「関節痛がひどいのなら、無理にせかせかと歩かないで下さい」

「あ、すみません。ゼンさんにつられて、つい……」

「気を付けてくださいね、カワゾエさん。――あ、これ何に見えます?」


 食堂に入り、車椅子まであと三メートルの距離で問われて、ゼンさんとカワさんは立ち止まってほぼ同時に振り返った。


 憮然とした表情のオカメ看護師の手には、白いコピー用紙があった。そこにはボールペンで、不細工な生き物がいびつな荒い線で描かれていた。どうにか耳を持った動物だと判断できるくらいで、正直に言うと幼児の落書きにしか見えない。


 その手書きのイラストの下には、絵の雰囲気と正反対の達筆で、対象キャラクターの名前が記名されていた。一瞬首を傾げたカワさんの横で、すぐにゼンさんが反応し憤慨した。


「『猫のホームズ』に失礼だ」


 美人なんだぞ、と怒鳴るゼンさんの横で、カワさんは苦笑して「やっぱり素直じゃないなぁ」と一人おかしそうに呟いた。


          ◆◆◆


 マサヨシから折り返しの電話があったのは、昼を少し過ぎた頃だった。施設に連絡が入り、ゼンさんは受付の中に車椅子を押し進めて、そこで電話を取った。


『時間は短い。無駄話は避けたいんだ。まずは、事情を説明してくれないか?』


 ゼンさんは「いいだろう」と了承し、自分なりに要点をまとめて話した。


 施設で出会ったミトさんとカワさんのこと。そして、昨晩起こった出来ごとについては、あの時に聞いた医師の話を含めて特に重点的に話した。


『…………その人たちと、随分仲がいいんだね』

「ミトさんとカワさんは同い年でな、俺とは七歳違いだ。七十八歳だった頃の俺よりも断然若いんだぜ?」


 驚くよな、と続けて言ったところで、ゼンさんは我に返って後悔した。必要なことを、必要なだけ伝えることだけが求められている会話であるので、これは無駄話だと気付いた。


 そのあと話を本題に戻し、ゼンさんは「向日葵畑はここの近くにあるのか?」とマサヨシに尋ねた。


『調べる。ネットで検索すれば一発だ。父さんの希望は近い場所、それだけでいいんだね?』

「ああ、近い場所だ。運転する時間は、短い方がいいだろう。お前の時間を多くは取れない」

『……分かった。その方向で調べておく。明日休みを取ったから、父さんたちの外出許可はこっちでやっておく』


 そこで、電話は早々に切れた。

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