新しい暮らし(3)

 その翌日、萬狩は、雑草が早々に伸び始めた庭を一望し、久々に身体でも動かそうと考えて意気込んだ。


 朝一番、黒魔を走らせて街で必要なものを購入した後、広い庭の雑草刈りを始めた。最近は夕刻になると蚊も多いような気がするし、ここ三週間ですっかり、足腰が無駄に重くなったような気もしている。


 環境の違いのせいなのか、普段ならなんでも業者を雇って金で解決していた萬狩だったが、暇がそうさせているか、不思議と汗を流す事を苦に感じていなかった。


 何故だか、買い物をしている時からワクワクしている自分に気付いていた。新しい草刈り機が、ひどく役に立っている事も大きいのかもしれないと、萬狩はそう考え直した。


 実に予想外だったのだが、大変だったのは、刈った草を袋にまとめる作業だった。


 調子に乗って広い敷地内の雑草のほとんどに手を出したのはいいが、ふと我に返った時、辺りを見渡して、廃棄する草の量に萬狩は愕然とした。雨に降られでもしたら、更に虫の発生を促しかねない惨状だった。


 萬狩が草を袋に詰める様子を、シェリーは、リビングから出て少しの場所に寝そべった状態で眺めていた。彼女が眠る気配はない。


 老犬の食事と間食の時間はしっかり守っていたので、萬狩は、腕時計で何度も時刻を確認した。まだ三割の草も詰められていない状況だったが、あっという間に昼食の時間になってしまい、老犬に食事を与えるついでに煙草休憩も兼ねて、自分も軽く何か食べる事にして手を止めた。


 キッチンに立つのは億劫だったので、萬狩は、焼いた食パンにバターを塗って食べた。


 一度身体を休めてしまうと、すぐにでもシャワーを浴びたい気分にさせられたが、この家には彼一人しかいないのだ。誰かに任せられるはずもなく、萬狩は、重い腰を上げて作業を再開した。


 帽子を着用してはいたが、六月に入ったばかりにしては直射日光がやたら眩しくて、暑苦しさを感じた。


 陽が傾くに従って、汗まみれになった肌を蚊が刺し始めた。屈んでの作業は腰にも響き、取る水分がすべて体外に放出されているように思えるほどの汗をかいた。


「沖縄は、暑いなあ」


 ようやく一通りの作業を終えたのは夕刻で、萬狩は、堪らず冷房機を稼働させた。


 部屋内の生温かい空気が出ていくのを待ちながら、一人でやりとげた達成感のままに縁側の近くに置いたテラス席から庭を眺め、ビールを飲んだ。


 茜色に染まる原っぱを冷静に眺めてみると、あちらこちらと刈った草の高さが違う事や、切り残し雑草がある事に気がついたが、まぁ些細な事だろうと自分を慰めた。初めてにしては、上出来だと思う。


 ふと萬狩は、無駄にも広く思えるこの庭を、前家主がどのように活用していたのか気になった。


 手入れには勿論金はかかるだろうし、小屋の一つも建てなかったという事は、きっと、それなりに利用価値はあったのだろう。とはいえ、一体何に活用していたのか?


 考える彼の傍らに、シェリーが腰を降ろした。彼女は先程まで、雑草が詰められた袋を抱えた萬狩が、庭と自宅の前を往復する様子を木陰から眺めていたのだ。


「なぁ、お前は――」


 何事かを犬に話しかけそうになった萬狩は、ふと我に返り、口をつぐんだ。

そもそも彼女は犬なのだから、言葉が通じる相手ではないし、共感や提案の一つが返ってくるわけでもない。


 いくら一人暮らしが続いているからといって、どうして俺は、彼女が以前の暮らしの様子を知っているなんて、そんな想像をしてしまったのだろう?


「――……しょせん、犬は犬だろう」


 庭の草刈りで疲れているのだろう。萬狩は、その日は早めに就寝する事にした。

萬狩がベッドに入ると、シェリーも当然のような顔で自分の籠に入って丸くなった。どうやら彼女は、家主が早く寝付けば自分も早く寝る、という生活リズムを持っているらしい。


 萬狩が不思議だったのは、彼が友人から言われていた犬の寝付きの特性を、シェリーが持っていなかった事だった。


 シェリーは寝言も上げなければ、夢を見ながら足をばたつかせる動きもしない。夜中にご飯をねだって起こしてくる事もないので、物音に敏感な萬狩も、こちらに移住してからというものよく眠れていた。



 その日の夜、萬狩は適度に疲労したおかげで心地良い眠りに落ち、やけに鮮明な夢を見た。



 老いた女主人が、西洋風のワンピースドレスを着て、整えられた庭先に立っている夢だった。リビングから見える位置に家庭菜園が設けられ、美しい花壇まで造られている。


 夢の中で、萬狩はそこに立つ彼女のその後ろ姿を眺めていた。彼女の横には、あの老犬が誇らしげに胸を張って座っている後ろ姿まであった。


 素晴らしい庭だったような気がするが、残念な事に、目が覚めると風景も霧散してしまった。


 ただ、夢の中で風になびいていた白いワンピースと、くるくる回るレースの白い傘。そして、ふわり、ふわりと、右へ左へと楽しげに動くふさふさとした若々しい犬の尾が、萬狩の中に印象的に残った。

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