奇妙な条件付き売買物件の話を聞く
萬狩が、谷川に聞いた話の家と、その土地を買い取ろうと思ったのは、ただ酔狂に乗ったわけではない。手元に残った金額から最小限の出費で、肉体的、特に精神的に開放される事に気持ちが傾いたのが理由だった。
遠く離れた南の土地の物件は、彼がこれまで聞いた事がないほど破格な値段だった。
条件の一つとして全額一括払いする以外にも、とある約束事が守れる人間に限定されており、前もって一回は必ず、物件の販売先である不動産で実際に足を運び、話を聞かなければならないという括りもあった。
その家は情報誌にもネットにも載っておらず、口コミだけの情報源しかない。
遠くの人間は、さぞ躊躇を覚えるだろうなと思い、萬狩は焦る気持ちも覚えず、その不動産に連絡を取ってから飛行機のチケットを手配した。
高い飛行機代を払い、日帰りで沖縄に足を運んだ。物件情報を聞くためというよりは、まるで面接を受けるような心境だったが、萬狩は値段の良さと物件の保存状態、そして山の上一体に構えられた土地の広さを現地の資料で知り、余計にその家が欲しくなった。
詳しく聞かされた話の中で、谷川から聞いていた内容と同じ『物件購入の条件書』があった。実際に弁護士に預けられたという、元の持ち主が定めた内容は、次の通りだった。
――『愛する家族の一員である老犬を、最期まで大事に見届けてくれる方。
介護が必要になる場合にも、その子を大切に見守り、手助けをしてくれる方に、
私の土地と家を、この値段でお譲り致します。』
老犬が健在の間は、土地や物件に対して変化を加える事は禁じられている。もし、その老犬が無事に天寿を全うしたならば、その時は土地と家の両方を、売るなり改築するなり自由にしていいとの事だった。
「前家主様は、我が子のようにその犬を愛していらっしゃいました。お客様の入居後も、その犬にかかる費用は全てこちらから出させて頂く事となっております。生活の中で、老犬に関わる費用が発生した場合は、こちらの方に支払いの請求をされて下さい」
不動産で最終の契約をし終えた後、萬狩は、
どうやら、元の家主の財産は、老犬に相続されているらしい。管理をしているらしい弁護士事務所の代表である酒井は、話の最中、始終眠たげで、萬狩にはまるで関心もないといった顔をしていた。
しかし、酒井はどこか抜け目ない眼光を宿しており、気のない振りをしつつも萬狩の反応を一つ一つ見ては、顔を僅かに顰めるような表情を浮かべたりした。何度もピンと伸ばした中指で眼鏡を眉間に押し込み、打算するようなその眼差しが、萬狩は人間としての点数を計られているようで苦手意識を覚えた。
「残った財産は、寄付される予定ですよ。ご立派だと思いませんか?」
そこまでの情報は必要としていない萬狩は、何故それを俺に話すんだろう、と鼻白んだ。しかし、説明はきちんと聞く義務があるだろうから、反論もせず下手くそな紙芝居のような弁護士の、淡々とした棒読みの説明に長々と付き合った。
その男は、事務的な手続きをさっさと済ませたいのか、萬狩に休憩時間すら与えず言葉早く先を進めた。萬狩も、とっととこの男と別れたいと思って、苛々を抑えて根気強く聞き手に回っていた。
説明が老犬の内容にさしかかったあたりで、萬狩は、ふと当初から感じていた不安を口にした。
「私も犬の一般的な飼い方を知らないわけじゃないが、生憎、友人の犬を一周間ほど預かっていた事がある程度だ」
「つまり、飼育経験はないと、そうおっしゃるわけですね?」
まるで尋問のように酒井が訊いたが、萬狩は引きもせず正直に「その通りだが?」と断言し、顔を顰めた。
「不動産側にも伝えたが、特に問題ないから詳細の説明をあんたから聞くようにとしか言われなかった。その犬は老いているようだし、余計にどうすればいいのか分からないんだが」
お前、不動産側から話を聞かなかったのか、と萬狩は眼差しで怪訝を露わにした。
酒井は、眉一つ動かさなかった。表情筋がないような顔のまま、じっくり探るような目で萬狩の無愛想な目を見据え、器用にも萬狩に聞こえない声量で、口の中で「馬鹿正直な方ですね」と個人的な感想を呟いた。
「何か言ったか?」
「いいえ、何も」
酒井は背を起こすと、事務的な説明を行った。
「老犬については『マニュアル』がありますので、もしもの場合はそちらをご参考下さい。それから、老犬は雌犬ですからお間違えなく。彼女のごはんは週に一度、セットで届くように手配されていますが、先程も説明申し上げました通り、他にも何か入用になってご購入された場合は、こちらの宛先まで領収書を送って下さい。数日内では契約の口座先へ振り込ませて頂きます」
基本的に、老犬は週に一度獣医の訪問検診を受けており、同じ割合で専属の業者が訪問し、風呂やトリミングやマッサージなど、必要な事は全て行っているらしい。
家と土地を購入した者から行われる、老犬への対応に関しては、その専属獣医が老犬の身体の状態等をチェックし、常に弁護士側に報告する流れになっている。
食事を与えない、不調が出たにも関わらず獣医への連絡を怠る、虐待など、約束事を破る兆候や症状が確認された場合、家の所有権利を失うという誓約書にまでサインをさせられた。
とはいえ、萬狩はそこについては重圧を覚えていなかった。
酒井の説明とマニュアルを見る限り、老犬の生活リズムの中で決まった時間に適量の食事を与え、トイレシートを交換すればいいだけである。面倒をみるといっても簡単な、最低限の手助けだけなので、それなら俺にも出来そうだと考えていた。
老犬に関しては、前家主が残した財産から全てが支給されており、萬狩の懐から一切費用がかかる事もない。
そのうえ、老犬が暮らす家の水道、電気、ガスにおいても五割はあちら持ちであるし、風変わりな『条件付き物件』ではあるが、こんなに美味い話はないだろう、とも思った。
「今後、家に関わる事、老犬に関わる疑問や相談などありましたら、弁護士事務所までご連絡下さい。老犬の体調や生活に関しては、訪問される獣医へそのまま相談されても問題ございません」
我々は、その獣医から都度報告を受けておりますので、と酒井は当然のように語った。
筒抜けなのでしっかり面倒を見ろよ、と遠回しに嫌味ったらしく牽制されているような気もしたが、飛行機代と長時間の説明だけで、安く土地と家が手に入ったと満足もしていた萬狩は、気にならなかった。
多分、俺の考え過ぎだろう。こいつは、もしかしたら愛犬家というやつかもしれないし、財産の中から高い契約金でも貰って仕事意識が高くなっている、という可能性もある。
つまり気のせいだと、萬狩の機嫌は非常に良かった。
契約を済ませて出ていく萬狩を見送った酒井が、「第一印象を裏切らないというのも、珍しい方ですね」意外と単純で呆れます、と表情なく眼鏡を押し上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます