第15話
五分後には就寝する自分を思ったのか、カワさんは時間を確認すると、途端につまらなそうに唇を尖らせた。
「眠る時間は早過ぎるし、定められている睡眠時間が長すぎるんだよ。ミトさんが不満だとするのは、もっともだと思う。だから寝付けなくて、結局はごろごろしてしまうんだ」
「ペンライトで読書でもするかい?」
「そんな器用なことは出来ないよ。僕らの部屋ってカーテンもないでしょう? ミトさんみたいに上手くやらないと、バレちゃうじゃない」
カワさんは、子供っぽく両頬を膨らませた。肉厚もあって丸い顔が更にボールみたいに見えて、ゼンさんはげんなりした。
「カワさん、可愛くもないから、それはやめた方が良いぞ」
そこでカワさんが口を開きかけた時、すぐ近くの廊下が騒がしくなった。ばたばたと慌ただしい足音が行きかい、その騒ぎに反応して他の老人たちも喚きだした。
すすり泣く者、痛みを訴える者、大きな嗚咽、寂しさのあまり看護師を呼ぶ声……
それらは、消灯後に起こるあの騒ぎと同じだ。しかし、職員たちの緊迫感が普段よりも格段に強くて、暴れているらしい人間の尋常ではない甲高い叫びが廊下を切り裂くように走り抜け、ゼンさんとカワさんは飛び上がった。
「なんだ、一体何があったんだ?」
ゼンさんがそう言って扉に近寄った時、カワさんがハッとしたように立ち上がった。彼は途端に「うッ、膝が……」と痛む患部を押さえたものの、すぐに気を取り直してゼンさんの服の袖を引っ張った。
「ゼンさんっ、この声ミトさんだよ!」
数秒遅れて、ゼンさんもそれに気付いた。まるで火事でも起こったような慌ただしさで扉を開くと、斜め向かいのミトさんの部屋に、沢山の職員たちが押し掛けている光景があった。
白衣の男性医師が数人、集まる看護師たちにもまれながら「早く来てください」とせっつかれて室内へと入っていくのが見えた。そこで飛び交う様々な声は、ゼンさんやカワさんが消灯後に聞く不眠の原因となるいつもの会話だった。
「先生、早く鎮静剤を!」
「興奮して暴れだしたんです!」
「内科とカウンセリングは受けさせたかっ?」
「はい、ミチヒラ先生とタナハシ先生が」
ガタンッ、と一際大きな音が上がった。ベッドを軋ませて、甲高い獣のような咆哮が上がる。
「押さえつけろ! じゃないと彼女が怪我をしてしまうぞ! 興奮状態で力の加減が分からないんだ!」
「シーツと枕で! 足が悪いのよ! 出来るだけ刺激しないで!」
「トバ! 右を抑えろ! しっかり固定するんだ! 整体で鍛えた腕だろうがっ、ちゃんと役立てやがれ!」
「テメェはテメェで、そっちをしっかり押さえてろクソ医者! おいマサキッ、骨が弱いから気をつけろよ!」
ゼンさんとカワさんは、たまらず部屋を飛び出して彼女の部屋を塞ぐ職員たちに「一体何をしてるんだ!」と怒鳴りつけたが、しばらく騒ぎが大きすぎて誰も気付いてくれなかった。
その直後、「注射」「安定剤」「眠らせる」の単語が飛び交い、二人はぎょっとした。自分たちの嫌な想像が、机上空論から現実味を帯びて戦慄が走る。
「やめろ! 俺はミトさんが健康なのを知ってる! 彼女は病気じゃない!」
「お願いですから、ミトさんにひどい事はやめてください! 彼女はただ、向日葵を見に行きたいと調べていただけなのに、口封じするみたいに――」
ゼンさんとカワさんが、入口に佇む看護師をどかそうと突っ込んだところで、看護師たちがようやく二人に気付いた。オカメ看護師と長身の中年看護師が「やめなさい!」と怒鳴って、慌ててゼンさんたちを廊下へ押し戻した。
看護の仕事をしているだけあって、老体で体力の落ちた自分の身で、大柄で筋肉もあるオカメ看護師の力には敵いそうにはなかった。健康な身であったら、とゼンさんは悔いた。
カワさんの方は、体重で中年看護師を押しのけたものの、奥からやってきた三人の男性看護師がわっと飛びかかり、ものの数十秒で押さえこまれてしまった。
畜生! くそったれ!
ゼンさんはオカメ看護師に羽交い締めにされながらも、ミトさんの部屋へ飛び込もうと必死に両手足を伸ばした。
部屋に溢れる職員たちの間から、ベッドの上で暴れるミトさんの手がちらりと見えた。それを、片手に注射器を持った男性医師の手が、再び押さえこんでいるのが目に留まって、ゼンさんはカッとなった。
「ミトさん! ミトさん! 畜生離しやがれ!」
「落ち着きなさい! ゼンキチさんッ、落ち着いて!」
廊下は暴動のような騒ぎになった。カワさんが力を振り絞り、初めて強烈な怒りに満ちた顔をして、自分を押さえ込んでいた男性看護師三人を弾き飛ばした。
ゼンさんも力を振り絞り、オカメ看護師ごと自分の身体を引きずって、ミトさんの部屋の扉へと手をかけて、どうにか室内に一歩を踏み込んだ。職員に取り囲まれているミトさんは、ベッドの上で無我夢中に抵抗していた。
「どうして! どうしてこんなひどいことをするの!」
そう叫ぶミトさんの悲鳴が聞こえた。彼女は、一字一句をはっきりと話せている。自分の意思を確実に訴えている。
ゼンさんは、更に頭の血が昇った。
「見ろ! ミトさんは健康だ! どこも悪くないだろう!」
「ミトさんに、ひどいことをするな!」
カワさんが部屋に突入しようと、勢いをつけて突進した。普段の膝の悪さはどこへ行ったのか、男性職員たちが慌てて彼に飛びかかり、そこに扉を封鎖していた女看護師二人も加勢に入り、五人がかりでカワさんを廊下に組み伏せた。
その時、聞き慣れた声が、恐ろしいほどの怒りで呪いの言葉を放った。
「夫の飛行機がテロに遭っただなんて、そんなのウソよ! どうして、どうしてこんなひどいことするの! 私、行かなくちゃいけないの! みんなが集まってるあの空港に行かなくちゃ! 彼の乗った飛行機は無事よ! 私が迎えに行くのよ!」
離せぇ! お腹の子を殺すつもりね! そんなことさせないんだから! ようやく授かった子なのよ! よくも私の足を動けなくしてくれたね! この悪党どもが……
普段の優しい声色からは想像出来ないほど、その声は憎悪をもって張り上げられていた。ゼンさんとカワさんはすうっと血の気が引いて、身体から力が抜けた。
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