第6話

「でも、どうだろう。僕も話してはいたんだ。けれど『父さんは僕たちに迷惑をかけたいの?』と言われれば、ここにいた方がいいのかなとも……」


 迷惑、という言葉がゼンさんの胸を突き刺した。眉根を寄せ、彼は背中越しに窓枠を握りしめた。


 ミトさんは、悲しげに微笑んでこう言った。


「職員たちを刺激しなければ、このまま上手くやっていけると思うわ。私は一年、ここで無事に過ごせたんですもの。こうして三人で話せればいいし、――贅沢を言えば、三人でピクニックなんて行けるようになったらいいわね」


 準備にも移せない夢のような話をして、彼女は膝の上にあった本にそっと栞を挟んで、静かに閉じた。


          ◆◆◆


 愛之丘老人施設の消灯は早い。午後六時に食事と軽い風呂をすませ、午後八時までにはすべての入園者がベッドに入って待っていなければならない。


 肝硬変のゼンさんは、食後、その三十分後、更にその三十分後にわけて薬を飲まなければいけなかった。午後七時前から消灯三十分前まで、職員は一階に集中しているので、この時間もゼンさんの部屋にはカワさんとミトさんが集まっていた。


「肝硬変って、大変ねぇ」


 ミトさんは、薬の多さに目を丸くしたが、カワさんは別のことが気になっている様子ようで、妙にそわそわしていた。


 就寝前の用意を整えていた彼女の髪が、背中に流れて色っぽいせいか、とゼンさんが推測した時、カワさんが不意にこう言葉を切り出した。


「皆は薬を飲むために一階で看護師たちといるのに、どうしてゼンさんは部屋で?」

「ああ、俺のは副作用が出る代物でね。きっちり時間をずらして飲まなくちゃいけないし、薬が切れてしまっても厄介なことになる。『俺が飲むタイミングを管理しなければ駄目だ』と激しく抗議してクレームをつけてからは、ご覧の通り、奴らの監視の目もなく飲めるってわけだ」


 ゼンさんは、手を広げて「こればかりは言い負かしてやったよ。譲れねぇ部分だったからな」と主張した。


 すると、ミトさんが不思議そうに首を傾げた。


「でも、一階で一緒に飲んだほうが安心じゃないかしら? だって薬剤師や医師が指導してくれて、飲用を丁寧に手伝ってくれたりするでしょう?」


 ゼンさんは、一度小さな置時計を見て次に飲む薬を確認してから、車椅子に腰かけるミトさんと、ベッドに腰かけるカワさんに向かって不敵な笑みを浮かべて見せた。


「二人は、何か薬をもらうことはないだろうね?」

「ないわ」

「ないよ。ダイエットに必須の薬なんてないもの」


 問われた二人は、同時に首を横に振った。


 ゼンさんは「まぁそうだろうよ」と相槌を打ち、それから「実はな」と言葉を続けた。


「今更薬に関しては、薬剤師や医者の助言はいらねぇんだ。俺は一カ月くらい地元の病院に入院していた時、自分の身体の状態と薬の名前、必要な薬剤の成分をすべて覚えたからな」

「へぇ! ゼンさんってすごいなぁ、頭いいんだね」


 途端に、カワさんが瞳をキラキラとさせてそう言った。


 これが会社を経営していた男で、尚且つ七十八歳には見えないな……とゼンさんは思ったが、それについては口にしなかった。


「良くはないさ、自分のことだから頭が回るんだ。というか入園したばかりだった頃に、ここの施設じゃあちょっと薬の組み合わせが違うってのにも気付いたんだ。俺はそれについて変だなと思った一件に警戒を覚えてもいて、だから薬の服用に関しては、口を出されたくないってのもある」


 ゼンさんは、そこでカワさんに「覚えてるかい、カワさん?」と訊いた。


「こっちに来たばかりの頃、奴らの指導通りに薬を飲んだあと、俺は三日間くらい重症の病人みたいだったろう?」


 確認するように尋ねられたカワさんは、小首を傾げて数秒もしないうちに「ああっ、思い出したよ!」と言って頷いた。


「そんなこともあったね」

「その時は唇、頬、舌が痺れてろくに喋れないうえ、身体もひどくだるくて頻繁に眠くなった。頭は朦朧とするし時間の感覚も分からねぇ。つまり俺は、ひどい副作用を起こしていたんだ。元々俺が飲んでる薬の服用時間差については、まぁ個人差もあるから断言するのはアレだがね。調べりゃ素人でも分かることだが、精神安定剤と睡眠薬を一緒に飲むと、高確率でそうなる」


 ゼンさんの言わんとすることに気付いて、ミトさんが大きく目を見開いた。けれど確信を持ってそこを尋ねるのも憚れたのか、確認するようにこう訊いた。


「つまり専門家であるはずの彼らに、精神安定剤と睡眠薬を一緒に飲むようにと指導されたの……?」


 またもやニヤリとして、ゼンさんは「そう指導された」と答えた。


「奴らが専門家集団とはいえ、あのまま従って薬の服用を続けていたら、俺もこの施設に相応しい住人の一人になっていただろうな。今じゃあ、余計な分まで寄越されている薬もあるが、そっちに関しては必要ないからトイレに流してる」

「……もしかして、疑っているの?」


 ミトさんはそこで、声を潜めた。よく分からないカワさんが二人を交互に見る中で、ゼンさんは真面目な顔をして頷いた。


「もし、という可能性の範囲だがな。こっちの医者が、薬の服用のタイミングを分かっていないだけだったかもしれないし……。とはいえ俺は、出来ることならここを出たい。ここにいると嫌なことばかり考えちまう。職員も俺たちと同じ人間で、痴呆になった入園者相手に苦労はしているんだろうが」


 そこでゼンさんは、一度言葉を切って、今夜の分の薬に目を留めた。


「…………俺は、もう八十五年は生きた。けれど病院で医者が言っていた言葉があてはまるとすれば、薬と付き合って食生活を改めれば、あと約十年は生きられる」


 彼の病は、まだ末期ではない。合併症は腎臓や消化器系を壊しておらず、無理をしなければ生きながらえることも出来るのだ。


 肝硬変を進行させず、肝臓の働きをカバーしようとする他の臓器に負担さえかけさせなければ、この世に未練を残さない年齢まで生きられるだろう。


「たっぷり塩のついたハンバーガーと、――やっぱり、煙草が欲しいなぁ」


 重くなった空気に遅れて気付き、ゼンさんはしょっぱい雰囲気や気持ちを切り替えるようにそう言って、薬を口に入れて水で流しこんだ。


 カワさんとミトさんが笑い、外出許可についての話は出ないまま解散の流れとなった。それぞれが「おやすみなさい」と挨拶をして、室内にはゼンさんだけが残された。



 午後八時の五分前になると、各職員が入園者たちの様子を確認するという作業が行われる。扉は鍵がないタイプなので、あちらからいつでも開くことが出来るのだ。

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