7.お父さんといっしょ


 夕方になり、伊藤家のダイニングテーブルには、恒例の手巻き寿司などのご馳走が整っていた。

 男たちが日に焼けた顔を揃えて、仲良く帰宅した。

 ヨキと遊んでいた拓人が『おかえりなさい』と出迎えに行く。その後をヨキもついていく。


 玄関から賑やかな声が聞こえてきて、寿々花と母も微笑みあった。

 寿々花も出迎えに行く。


「おかえりなさい。手巻き寿司の準備できているよ。ビールも冷えていま~す」


 よほど楽しかったのか、父も夫も岳人パパも男同士のお喋りが止まらず、寿々花の顔を見たとたんに『いい天気だったよ』、『森林の空気がおいしかった』、『ホールでのゴルフ最高』とか口々に話しかけてくる。

 男が童心に返ると『拓人より子供か』と苦笑いが出てしまうほどに、寿々花も気圧された。

 そんな男どもをなんとか、ダイニングテーブルに落ち着かせた。


 爽やかな気候の一日でめいっぱい運動をした男たちは、冷えたビールが出てくると勝手に三人で乾杯をしてひとくち『うまい!』と口まで揃えた。

 そんな中、隠し球を持っている拓人はどうなのかと、寿々花は小さな彼の様子を窺うが見事な『知らん顔』。これはなかなか、秘密のお父さん譲りのクールさも隠し持っていそうと、寿々花は口元が緩みそうになる。

 自分も平静を保たねばと、すずちゃんも真顔を必死に装った。


「拓人は、遥ママとすずちゃんとどこに行ったんだ。なにかおいしいもの食べたのかな」


 大人の男だけでのびのびと過ごしてはいたが、帰ってくれば息子がどうしていたかいちばんに気にするのも、未だ岳人パパ。

 そんな質問、困るよ――と寿々花はどっきり背筋を伸ばした。


「ショッピングモールでハンバーガー食べたよ。おやつに荻野のお菓子たべた」


 これまたクールに平然と拓人が答えたので、寿々花は密かに目を丸くする。ハンバーガーなんて食べていない。お昼ご飯は、ケーキ作りの合間にちょいとつまめる『芹菜ママ特製おにぎり』をご馳走になったのに、だった。その後もケーキ作りに精根尽き果て、拓人とはパパたちが帰ってきた後の打ち合わせなどしていない。だから寿々花は余計にびっくり。拓人はなにを聞かれても『それまでは嘘を突き通す』心積もりをきちんと持っていたということになる。


「そうか、そうか。それでこのお寿司の準備をしてくれたんだな。たっくん、ありがとうな」


 父もパパを送り出した女たちと留守番をしていた拓人を、そうして労った。それにも拓人はにっこりと笑い返しただけ。


 そして将馬。彼だけが真顔になっていた。

 寿々花を見て、拓人を見て、義母になる遥を見て。黙ってビールを呷っている。

 パパと『しょうほ』は平然とやり過ごしたのに、三佐に見つめられ拓人がそわそわしだす。同時に寿々花もだ。


 ちょっとした機微を見抜けるのは、自衛官であるこの男。父はもう家庭モード全開なうえに、副官がそばにいるのですっかり頼り切って自衛官の精神も解除している。それに対して、夫の将馬はいつだって心を研ぎ澄ましている。


 それが、拓人にはもう通じているのだ。寿々花がいつも『心を強くして平然としていないと夫にはすぐに見抜かれる』と隠し事をするのが難しいように。小学生になったばかりの拓人にも『三佐はなんでもわかっちゃう人』と認識されている。


「拓人。なにかあったのか」

「ないよ」

「転んで泣いたとか。おでかけ先で迷子になったとか、困ったことがあったのか」

「転んでも泣かないし、迷子なんてならないもん!」


 男としてのプライドも芽生え始めたこのごろ。いつまでも保育園児のような扱いするなとばかりに拓人が憤った。いやいやたっくん、そこでムキになるのは逆効果! 三佐が違う方向へ詰問を変えちゃうよと寿々花も焦る。


「だったら。それより困ったことがあったとか? パパに心配かけたくないとか、あったのかな」


 もうもう鋭いな。でも和気藹々としていたパパチームの空気が崩れ、岳人パパが心配そうな表情に変わってしまった。

 こんなところ。拓人を心配する父心とわかっていても、三佐は生真面目すぎるなあと、寿々花は密かにため息をついてしまった。


「たっくん。もう乾杯もしているし、お父さんたちお寿司も食べはじめちゃったし、いいんじゃないかな」


 寿々花が話しかけると、拓人も出しどころを迷っていたのか『もういいね』とこっくりと頷き返してきた。


 寿々花は冷蔵庫を開けて、細長い箱を取り出す。ふたつの箱は拓人に手渡し、彼が慎重に小さな手で運んで、パパとおじちゃんの目の前にそれぞれ置いた。


「父の日の、ぼくからのプレゼントだよ」


 父親ふたりが一緒に驚き、目を見開いたまま静止した。しばらくすると、お互いの顔を見合わせ、揃って拓人を見つめた。

『ふたつ』あることがどういうことか先に気がついたのも、岳人パパだった。


「拓人。ふたつあるけれど……。ひとつは、三佐にだよな」

「うん。パパとおなじぐらい、御礼をしたいおじちゃんだから」

「それって。拓人が考えてくれたことなのか。それともすずちゃんと遥ママが……?」


 岳人が寿々花と母の遥へと視線をむけた。拓人にそう考えるような提案をしたのかという戸惑いの目線だった。

 だから寿々花は慌てて首を振る。こちらから『将馬が父親である』という素振りは決して拓人に見せないように努めている。岳人パパがパパである以上は、将馬が父親だと匂わせることはしないと両親とも決めているからだ。


「ちがうよ。ぼくがすずちゃんに相談したの。パパとおなじように、将馬おじちゃんにも父の日のプレゼントしたらおかしいかなって。お父さんじゃないけれど、パパの大事なお友だちで、パパとおなじようにずっと一緒にいてほしいからって……」


 また岳人パパが驚きで固まる。将馬に至ってはもう茫然としているだけ。『父の日』に、自分も父親同然の対象として贈り物をもらえるだなんて、微塵も思っていなかっただろうから当然のことだった。


「館野、岳人君。開けてみたらどうだ」


 父に促され、やっと若い父親ふたり我に返った。


「あ、ありがとう拓人。なんだろう! ドキドキするな」


 まず岳人パパから細長い箱のリボンを解いて、上部開封になっている箱を開ける。そこから現れた抹茶のロールケーキを見て、また彼が驚きの表情に固まった。


「え、これ。買いに行ってくれたんだ」

「ちがうよ。作ったんだよ」

「え、作った!?」

「うん。このクッキー、ぼくが作って色も塗ったんだ」

「え、え、えええ?」


 岳人パパが戸惑う隣で、将馬もやっとその箱を手に取った。

 彼もおなじようにリボンをといて箱をそっと開ける。


 こちらは真っ白な雪と雪山レンジャーバッジのロールケーキ。

 細長いクッキープレートには拙い文字で『さんさもおとうさんといっしょ』とチョコレートで描かれていた。


「俺が……、おとうさん……?」


 ロールケーキの箱を、将馬は凝視したまま黙ってしまった。でも、その目がもう潤んでいるのが寿々花にはわかる。

 岳人と将馬が並んで座っている椅子と椅子の間に拓人が入ってくる。


「パパ、僕のために毎日ありがとう。三佐、パパとおなじぐらい大好きだから、これからも、パパとずっとお友だちでいてほしいです。すずちゃんと、四人でずっといっしょにいたいです。パパがひとりで大変にならないように、助けてくれてありがとう。だから、父の日に、パパとおなじようにプレゼントしたくて、すずちゃんにお願いして手伝ってもらったんだ」

「じゃあ……、今日は寿々花ちゃんと遥ママとケーキを焼いていたんだ?」


 パパの問いに、拓人は首を振る。


「ううん。教官のおうちで芹菜ママに教えてもらって、手伝ってもらった。教官がもっていた冬のレンジャーバッジを見せてもらって、真似してクッキーを作ったんだ」

「え。神楽教官のところで……!?」


 将馬が寿々花へと確認する目線を向けてきたので、そっと頷く。

 黙って教官と連絡を取り合っていたことに気後れしている寿々花のために、父の一憲が助け舟をだしてくれる。


「たっくんがね、芹菜さんのチヌークのケーキがおいしかったから、僕もそれをパパたちにプレゼントしたい、さらに、神楽教官が館野とおなじバッジを持っているから見せてもらってチヌークの飾りみたいにレンジャーバッジの飾りを乗せたいと言うから、あちらのご家族に私が連絡をして頼んだんだよ。ま、つまり。今日、館野と岳人君は、私と母さんに乗せられて、ゴルフに連れ出されたってわけ」


『え、お父さんも一枚噛んでいたんですか!』と、パパと三佐が一緒にのけぞった。


「快く引き受けてくれてね。小柳のお母さんはお菓子作りに慣れているらしいから。神楽君も元レンジャーとして嬉しかったみたいだよ」


 若い父親ふたりだけが知らず、周りの家族に知人が一丸になって拓人のプレゼント作戦に協力してくれ、そして拓人が考えた気持ちがそこにあるケーキそのものだとやっと理解したようだった。


「パパはジーンズが大好きで抹茶クリームが好きだから、芹菜ママがクリームに抹茶いれてくれたの。草むらみたいなクリームにしたのぼくだよ。三佐のバッジも僕が焼いて、広海君がチョコレートを削ったら雪みたいになるよって、飾ってくれた。それからね……、三佐が雪のレンジャー訓練した時の写真も見せてもらった」


 それを聞いた将馬が驚き、目を見開いた。


「俺が雪中訓練をした時の……?」

「うん。雪が降っている時に何かがあったら、すぐに三佐が守りに行くんだって教えてくれた。戦争をしないために、追い払うため。このバッジを持っている隊員は、雪の中で防衛するお仕事が出来る証明だって言っていた。ぼく、三佐に戦争に行って欲しくない。でも、三佐は戦争にならないように護って帰ってくるんだよね。教官が、将馬おじちゃんが頑張れるように応援してくれって。ぼくとすずちゃんとパパが、普通に暮らせるよう守るためだって教えてくれた。三佐、ぜったいに帰ってきて」


 パパとおなじ、お父さんとおなじ。そう思ってくれただけでも将馬には思わぬ感激だっただろうに……。まさか、自衛官の父親がどのようなものかを神楽教官が息子に教えてくれていただなんて……。どんな気持ちを胸に秘めて、自衛官として精進をしているのか。息子に教えてくれ、在りし日の姿を見せてくれていただなんて。そんな驚きを彼が見せている。


 その写真の男はまだ若く、でもその頃は、目の前にいる男児は既に生を受けて、おなじ空の下に存在していた。吹雪の中、堪えて訓練をしていた時、何を思っていた? この子の未来になにかあったら、この世を護れるように。そう思っていただろうと、妻の寿々花はそう思う。

 それを神楽教官が、まだ父親と知らぬ男児に密かに教えてくれていた。その言葉を理解して、いま男児が実父を大事に思う気持ちを伝えてくれている。


「ごめん、岳人君……」


 そう呟いた将馬が岳人パパの返答も聞かず、目の前にいる拓人をその胸にぎゅっと抱きしめた。いつも岳人パパを父親として優先させてきた将馬だったが、今日は堪えられなかったようだった。


「ありがとう拓人。三佐、嬉しいよ。ニセコの訓練は厳しかった、苦しかった。でも頑張れたのは……」


 そこで彼の声がくぐもった。口をつぐんですすり泣く声だけが聞こえてきた。『でも頑張れたのは、おまえが生まれていたからだよ』。そう言いたかったに違いない。それでもまだそこは言えないから、彼も堪えた。寿々花の目頭も熱くなってきて、ハンカチで目元を押さえてしまう。だが隣に座っていた母もエプロンの端で目を押さえて涙ぐんでいた。


 岳人パパも将馬が抱いている拓人の頭を撫でて、涙ぐんで笑っている。


「拓人……。パパも嬉しいよ。パパのことも、三佐とすずちゃんと家族でずっと一緒にいたいと思ってくれて。パパもいまがいちばんしあわせなんだ。この伊藤のおうちが大好きだし、神楽教官と芹菜ママと知り合いになれたこともとっても嬉しかったんだ。これからも、三佐とすずちゃんと一緒に頑張ろうな」

「うん! ね、ね、パパ。もうケーキ食べちゃだめ?」


 あっという間に子供らしいおねだり顔になったので、そこで涙目のパパと三佐が『おいおい』と笑い出す。


「ま、いいか。いつもならちゃんと、ごはんをしっかり食べた後と言いたいけれど。パパもすぐに食べたいな。いいよね。将馬さんも、すずちゃんもすぐ食べたいでしょ」

「そうね。今日は特別としましょうか。ね、将馬さん」

 彼も涙を拭って笑顔になる。

「そうだな。三佐も、いますぐに食べたい」


 今日はきちんとごはんはそっちのけ。好きなように食べようということになった。

 父も身を乗り出して『このクッキーバッジはなかなかだぞ』とスマートフォンで拓人が作ったケーキふたつを撮影しはじめる。


 寿々花がケーキナイフを白いロールケーキに入れようとしたのだが。


「うわー、やっぱり寿々花待ってくれ。これ冷凍してどれぐらい保つ? やっぱり壊したくない。このまま保存しておきたい」

「いえ、三佐。無理ですから。きちんと写真に残して、おいしく食べなくちゃ。ねえ、たっくん」

「ぼく、白いケーキと抹茶ケーキ、いっしょに食べたい」

「えええ。そんな、いまこのケーキを目にしたばっかりなんだぞ。すぐに壊して消えるだなんて……もったいない。ずっとそばに置いておきたい」


 将馬がロールケーキを腕に囲ってしまい、なかなかケーキナイフを入れさせてくれない。


「三佐、来年もつくるよ。ぼく」

「……そ、そうか……。いや、初めてのプレゼントはこれしかないからな」

「おい。館野、おいしく食べるのが贈り主への最大の御礼だぞ」

「そうですよ。三佐。陸将補からのお言葉ですよ」

「俺、いま、プライベートなんで。上官の言葉が聞こえません」

「館野が……、逆らった……!」

「三佐、ぼくと食べよう。パパと一緒に」

「そうだ、そうだ。将補も食べたいぞ。命令だ命令、上官命令! 寿々花……じゃない、館野陸曹、切り分けたまえ。司令部からの指令だ」

「ラジャー、旅団長!」


 上官でもある義父と拓人の言葉に諭され、やっと将馬がケーキを手放してくれた。寿々花は間を与えず、すかさずケーキナイフを差し込んだ。

 がっかりする将馬に拓人が告げる。


「三佐、パパ、まだ贈り物あるんだ。ぼくね、いまから遥ママとすずちゃんともセッションするよ。赤いスイートピー、三佐好きでしょ」


 伊藤家お食事会恒例の『セッション』。母の世代で流行った曲だったから、母とセッションをすると『赤いスイートピー』を必ず演奏する。それを拓人が覚えて、ついに唄えるように。遥ママのピアノ、寿々花のクラリネット、拓人の唄。いつしかこのセッションが伊藤家団欒の象徴だった。だから拓人が結婚式で唄ってくれた。


 披露宴余興の時も、六歳の男の子がお祖母ちゃん世代で流行った曲をしっかりと唄い、音大出身である母のピアノと、現役の音楽隊隊員である堂島陸曹がフルートで伴奏をしてくれたため、会場は聞き入ってくれ、最後には拍手が会場全体から鳴り響いたほどだった。

 将馬にはそれが忘れられない祝いと思い出となったから、お気に入りの曲になった。ドライブで必ず聴く。

 それを今日も披露してくれると将馬も笑顔になった。

 

 だが、今日はそれだけではない。


「ぼくもピアノ、弾くからね」


『え?』

 またもやパパと秘密のお父さんが、揃って目を見開いた。


 さあ。たっくん。ピアノも頑張りましょうか。

 寿々花もクラリネットの箱を開け、拓人と目配せ、準備を始めた。


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