軋む青(2)

 雪弥は、口角を引き攣らせながら、なんとか彼女達に応えて手を振り返した。蒼慶と宵月、謀ったな……と、ちょっとあの組み合わせが本気で嫌になった。


 それから三十分が経った今、この場所で待つ事にも飽きてしまっていた。テラスの椅子に腰かけた状態で、思わず「身体が鈍りそうだ」と心の声を口にも出した。一人でゆっくり出来るのでいいか、とは思えない。かなり暇である。


「そういえば、前の仕事が終わってから結構ゆっくりしているなぁ……」


 先週に終わったとある任務で、自分が高校生として過ごしていた事を振り返った。椅子の背に頭を乗せるようにして頭上を見やり、あの日、学園から見た空と同じ青が、そこに大きく広がっているのを不思議に思った。


 校舎の屋上で、二人の少年と昼ごはんを食べたり、体操着で運動場を走り回っていた時も、慣れない穏やかな時間があった。結局、エージェントとしての姿を見せるまでは、社会人である事を疑われなかったなぁ、とぼんやりと考える。


「今年二十四歳になるいい大人が、高校生なんて無理だと思うんだよなぁ。……本部で顔を合わせたナンバー3とナンバー9に、めちゃくちゃ笑われたし」


 同じ一桁ナンバーの反応を思い出して、溜息がこぼれ落ちた。


 しばらく何もやる事がないまま、じっとしていた。視界に映る長閑な青い空と、心地良い風に欠伸が込み上げて、立ち上がって背伸びをした。


「このままだったら、確実に寝る」


 そう呟いた雪弥は、椅子の背に右手を置いた。椅子が倒れてしまわないよう、バランスを取りながら、ひょいと両足を持ち上げて右手一本で逆立ちをする。落ちて来そうなネクタイをシャツの中に入れて、左手を腰の後ろへあてた。


 右手一つを動かして、真っ直ぐ逆立ちをした身体を、腕立て伏せをするように上下に動かした。親指だけでもそれをやってみたのだが、やはりかなり暇である。


 逆さになった風景を、ぼんやりと見つめて思案した。向こうから聞こえてくる談笑の声に、しばし耳を済ませる。


「兄さん達の方、しばらくは終わらないんじゃない……?」


 雪弥は、身体を支えている右手を曲げると、伸ばす反動で弾みをつけて飛び上がった。一気に跳躍した高さから、身体を回転させてテラスの塀へ降り立つ。


 突き出た半円系のテラスを取り囲む塀の幅は、拳ほどの大きさだった。そこに立って辺りを見回してみると、近くに亜希子たち女性陣の姿はなかった。ふと、右方向にも、小さな半円形状のテラスがあるのが目に留まった。


「なんか、そのまま行けそうだなぁ。……あそこから抜け出せないかな」


 音楽室のような大部屋にすっかり飽きていた雪弥は、あちらまでの距離をざっと目測すると、再び眼下に広がる庭園の様子を確認した。


 二階のテラスから、雪弥は改めて一階下を確認してみた。


 広々とした庭園の屋敷側近くには、こちらに背を向けるようにして、桃宮勝昭と蒼慶がテーブル席に腰かけて話している。兄のそばには、ピシリと背を伸ばして立っている宵月の姿があった。

 女性陣の声がする方向から、離れているだろうとは推測していた。そちらへと目を向けてみると、亜希子達の姿は大庭園へと進んで池の方にあった。背の低い木も植えられている場所だから、彼女達の視力ではココまでは視認出来ないだろう。


 今のところ、誰の目もこちらには向いていないようだ。そう判断した雪弥は、ポケットに手を入れると、何食わぬ顔でこっそり塀の上を歩き出した。


 蒼緋蔵邸の天辺まで行く事も出来るが、大跳躍といった派手な動きはあまりしない方がいいだろう。そう自分なりに考えて、まるで地面の上を歩いて散歩するような足取りで、静かに塀の先まで歩いた。


 そこで一度立ち止まり、六メートル先にある小さなテラスの出っ張りを見つめた。ポケットに手を入れたまま、革靴の先を二度ほど軽く塀に打ちつける間に距離を目測し、力加減を調整して「よいしょ」と、気が抜けそうな声を一つ上げて跳んだ。



 不意に強い視線を感じて、雪弥は宙を移動する刹那、下を見やった。


 そこには、目を見開いてこちらを見つめている宵月と、わなわなと怒りの数値を上げている蒼慶の姿があった。パチリと目が合って「あ、やばい」と思った直後には、向かい側の小さなテラスの塀へと着地していた。



 兄さん、怒ってたな……雪弥はそう思いながら、隣のテラスの塀に飛び移ってすぐ、そろりと兄の方へ視線を戻した。


 思い切り睨まれているのかもしれない、という予想があったのだが、蒼慶は注意を引くように桃宮へ話しかけていた。先程までそこにあったはずの、宵月の姿だけがなかった。


 元軍人の優秀な執事が、屋敷内を猛スピードで駆けて向かってくる様子が想像されて、シャツに入れたネクタイを取り出しつつ「それはそれで嫌だなぁ」と呟いた。

 ここは一旦逃げよう。そう思って確認してみたところ、なんと降り立ったテラスのガラス扉は鍵がかかってカーテンもされていた。壊す訳にもいかないので、こちらに向かっているらしい宵月を仕方なく待つ事にした。


 すると、少しもしないうちに、ガラス扉の内側のカーテンが勢いよく開いた。そこに無表情の宵月の顔面が現われて、ガラス越しにバッチリ目が合った


「――雪弥様、一体何をなさっているのですか」

「えぇと、その、ちょっと暇で……? 屋敷の中に異変がないか、確認がてら少し見て回ろうかなと」


 ガラス扉を開けた宵月が、鼻から小さく息を吐いて「あまり危険な事はなさいませんよう、お願い致します」と言い、やや乱れた髪を後ろへと撫でつけた。


「蒼慶様は旦那様の不在中、蒼緋蔵邸の全てを任されており、お客様のお相手をしなければなりません。すぐにでも動きたいお気もちはお察ししますが、あなた様は蒼緋蔵邸の内部をよくは存じ上げていない。蒼緋蔵家の決まりで『役職』によって入れる部屋もあれば、入れない部屋もあるのです。ですから、勝手に『散歩』をされても困ります」


 うっかり迷い込んでしまわないかどうか、と問われれば自信はない。一族の権力的な事柄には部外者のつもりでいるので、それが関わる場所に間違っても足を踏み入れてしまうような事態は、避けたい気持ちはあった。


 だから雪弥は、素直に従う事にして「分かりましたよ、勝手に調べたりしません」と、降参するように胸の前で小さく両手を上げて答えた。そもそも、兄がこのように悠長にしている事については、一つの可能性も浮かんでいた。


「兄さんの事だから、恐らくは今回の件に関して、他にも何か掴んでいる事があるんでしょう? ほほ推測を絞り込んで、何かしら既に考えている事もある」


 違いますか? と、雪弥は吐息混じりに問いかけてみた。すると、宵月が澄ました表情で「はい」と返してきて、こう続けた。


「お察しの通り、蒼慶様にはお考えがあります。そして、先に伝えておくようにと指示を頂きましたので、お伝え致します。どうやら侵入者は、蒼緋蔵邸で今日『開封の儀』が行われる事を知っていて、それを狙っている可能性がある――と、蒼慶様はおっしゃっておりました」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る