第2話

 アラタには、故郷と呼べる場所がない。

 どの場所も、長くて一年と数ヶ月ばかりしか居なかった。それは仕事の都合ではなく、ただ父がその場所に居続けられなかっただけだ。


 父はとても寡黙な人だった。まともに顔を合わせることは少なくて、ほとんどアラタはその背中を見て育ったようなものだ。新しい土地に行くと父は臨時の働き口を見付け、母はパートの掛け持ちをして夜遅くまで帰らなかった。


 父は、アラタの同級生たちの親と比べると、一回りは年上だった。長い身体は頬骨が目立つほど細く、肌は強い日差しに晒され続けたように浅黒い。喜怒哀楽はほとんど出さない人で、彫りの深い顔は博識と知性の鋭さを漂わせた学者のようでもあった。


「あの人が一つの土地に留まらないのは、仕方ない事なのよ。……私が、あの人の居るべき場所を奪ってしまったの」


 母は一度だけ、こっそり教えるようにそう告げて泣いたことがあった。当時、幼かったアラタが理由を尋ねても、母はそれ以上答えてはくれなかった。


 家族との思い出はほとんどない。


 いつから小島と低い海と、水牛のある夢を見始めたのかも定かではない。


 土地を転々とする疲れもあって、寮のある高校を選んで家族と離れて暮らした。とくに連絡を取り合う事もなく高校二年生になった五月、突然、父から母が死んだことを知らせる連絡があった。


 病気で入院したのをどうして教えてくれなかったんだ、だとか、母に会いに来いと一言くれれば良かったのに……という言葉は出てこなかった。自ら連絡を断っていたようなものだという自覚もあって、ただただ突然の「死」を受けとめるしかなかった。


 葬儀はひっそりと行われた。すぐに燃えてしまいそうな木箱の棺に収まった母は、姿を模した蝋人形のようだった。形のいい額、小さな瞳を縁取る睫毛。鼻先から唇まで、よくできた作り物のように思えたものの、その死に顔に自然と涙が込み上げた。


 顔を合わせるのは約一年ぶりだったが、相変わらず父は寡黙だった。久しぶりだという挨拶はなく、ただただ母の棺を向いたまま短く言葉を交わした。


「ちゃんとやれているか」

「ああ」

「大学には行きなさい」

「分かった」


 まだ上手く思考が働かなくて、ただただ淡々とそう相槌を打った。室内には、濃い線香の匂いがしていた。


 火葬場には、父と二人だけで足を運んだ。母が灰になるのを待つ間、建物の外の自動販売機でジュース缶を買っていると、父が煙草を一本口にくわえてマッチで火をつけた。


「煙草、吸うんだ」


 煙草を吸うのを見るのは初めてだった。教員免許を持っていて、土地を転々としながらも塾で生徒達と関わっていた事もあって、思わず意外でアラタはそう訊いた。

 すると父は、老いた横顔で遠くを見つめたまま「お前は未青年だ」と教師口調で言ってきた。まるで吸っている未成年に対して、注意するようニュアンスには一瞬ドキッとした。


「何言ってんだよ、俺はまだ十七だ。煙草なんか吸ってないよ」

「そうか」


 父は淡々と唇を動かせると、再び煙草をくわえて深く吸い込んだ。もう随分とそうしていなかったように、深く深く、味わうように吸う。


 自分が吸い慣れている煙草とは、全く違う匂いだった。やけにニコチンやタールが重そうな煙草だな、とぼんやり思いながら、アラタは火葬場に漂う独特の匂いを嗅いでいた。


 葬儀後、学校の寮生活に戻った。


 ほどよく勉強をして、気が向くままに遊ぶ。遊びが好きな男子生徒のグループの誘いにも、相変わらず参加した。それが楽しいのかつまらないのか、分からないままでも構わなかった。そうやって流されていれば、日々は呆気ないほど早々に過ぎ去ってくれる。


 父は母の葬儀から数週間も経たずに、また新たな土地へと引っ越していった。隣の県の新しい住所が載ったハガキには、達筆で『何かあれば訪ねなさい』とだけ書かれていた。


 これといって勉強は好きではなかったが、父に言われる前から大学に進学する意思は持っていた。友人達からの話もあって、今よりも校則に縛られない自由や楽しみが溢れているような気がしたのだ。


 だが高校三年生の春、その時になってようやく大学の詳しい資料を見て進学が躊躇われた。そこに記された入学金や授業料といった金額は、なんとなくの気分や高校生活の延長での「遊べる」という感覚で入学するには、とんでもないほど高くつくものだった。


 今も金がかかっているのではと、高校生としていられている自分の授業料や寮代、毎月の仕送りや携帯代金などといったお金についても考えさせられた。そうすると母のいなくなった今、一人で生計を立てる父の身が気になって、じっとしていられなくなった。


 母が病で倒れてからの治療費や病院代や葬儀の事を考えると、余分に貯金があるとも思えなかった。だからアラタは進学を断るべく、初めて自分から連絡を取った。


「大学へ行きなさい」


 そのまま就職しようかと思うんだけど、と提案を切り出した途端そう返された。「でも」と続けようとした言葉すらはねのけられてしまい、アラタはどうしたら良いのか分からず閉口した。


 でも、百万単位の金額なんだぞ?

 大学の資料にあった、眩暈を覚える金額の桁を思い出す。すると、こちらの案を全く受け付けないでいる父がこう続けてきた。


「母さんと約束した。俺は、お前を大学へ行かせる。大学を卒業したあと、どんな職に付くのか、何をするのかはお前の自由だ」


 初めて聞く話だった。しかし問い掛ける前に、電話はプツリと切れてしまった。

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