9.パパのため息


 枯れ葉が舞うドッグラン。懐かしい光景だった。

 数年前、この頃に、岳人と拓人が会いに来てくれた。

 その時、父親ふたりが息子のために決意を誓い合った場所でもあったから。


 秋の木漏れ日の中、寿々花はベンチに座ってヨキがボールを追いかけている様子を眺めている。

 枯れ葉が転がるドッグランでは、男たちの楽しそうな笑い声も響き渡っている。

 夫の将馬と拓人がボールを投げ合って、ヨキがめいっぱい走り出すと、父と息子が笑いながらヨキを追いかける、ボールを拾ってまた遠くに投げて、ヨキと一緒に走り出す。

 今日は寿々花の両親も一緒に来ていたが、ヨキに遊び相手がいるのを安心して、カフェ店内でお茶をしてくつろいでいるようだった。


 寿々花は暖かい服装でベンチに座り、微笑ましい秋の休暇を楽しむ父子を眺めている。

 ときおりふくらんできたお腹を撫でて『パパとお兄ちゃん楽しそうだね。大きくなったらあなたもパパとお兄ちゃんと一緒によっ君と遊ぼうね』と小さな声で話しかけた。


 そのうちに、カメラで撮影に夢中になっていた岳人パパがベンチへと向かってくる。

 今日もお洒落デニムスタイルの彼が寿々花のそばへとやってくる。彼も寿々花の隣に座ってカメラをベンチに置いた。


「寿々花ちゃん、寒くない? 大丈夫かな。ブランケット持ってきたんだ」


 気がつく彼がキャンプ用のブランケットを寿々花に差し出してくれる。


「ありがとう。暖かい格好してきたけれど、念のため使わせてもらうね」

「うん。日が傾いてきたからね。大事にしないと」


 彼は『出産を見守ったことがある男性』としての先輩でもあった。本当の父親ではないけれど、覚悟をして拓人の出産に寄り添い立ち合い、そして育ててきてくれた子育ての先輩。

 キャンプ用のナイロンブランケットを収納袋から取り出している岳人パパを見ていると寿々花は思う。あの女性は、こんな優しい夫に労られて、拓人をお腹の中で育んで頑張って産んだのだろうな――と。

 妊婦という身体になって寿々花は初めて『拓人の実母』を思うことが多くなった。


 そう思うと途轍もなく切なくなる。母性はあったはず。一時期はそんな彼女もいただろうと信じていて、『お腹を痛めた子と離れるだなんて彼女もどれだけ寂しいことか』と思いたかったが、いまの寿々花は否定する。


 いや、違う。あの女性は『母性に酔っていた』だけかもしれない。お腹に子どもがいると、周囲がとても優しくなる。夫も、義両親も、実の両親も。友人も、職場の同僚に上官も。そうでない環境に置かれる場合もあるだろうが、大抵は人々は妊婦を労ってくれる。もし彼女が拓人のことをこれっぽっちも思い出さないいまを過ごしているのなら、彼女の妊娠は出産は、『優しくしてもらえるしあわせなヒロイン』として格好のシチュエーションだったはずだ。拓人という存在に頼り切った、素敵な私のための環境だ。だからその時はみんなが丸く収まりしあわせだったはず。その影で『孤独』を選んだ男を踏み台にして。


 拓人の親権を譲り渡してから、鳴沢の母から『拓人は元気でやっていますか』とたまに連絡があっても、産みの親である彼女からはいっさいの連絡はない。鳴沢のお母さんからも『娘が拓人についてこう言ったああ言った』という情報も出てこない。


 それを知っているから寿々花は彼女をそう断罪する。『母性はなかったのだ』、彼女には。


 その後もおなじようなものだったはずだ。小さなかわいい男の子は、彼女が素敵なママでいる時だけのアクセサリー。しあわせな妻という姿を保つために必要な『優しい夫と、かわいい息子』。しかし夫であった岳人パパがそこに従わなくなった。それが叶わないから、岳人と拓人を切り捨てられた。振り返りもしない。

 お腹を痛めてもちっとも愛情を持たない女性がいることを、寿々花は知っている。いまはもう……。彼女にも母性があったはずという幻想は抱かないようにしている。


「すずちゃん?」


 ブランケットを広げてくれた岳人パパが、寿々花の顔を見て案じた視線を向けている。寿々花は我に返った。きっとムッとした顔をしていたはずなのだ。

 岳人パパがこんなに優しいから『どうして大事にしなかったのよ。完璧なパパさんなのに』と思わずにいられなかったのだ。


「ちょっとね、この前、ムッとしたことがあってね。その、母がいろいろうるさいから……」

「ああ。それはもう娘が初めての出産なんだから心配するよ。こう言ってはなんだけれど。息子のお嫁さんと、実の娘では案ずる気持ちは異なると思うよ。遥ママにとって娘の初産なんだから口うるさくなるよ」


 まあ、それもあるにはあるけれど。母の小言など本当はそこまでではないのに。岳人の元妻について腹を立てていたとは言えず、誤魔化し笑いを浮かべるしかなかった。


「しかも女の子なんだろ。伊藤家にとっては、初の女孫だもんね。楽しみなんだよ。遥ママも」

「あはは。すでにかわいいベビー服に夢中になっちゃって大変なんだよね。もちろん、私もかわいいお洋服楽しみなんだけれど」

「将馬さん、男の子と女の子が揃うって喜んでいたね。俺も楽しみだよ。今度は女の子、かわいく写真に撮っていくからね」

「ありがとう。もうたっくんも大変だもんね。女の子が生まれるなら、一緒にピアノを連弾するんだって。ピアノを習わせるって決められちゃったよ」

「拓人、最近すっかり兄貴気分になっているもんな」

「ほんと。でも、ほんとうにお兄ちゃんの顔になってきたなあって思っちゃう時があるの」

「あるね! ちょっと前まで、大人しくて、俺のそばを離れない赤ちゃんぽさがあったのになあって。兄妹ができるとまた違う成長が見られるもんなんだね」


 そこで岳人パパが深いため息をついた。

 寿々花に聞かれてもいいため息? それとも思わず出たけど本人も気がつかないため息?

 そして寿々花も岳人がここのところ、妙に思い悩んでいる表情を瞬間瞬間に垣間見せることに気がついていた。


 祝福してくれたことはよくわかっている。妊娠したと知らせた時、それはもう拓人と抱きあって『新しい家族が出来る。もっと沢山ドライブして旅行しよう』とはしゃいでくれた。

 拓人にも『お兄ちゃんになるんだな』と自然に伝えていたし、拓人も『すずちゃんの子のお兄ちゃんになる』と元気いっぱい宣言してくれた。それから拓人まで寿々花がすることに、いちいち『あぶないよ。気をつけて。ぼく手伝うよ』と気遣ってくれる。これは気が利く岳人パパをお手本にしてきたからだなと感じるほどだった。


 新しい家族の誕生を歓迎してくれたことは、寿々花にも将馬にも伝わっている。

 ただ、ほんとうに一瞬、たまに一瞬、岳人パパが浮かぬ顔をしている時がある。


 そんな時、寿々花は『まさか……。ついに拓人を将馬に返して離れていくつもり?』と不安になる。


 そうじゃない。将馬ももうそんなことは望んでいない。拓人にとって岳人パパは正真正銘の父親。すぐに離れてはいけないと拓人を手放さなかったのは岳人パパ自身なのだ。そのためにわざわざ札幌移住までしてくれた人なのだ。離別を考えているとは思いたくない。決して、拓人から離れない。そんな決意だったはずだ。


 だったら何故? そんな顔をするの? 寿々花はここ二ヶ月ほどそう思っている。


 将馬にもそんな違和感を伝えてはいる。だが彼も『岳人君が言い出すまで待っていよう。もちろん、離れると言いだしたら引き留める。必死に。俺自身が彼といたいんだ。本当に親友だと思っている。親権を勝ち取った戦友でもある。また、俺が緊急で留守にする時も安心して留守を任せられる男性でもある。力を合わせて過ごしていきたいと思っている家族だよ』。将馬もそう言い切ってくれた。


 ブランケットをお腹から膝下まできちんとかけた寿々花を見て、岳人パパも安心した笑みを見せてくれる。

 こんな気の利く旦那さんだったはずなのだ。こうして拓人も大事に育ててきてくれた男性……。

 そんな岳人パパが笑みを見せてくれたのに、ドッグランで遊んでいる本当の父子へと視線を戻すと、またため息をついて、今度は遠い目……。

 ほら。それ。瞬間瞬間に垣間見せていた思い詰めた眼差し。しかも今日の彼のため息はあからさますぎる。いや、心底思い詰めていて、ほんとうに寿々花の横でも気がつかずに様子に出しているとしか思えないほどの姿だった。


「あの……。岳人パパ、最近なにか、気になることがあるの?」

「え? ……あ、うん。ないこともないよ」

「聞いてもいい?」

「いや、聞かないでほしい。それに。もう決めたからいいよ」


 今度はふっきれたような優しい微笑みを見せられた。でも、まだ思い詰めたように眼差しを伏せる仕草も見せられる。


「岳人パパ、あの、もしかして……」


 離れていくの? 私たちから? 親権を完全に譲って監護権を辞退して、拓人を私と将馬さんに任せて、あなたはどこかに行っちゃうの? そんなの嫌! 拓人がまた泣く。行かないで。拓人が大人になるまで! 岳人パパに奥さんができても、恋人ができても、私たち一緒に家族ぐるみでお付き合いしていこう――! 寿々花はいまここで言い切ろうと身を乗り出す。


「パパ! よっ君、お店のなかに連れて行ってお茶にしようって三佐が言ってるよ。遥ママとしょうほパパのところに行こう!!」


 リードに繋いだヨキと拓人が元気いっぱいにベンチまで走ってくる。

 だから寿々花も出かけた言葉を飲み込み、ベンチに深く座り直した。

 ヨキが寿々花の足下までやってきてスニーカーをくんくんとかいでいる。


「すずちゃんもあったかいところに行ったほうがいいよね。行こうよ」

「う、うん。そうだね。あったかいミルクでも飲もうかな」


 やがて将馬もベンチに辿り着く。拓人とめいっぱい走ったせいか額に汗を光らせていた。

 いつもの四人が秋の優しい木漏れ日の下に集う。ヨキもちょこんと座って拓人がいつものように愛おしそうに撫でている。いまここは幸せなファミリーの光景。そう、ずっとこうありたいのだ寿々花は。岳人パパにそう言いたい。


 そんなとき。寿々花のお腹の中でぽこんとした感触があった。


「あ、動いた。たっくんの声が聞こえたから? 最近、たっくんがそばにいるときに動くことが多い気がする!」


 寿々花の一声に、そこにいる男たちが驚いた顔を揃える。

 すぐに飛びついてきたのは拓人だった。


「ほんと!? この前動いたって教えてくれた時はぼくわからなかった。すずちゃん、おなか触ってもいい?」

「うん、いいよ。あ、また動いた!」

「寿々花、ほんとか。俺もまだ感じたことがない。拓人の次は三佐な!」


 拓人と将馬が揃ってベンチ下の芝生に身をかがめて近づいてきた。

 ブランケットをはいだお腹を拓人に向けると、彼がそっと手を当てながら耳を近づけてきた。


「うっわ! なんか、なんか。ぽんって来た!! この前は感じなかったのに!!」

「ほんとに? たっくん! 外から感じるようになってきたんだね」

「わ、まただ! わかる!! ね、三佐も触ってみて」

「ほ、ほんとか。どれ、」


 拓人から将馬の手を取って、寿々花のお腹へと誘ってくれた。

 夫の手が丸くなったお腹の上に優しく乗った。


「あっ……。ほ、ほんとだ!」

「ね、ね。わかったよね、三佐も。あ、ちがう。赤ちゃんのパパだった。赤ちゃんパパ。やったね、三佐パパ!」

「拓人兄ちゃんの声もわかるんだな」

「ぼくより、きっと三佐パパの声が聞こえたんだよ。だって、ぼくより三佐が本当の家族だもん」


 ぼくは本当の兄じゃないから、本当の家族である三佐の声で反応したんだよ。

 拓人が自然に口にしたその言葉に、将馬の表情が一瞬だけ固まった。


 寿々花もヒヤッとした様子を一瞬だけ顔に出してしまった。岳人パパもだった。むしろ、岳人パパがいちばん青ざめていた気がする。それは寿々花にとっては思わぬ岳人の姿だった。いままでなら、当たり前のこととして『ついても良い嘘』として笑い飛ばしていたところだった。


 将馬も寿々花も岳人も。なぜ、今日はここで流せなかった?

 拓人も気がついた。大人三人、そこでいつもなら四人でいろいろ喋って笑い飛ばしている楽しいところのはずなのに。どうしたのという顔を見せていた。


 寿々花が感じ取っていた違和感。岳人パパの見えぬ気持ち。それを彼から、岳人パパから踏み込んできた。


 彼の目つきが一変する。岳人パパも芝の上に跪き、訝しむ拓人へと向き合った。

 息子の小さな肩を両手で掴んで、岳人が真顔で拓人の目を見つめる。

 その目はまるで拓人を真剣に叱りつける時のような眼差しだったので、寿々花は息を呑む。

 

「パパ?」

「拓人、よく聞いてくれ」


 岳人のそのひと言だけで、将馬も一気に焦燥感を露わにした目つきに変わった。


「岳人君、待ってく・・」

「拓人の本当のお父さんは三佐なんだ」


 感良く気がついた将馬さえも間に合わず、岳人が遮り言い切った。

 寿々花は呆然としている。

 まさか。そんな決意をしていた?


 岳人パパの止まぬ深いため息。思い悩む姿――。『もう決めたからいいよ』。あの言葉の意味は、これだった?

 お腹の子のほんとうの兄だと。将馬が本当の父親だと告げる決意を固めるために、岳人パパは苛んでいた――?


「三佐が……、お父さん……?」


 拓人はまだ七歳だ。

 どうしてここで告げた?


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