5.この手を握って、離さない
またライラックの花が咲き始める季節がやってきた。
五月の風に花が香る金曜日。父と婚約者の彼は今日は出張でいない。
女ふたりだけの朝食をゆったりと取っていたら、寿々花のスマートフォンから電話の着信音。表示を見ると、岳人パパだった。
『おはようございます。リモート不可の急なクライアントとの打ち合わせが入ってしまって、もうでかけなくてはならなくなったんですよ』
そう聞いて、寿々花は『大変』と飛び上がる。
「え、だったら拓人君の登園の付き添いがいりますよね」
『そうなんです。お願いできますか』
「いいですよ。私が出勤する時に連れて行きます。こちらの伊藤の家に連れてきてください」
『いますぐ行きます!』
『すずちゃん、おねがいします!』
パパの電話の向こうから、元気な声が聞こえてきたので、寿々花の頬が緩む。
「たっ君を保育園まで連れて行くから、早めに出るね」
「あら。岳人さん、お仕事?」
「時間変更で、打ち合わせが朝いちになったんだって。フリーランスだから、断るとひとつチャンス逃しちゃうこともあるみたいだから」
「まあ大変。お母さんが行ってもいいのよ」
「いいよ。たぶんそこで堂島陸曹に会うから」
ママさん隊員の堂島陸曹とおなじ保育園に入ることができていた。
きっと堂島女史も登園に現れるだろうと思って、寿々花も進んで引き受ける。
「おはようございまーす! 遥ママ、すずちゃん」
「おはようございます。いつもすみません」
スタイリッシュなパパさんが、今日も元気いっぱいの男の子と一緒に伊藤家にやってくる。
玄関で寿々花が出迎えると、ヨキも一緒に出てきたので、拓人の笑顔が輝く。
「よっ君。おはよう、おはよう」
慣れた手つきでヨキをだっこして、ふさふさの毛を一生懸命に撫でてくれる。
ヨキもすっかり慣れて、いまは『遊び相手』として懐いていた。拓人もヨキのことを大好きといって可愛がってくれる。
「いらっしゃい。たっくん、岳人さん。朝は忙しいわね」
「お母さん、いつもありがとうございます。今日も拓人をよろしくお願いいたします。迎えの時間は自分が行きますので」
「今日、お父さんと将馬さんが東京の出張から帰ってくるのよ。金曜日で、明日はお休みでしょう。よかったら、こちらで一緒に晩ご飯しましょうよ」
「マジっすか! お母さんの手料理が食べられるなら、俺、今日一日めちゃくちゃ頑張れちゃうな!」
「僕も、遥ママのポテトサラダ食べたい! ほんのりバターの味がするやつ」
「うんうん、わかったわよ。作っておくね。ほら、岳人さん。地下鉄に乗り遅れるわよ」
「ほんとうだ。行ってきます」
パパいってらっしゃい――と、母と拓人とともに寿々花も見送った。
それと同時に寿々花も制服姿で靴を履く。
初夏になり、元気いっぱいTシャツ姿の拓人の手を取る。
「よし、行きますか。たっくん」
「うん、しちょう、行きましょう」
小さな手が寿々花の手を握る。
「いってらっしゃーい」
ライラックが咲き始めた伊藤家の庭先。母がヨキをだっこして見送ってくれた。
伊藤家のライラックは白と紫色。北国のひんやりとした朝の風に揺れると、花の香りが漂ってくる。
「お花の匂いだ。あのお花かな」
門扉を出たところで、家の塀の外へと垂れ下がっているライラックを拓人が見上げる。
「うん、ライラックというお花でね。北の方で咲くお花なの。『札幌市の木』になっているんだよ」
「いっぱい咲いているね。しょうほのおうち、お花がいっぱい咲くんだね」
「すずちゃんが子供のころから咲いているの。このおうち、遥ママのお父さんとお母さん、すずちゃんのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのおうちだったからね」
「僕、このおうち好き。おっきなお部屋がいっぱいあって、よっ君もいるし、しょうほと遥ママやさしいし、みんないっしょにおっきなテーブルでごはんもできて、お庭にお花もいっぱいさくから」
そう聞いて嬉しくなる寿々花だが……。
育った家のことは、小さな彼の中ではどうのように残っているのかとも感じた。
だがそれをわざわざ聞く大人は、もうここにはいない。
よほど心を傷めていたのか、不思議と拓人からも『ママ』の話が出てこない。
いちばんに抱きついて泣くのは今も岳人パパだし、まだ実父とは知らぬ『パパの親友』である将馬にも拓人は懐いて、泣いたり笑ったりも素直に見せている。すずちゃんは、パパの親友の奥さんになる人。しょうほと遥ママは、すずちゃんのパパとママ、『いちい』のお仕事の上司という関係性でまとまっていた。
館野一尉と伊藤家が必要以上に、岳人パパに協力的なことは、いま幼児の拓人には知らなくてもいいこと。
小さな彼も疑問には思わない。大好きな岳人パパが家族ぐるみで親しくしているだけのこと、親友の『いちい』がなんでも協力してくれて、甘えてもいい存在と認識しているだけで充分だった。
拓人が岳人パパと札幌に移住してきて半年が経とうとしていた。
雪の季節に移転してきたため、いきなり雪に囲まれる新生活となった。初めての雪国暮らしにあたふたしていた岳人パパと、おっかなびっくり、でも驚きいっぱいでわくわく楽しむ拓人だったが、将馬と寿々花、寿々花の両親の力添えで、なんとか早いうちに馴染むことができた。
素早い決断と話し合いを済ませていた『父親組』の『親権申し立て』も弁護士を通じて早々に決着がついた。
鳴沢の両親が一度だけ、札幌まで将馬に会いに来たが、本気になった将馬の強固な姿勢に太刀打ちできずに退散。子育ての環境が父親側で良好に整ったこと、逆にいままで親権があった母親側は悪化していることが決め手となった。
伊藤家が協力したことも大きかった。そして、親権を取る実父の将馬が結婚予定であること、婚約者である寿々花の了承が取れていること、館野家の両親、婚約者伊藤家の両親も受け入れ協力が整っていること。親権を持つ父親が、育ての父親に監護権を希望していること。育ての父親がそれを了承していること。育ての父親の収入に合わせ、三人の自衛官が揃っていて経済的にも安定していること。信用的にも、母親側より有利となった。
自分一人ではなにもできない彼女は、今回も一度も声を聞くこともなく姿を現さず。面倒なことには背を向け逃げて、両親と弁護士任せで親権を放棄した。それを鳴沢の両親は止められずに受け入れたようだった。接近禁止にしたのは彼女だけなので、鳴沢の祖父母には『条件付き』で孫に面会できるということでも話が落ち着いた。
拓人が可愛くても、娘を優先する家庭しか作れなかった鳴沢の両親。なるべくしてなった結末。彼らが自ら引き入れた結果だと寿々花は思っている。
自分を愛でてくれる新しい環境で、拓人は毎日明るい笑顔で過ごしている。
寿々花も密かに忍ばせている『母心』。未熟だけれど育て始めている。
小さなこの子の手を握って、もう離さない。あなたの本当のお父さんと一緒に強く握って、離さないよ。
ライラックの花の色と香り、これが拓人と私の思い出になりますように。
---✿
夕方になり帰宅すると、キッチンでは母が夕食作りに励んでいて、リビングでは帰宅した岳人パパと拓人がヨキを挟んで遊んでいた。
「すずちゃん、おかえり!」
制服姿で帰ってきた寿々花を元気いっぱい拓人が迎え入れてくれる。
「パパ、すずちゃんのお部屋に一緒にいっていい?」
「お姉ちゃんはいまからお着替えをするんだぞ。女性のお着替えに男は一緒にいたらダメ」
「べつにいいですよ。いまはまだ」
寿々花はそう思うが、岳人パパとしては『母親であってそうではない女性として位置づける』ことを既に意識していることが伝わってくる。母心を忍ばせ始めたが、拓人の将来の見通しの付け方は岳人パパのほうが断然先輩。
彼はさらに手を緩めない。
「それに。寿々花さんの部屋には、大事な楽器がいくつかあるでしょう。お祖母様から引き継いだヴァイオリンとか。おもちゃじゃないことも覚えさせないと」
父親たるものを目の当たりにする瞬間だった。いままで何度も目の当たりにして来た。
育ての父親として、甘いところ厳しいところ、岳人パパはそれをしっかり持ち合わせている。将馬ですら『こうあるべきなのか』と感嘆し、岳人パパを父親として敬っている。
そんなパパの厳しい言いつけに、一瞬しゅんとした拓人だったが、『おきがえ終わったら呼ぶね』と伝えると笑顔になった。
岳人パパが言うとおりなのかもしれないが、拓人のお目当ては『音楽隊で働くお姉さんのお部屋』で、楽器や音楽隊のマーチング用正装とか、たくさんのCDにオーディオがある雰囲気に浸りたいこと。決していたずらなんてしないし、勝手に楽器にも触らない。でも万が一があるのも子供、岳人パパに寿々花もそう教えられていた。
ゆったりできる夏のワンピースに着替えてリビングに戻り、拓人を呼びに行くと、賑やかな声。
『いちい、しょうほ、おかえり』と楽しそうな声が聞こえてきた。
父と彼が東京から帰って来たようだった。
「おかえりなさい」
寿々花が姿を現すと、紫紺の制服姿の男ふたりが笑顔を向けてくれる。
「東京はもう蒸し暑かったよ~。なんで夏服の時期に呼んでくれなかったかなあ」
「ただいま、寿々花。お父さんとお土産を選んできたよ」
自宅では『将補』ではなく、すっかり『お父さん』と呼ぶようになった彼。
彼がお洒落な紙袋をいくつもいくつもソファーに並べてきたので寿々花は『こんなに!』と仰天する。
「副官と一緒に妻と娘のお土産を当たり前のように選ぶ不思議な感覚を味わってきたぞ。こいつ、あれもこれもって寿々花にいくつも買い込んでたんだよ。もうやめろって言っても、たっ君にも岳人君にもあれもこれも。私が荷物持ちになりそうでさ」
「なに言ってるんですか。将補だって奥様にあれもこれも、娘にも拓人にも岳人さんにだって。自分が将補のぶんもきちんと全部運びましたよ」
「優秀なレンジャーだから苦ではなかろう」
やがて舅と婿になるふたりは、上官と副官の時でも軽快な会話が日常になりつつある。
そんな制服のふたりが帰宅して賑やかになり、岳人パパも楽しそうに笑っている。
そのうちに一尉の視線が寿々花より先に拓人に向かう。
「ただいま、拓人。パパとおりこうさんにしていたかな。いちい、乗り物のお土産買ってきたぞ」
「自衛隊の車両? それとも、飛行機?」
お土産を約束していたので、拓人がわくわく目を輝かせる。
「どっちも両方だ」
「わーー! いちい、ありがとー!!」
制服姿のおじさんへと小さな身体で駆け寄って抱きついた。
彼が足下に来た男の子をさっと抱き上げる。片腕に乗せると、顔と顔が近づく形になるが、目と目を合わせてふたりともしあわせそうな微笑みを見せてくれる。
ちょっと妬けてしまう婚約者の寿々花だが、寿々花自身も願っていた姿がそこにある。
ほんとうのお父さんと息子が微笑み合う夕べ。
大好きとお父さんの首に抱きつく男の子。
でも寿々花は『ちょっと甘やかしすぎ』とも思っている。岳人パパから『買いすぎ与えすぎ』と指導が入りそう……。でもやっと息子との日常を過ごせるようになったばかりなので、一年ぐらいは大目に見ると岳人パパも笑って見守ってくれている。
父は自宅なので着替えたが、将馬は自分のマンションへ帰るので制服のまま、食卓に向かった。
ネクタイをほどいたシャツスタイルになり、彼が寿々花の隣に座る。
今日は皆が集まるからと母が手巻き寿司を準備してくれた。拓人がお気に入りになった遥ママのポテトサラダもある。
男たちが、冷酒で晩酌をして仕事の話。寿々花と母は拓人のお喋りを笑って聞いて相手をしている。
元は複雑な関係だったかもしれない。でも、いま伊藤家のファミリーの形はこの形で収まりつつある。
「ママとすずちゃんの演奏会してして」
寿々花の母もピアノを長くしていたため、リビングにはピアノがある。
そこで娘の寿々花が自宅用のクラリネットを持ち出して、食後、母娘でセッションをするのがお決まりに。母とセッションをすると『松田聖子特集』になってしまう。最近はついに五歳児の拓人が『赤いスイートピー』を覚えてしまったことも、家族の笑いを誘ったりしていた。
岳人パパもそれをとても楽しみにしてくれている。『シングルファザー生活になったけれど、いますごく満たされている』としあわせそうだった。
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