梓弓の老少将
あかつき
第1話
西大陸と東大陸の狭間に位置する、北東から南西に延びる諸列島から成る国があった。
春夏秋冬の四季が巡り、清浄な水の溢れる肥沃な国土を持ち、温和な人々が暮らすその国は、大いに稔る稲穂を象徴となし、瑞穂之国と呼ばれていた。
多数の氏族や部族に分かれていた時期を経て、やがて氏族や部族の代表者が京府と呼ばれる都において合議で大王おおきみを選出し、1千年前に国家統一の礎と為した。
この時大王を選出した者達は、貴族として身分を確立し、朝廷を形作ることとなる。
東西の大陸に図らずも同時期に成立した諸国から文物を学び、交易や交流の中継地点として大王の強大な統一権力の下で大いに栄えた瑞穂之国。
内乱や東西の国々と数度の対外戦争を経験し、ここ500年は、周辺蛮族の平定や反乱の鎮圧程度の戦いに終始し、比較的政情が安定したまま時を過ごしてきた。
安定の反面、かつて強大な権力を誇った大王おおきみは、忠実に付き従い、世を築いてきた武人貴族と共に力を失いつつあり、代わって平和な世で政務を得意とする文人貴族が大いに勢力を伸ばし始めたのである。
剣や槍、弓矢の時代が終わりを告げ、筆や紙、墨の時代へ。
しかしながら、既に成立してから500年を経ていた律令は形骸化し、時代にそぐわなくなりつつある。
それでも律令とは、法であり、規範である。
未だその束縛は庶民や善良な貴族を縛り付けて世情を混乱させていたが、政務を得意とする者達は巧みにその抜け穴を見つけ出して都合良く利用し、利を得る。
本来人々を守るはずの律令が機能せず、あろう事か悪用されて人々を傷付け始めた。
政情は大いに乱れ、官吏や貴族は特権を得て責任を回避し、私財を蓄えてゆく。
剣や槍は錆落ち、紙と墨が虚言を形作る。
庶民は苛税や苛政に苦しみ、自衛を余儀なくされつつあったその混乱の時代。
とうに落ちぶれ、あらゆる力を失ったはずの老貴族が、当代の大王の死と共に数奇な運命に巻き込まれる所からこの物語は始まる。
瑞穂歴510年、霜月(11月)21日、京府、大内裏清涼殿
どんよりとした鈍色の雲の満ちた空から真っ白な粉雪が降る昼下がり。
箒などの掃除道具を持った下働きの雑色や、厚手の狩衣に鉄の胸当て、鹿皮の手袋と深靴をはき、太刀を下げた警固の舎人達が寒そうに身を縮めながらも、茅葺きや板葺きの屋根の下に留まらず、そこかしこを走り回っている。
宿直番の兵士達が分厚い防寒用の短甲の位置を直し、身につけた箙や兜に降り積もる雪を時折そっと払い落としながら、自分たちの警護する背後の座所をしきりに気にしていた。
座所は他の建物と違い、重厚な茅葺き屋根に太い木柱で出来ており、また御簾と緞帳がしっかりと下ろされており、中を窺うことは出来ない。
それもそのはず、今現在その中の主であり、この国の主でもある当代の大王が病に伏せっているのだ。
既に病は彼の大王の心身を深くまで犯し尽くしており、数々の難病を治癒してきた典薬長官の薬研真名人やげんのしんなひとももはやとるべき手段を失っていた。
絹を幾重にも織り重ねた豪華な寝具の中で力の無い咳を数度する大王。
それを見た付きっ切りの薬研真名人が、素焼きの椀に調合した薬粉を入れ、持ち込んでいた小さな炉から湯をとって静かに注ぐ。
帰宅していないせいか、少しやつれた様子で乱れた直垂の腰回りを修正し、真名人は薬の材料の用意をする。
そして分量を計測しつつ薬を軽く調合し、素早く数回かき混ぜると、微かに薬味の匂いを漂わせた薬湯が出来上がった。
「大王おおきみ……薬湯やくとうを」
そして真名人は大王の寝具にゆっくり膝行しっこうし、用意した薬湯を差し出すが、大王は軽く首を左右に振ってそれを拒絶する。
「いらぬ」
「……大王、しかし」
「よい、分かっておる、最早身体がままならぬのだ……早晩我が命は潰えるであろう」
「……大王」
再度薬湯を勧めた真名人だったが、大王の力の無い言葉を聞くと、無言で薬湯を差し出した手を引く。
しばらくの沈黙の後、大王が再び咳き込んでからゆっくりと言葉を発する。
「大臣の硯石基家すずりいしのもといえと斐紙大生形ひしのおおかた、大兄王子おおえのおうじを呼べ……それから、梓弓のじじいをこれへ」
いよいよ最期の言葉を伝える時が来たのであろう。
典薬長官として尽くせる限りの手立てを講じてきたつもりの真名人であったが、いよいよ大王の寿命が尽き果てようとしていることに忸怩たるものがあった。
しかし最早大王の命を延ばす手立ては失われた、それは残念なことに真実。
ここは大王の言葉に従うほかあるまいと思い、その言葉に一度は頷いた真名人であったが、後半に出た氏族名を聞いて薬湯の入った土師器を横に置きつつ怪訝そうに問い返す。
「梓弓……でございますか?それは当代の氏長者でよろしゅうございますか?」
「弾正長官の行武だ。ジジイの方だ」
「じ、じじい、でございますか」
しかし大王は僅かに首を傾けつつ真名人の口にした者、兵部大輔ひょうぶたいふを務める梓弓氏の現当主である梓弓広威あずさゆみのひろいでは無いと否定の意を伝えながら、先々代の当主の末弟で梓弓氏の支流である梓弓行武あずさゆみのゆきたけの名を出した。
「……弾正長官殿でございますか?」
無礼を承知で真名人は再度問い返す。
それも道理で、梓弓行武は決して大王の末期に呼ばれるような高位の貴族ではないからだ。
京府の治安を守る弾正台の長官にして、その守備を担う左近衛少将ひだりこのえのしょうしょうを兼ねる武人貴族である梓弓行武。
先々代の末弟と言うだけあって、年齢は既に60に達しようとしている。
大王が自らの末期に呼ぶ貴族として決して身分が軽いというわけではないが、さりとて十分重いとはいえず、その上老齢で次代を託せるわけでもない。
それに加えて、今の世風である風雅の雰囲気とは相反した武篇者と評される、いや揶揄される行武。
しかも嫡流からは大きく外れた、いわゆる没落貴族である。
他に左大臣と大納言、次期大王であるところの大兄王子を呼んでいるとはいえ、あまりにも常識外れの人選であろう。
その思いが雰囲気で伝わったのか、大王は咳き込みながらも少し強く言葉を発する。
「くどい……ごほっ、そう申しておる」
「これは失礼をいたしました……では直ちに」
真名人がかしこまって頭を下げてにじり下がると、大王は和らげた声色で言葉を継ぐ。
「うむ、頼むぞ……梓弓はおそらく羅城に詰めておろう」
羅城とは京府を囲む外壁のことで、梓弓行武はその役目柄外に出ていることが多い。
高位貴族が内裏や屋敷にこもって政務を執るのとは対照的に、行武は京洛を兵達と歩き回り、羅城に詰めて兵を督励していることが多いのだ。
「承知いたしました」
更に深く一礼し、真名人は御簾の下をくぐって御座所から退出すると、すぐ外に控えていた宿直番の役人達へ声をかける。
「私が戻るまで大王を頼む、しかし誰が訪ねてきても入れてはならんぞ。おぬし達も余程のことが無い限り入ってはならん」
「はっ」
そう言い置いて役人の返事を背で聞きつつ、真名人は足早に御座所から遠ざかった。
おそらく最期の言葉を賜ることになろう、大王が名を挙げた者達を早急に呼び集めなければならない。
左大臣の硯石基家と大納言の斐紙大生形は内裏に居るだろうから声をかければよいし、大兄王子もおそらく内裏内の東宮にいるはずだから、しかるべき役人を派遣すれば事が足りる。
ただ梓弓行武だけはそうはいかない。
最も近い場所に居たとしても内裏からは相当離れた羅城、つまりは京府の外郭で、下手をすればこの広大な京府域内のどこかを巡回している。
その途中自分の屋敷に立ち寄っているかも知れない。
「……厄介な」
真名人は心底面倒くさそうにつぶやくと、足の早さを緩めること無く、政庁である朝堂院へと向かうのだった。
真名人が離れたのを見計らい、大王は静かに口を開く。
「……今後は梓弓行武を頼め。余の者ではその方を使いこなせぬ、彼の者とは縁もあろう」
その声に応える者は無かったが、大王は満足そうに笑みを浮かべ、そして咳き込んだ。
同時期、京府羅城門
「おう、今日も良い天気じゃのう!」
朗らかに声をかけられた男達は戸惑って互いの家を見合わせている。
確かに良い天気だ、雪が降っているのが良い天気だとすれば、であるが。
「はあ……まあ、そうだな」
やけに馴れ馴れしい様子で話しかけてくる老貴族に戸惑いを隠せない農民風の男達。
しかし老貴族の態度とは対照的に、身につけているのは短甲と兜で、それは隙無くがっちり身に付けられ、腰には拵えの良い長剣が差し込まれている。
しかも兜には一条雉尾羽いちじょうきじおばねが天頂部に付けられており、この老貴族がこんな京府の端に居ながらも、存外高位の近衛少将であることを意味していた。
尤も、それはこの京府域内において50名もの兵を率いているという事でも分かるのだが……
白く長いあごひげを鹿皮で作った手袋をはめた手でさすりながら、その老貴族が白い息を吐きながら話を続ける。
「で、お主らはどこから来たんじゃ?」
「……見りゃ分かんだろう、じいさんよ、俺らは村から冬野菜を売りに来たんだよ」
老貴族と同じように白い息を吐きながら答える先頭の男。
農民にしては目つきが鋭いが、生活に困窮している者達特有の荒んだ雰囲気をまとっており、その目つきも辛酸をなめた結果であろうと周囲の兵達は考える。
「もう行っていいか?いい加減寒いんだよ」
貴族の暇潰しには付き合ってられないと言わんばかりの男達のぞんざいな態度に、老貴族の周囲で荷物を検めていた近衛兵達が渋い顔をする。
しかし鬱陶しがられている当の本人の老貴族は笑顔を浮かべ、男の態度や台詞もどこ吹く風といった様子だ。
懲りることも怯むことも無く、男達を引き留めたまま話を続ける。
「まあ付き合えい、野菜売りにしてはちと荷が少ないように思うしのう?」
「……いちいちうるせえ爺だな」
「名は何という?」
「……山下麻呂さんかまろ」
心底面倒くさそうに応じる男、山下麻呂さんかまろの態度を気にした様子も無く、老貴族はうんうんと頷くと、男達の後方にある枯れた草の茂みをわざとらしく遠望してから言った。
「まあ良い、その方らの荷を検あらためる」
一瞬息を止める男達だったが、先頭にいた山下麻呂がへっと嘲笑するような声を出してから言った。
「イチイチ貧乏人の相手をしてくれるたあ、貴族様だってえのに、何とも暇なこった……好きにしやがれ」
「まあまあ、そうやって無闇にくさすものではない……おうっと、それから……そちらの茂みに隠してあるモノどもも検めさせてもらうぞ」
老貴族がどけるような口調で言うと同時に、男達はそれまでのいい加減な雰囲気をかなぐり捨て、真剣な顔で一気に反対方向、つまりは都外へと駆け出す
そしてその前にいた老貴族をはね飛ばそうとするが……
「おっと」
それは果たせず、男達は逆に大きく体勢を崩し、一回転して派手に転ぶ。
「ぐわっ?」
「おえっ?」
「なっ?」
目を白黒させて仰向けに転がった自分たち仲間を見る男達。
逃走を予想していた老貴族に、あえなく足下を相次いで掬われたのだ。
老貴族の手にはいつの間に腰から抜いたのか、鞘に入ったままの直剣が握られている。
男達が呆然と空を見上げていると、にやりと笑みを浮かべた老貴族の顔が視界に入った。
「貴様ら!おとなしくしろ!」
「抵抗、逃走は無意味だ!」
それと同時に、周囲に居た兵達がわらわらと駆けつけ、逃げようとした男達をあっという間に確保する。
「降参かの?」
自分たちが何者にどうやって転ばされたのかを知り、怖気をふるっていると老貴族はしてやったりと言わんばかりの笑みを浮かべて言った。
「わしから逃げようなどと、無駄なことは考えないことじゃ」
くるりときれいに一回転させてから、すとっと音も無く腰に剣を差し直す老貴族。
その手慣れた剣の扱いぶりに、この老貴族が伊達や酔狂でこの場にいるわけでないことを知る男達。
「わしは弾正長官をやらせてもらっている、梓弓行武あずさゆみのゆきたけと申すおいぼれじゃ」
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