6.一尉の悪い噂
自衛官という職務を全うし、会えない息子が将来困らないようにサポートするだけの人生。それを選んだのだと、館野一尉は締めくくった。
最後に『よっ君、バイバイ』と頭を撫でてくれた時は、優しく微笑んでいた。
あの微笑みを、ほんとうは息子さんに向けたかったのだろうと思うと、寿々花も胸が痛むので、そのまま静かに見送った。
新しい駐屯地と、新しい音楽メンバーや上官との業務になれてきた。
雪も溶けて北国には暖かな風が吹き始める。新緑の芽が息吹き始め、桜も開花する。
この頃になると自衛隊のイベントが目白押しになってくるため、演奏練習にも力が入ってくる。
さまざまな民間イベントへの参加、自衛隊の広報としてのコンサートなど、土曜日曜も遠征が増える。
ヨキの散歩も続けているが、あれからも館野一尉と何度か出会うことはあった。
今度は避けられることもなく、ごくごく自然なかんじで挨拶をしてくれ、館野一尉は必ずヨキに話しかけて、寿々花ともただ挨拶だけを交わして去って行く――という、ただの顔見知りのような距離感に落ち着いていた。
あんな男の決意を聞かされたら。
それに、あの人の心は息子さんのもの。
母も言う。『そっとしておきなさい』と――。寿々花もそう思っている。
父の副官、それだけ。
桜が咲き誇ると、今度はライラックのつぼみがふくらんでくる。
大通公園で行われるライラック祭りで、方面隊音楽隊もコンサートに参加するため、市民向けの楽曲での演奏練習の時間が増えてくる。
女性隊員も多い音楽隊では、休憩時間になると女子会のような茶話会状態となる。
最初こそ、根掘り葉掘り、父親のことや館野一尉のことを聞かれていたが、寿々花が『父と母が』と言い出すと、みな察したのかその話題を出さなくなってきた。
だから、寿々花も安心して気を抜いていた。
茶話会のような休憩が終わって、次の練習時間のために女性たちはお手洗いに向かう。
先に向かった同僚たちが、そこでなにかを話していた。
「やっぱり、旅団長のお嬢さんがいるといろいろ話しにくいよ」
「うん。ぜんぶ報告されていそうだよね」
「館野一尉のこともでしょう。あ、でも。彼女には聞けなくなったけれど、前いた駐屯地にいる同期からいろいろ聞いちゃったんだ。館野一尉は結婚しないよ。お子さんがいるんだって」
「え、うそ!!」
ええ、こっちが黙っていても知られちゃうものなんだと寿々花は目を丸くする。
入り口手前の壁に身を隠していたが、盗み聞きしているので心臓がバクバクしている。
このまま去ろう。あとのことは自分がどう言われるかもわからず、寿々花はやり過ごそうとした。だが続きが聞こえてくる。
「なんで結婚できなかったの。奥さんと離婚したとか」
「わからないんだよね。そこらへんは。なんかストイックそうな人じゃん。奥さんにも『自衛官を支える妻であれ』と押し付けてたんじゃないの。あんなにレンジャー習得していたら、家にいないでしょう。カノジョさん、不安だったんじゃないかな」
「意外とモラハラ気質だったりしてね。職務第一で奥さんをないがしろにしてたとか。妻がいるという体裁だけあればよかったんじゃないの」
「イケメンで優秀、でも独身なのは、なにかあるよねきっと。それで伊藤士長も、旅団長とお母さんに口止めされて、話題が出ると深くは喋ることはできないという姿勢だったんじゃないのかなあ」
あり得る~とそこにいた女性隊員が揃って頷いていた。
そんな男性だから、いくらイケメンでも恋をしても無駄。恋をしたくてもできない存在であれば気にすることもなくなる。そんな存在であればいいのだと、館野一尉の男性像をでっきあげて女の子同士で納得して、追い立てているようだった。
離婚なんかじゃないし、モラハラでもない!!
寿々花の頭に一気に血がのぼった。
一方的に傷つけられたのは一尉で、ほんとうは息子さんを大事にしていて――。それで!!
踏み込もうとしたそこで、誰かに肩を掴まれていた。
どっきりとして振りかえると、音楽隊の女性隊員をまとめている女性上官『堂島陸二曹』が無言で立っていた。
口元に『静かに』という指を立てた仕草をみせた二曹は、寿々花をそこに留まらせ、自分はトイレへと入っていく。
「外まで聞こえていますよ。慎んでくださいね。司令部の方がそばを通っていたり、こちらの上官の耳に入ったりしたら、見逃してくれないこともありますよ」
かしましくしていた女性たちの声が沈んだのがわかった。
その気配を知って、寿々花は堂島陸曹が気を利かせてくれたことを無駄にすまいと、彼女たちと鉢合わせをしないよう立ち去った。
立ち去ったのだが、その後も寿々花の頭は冷静でなくなっていたのか、演奏に集中できずにいた。
その日の終業後、堂島陸曹にも個別に呼ばれ『仕方がないけれど、どのようなことがあっても務めるのが仕事ですよ』と注意をされた。
さらに堂島陸曹がため息をついて、抑えた声で話し始める。
「私、館野一尉とおなじ駐屯地にいたんだよね。おなじ時期ぐらいに私も結婚が決まっていてね。一度だけ『上官の招待客が被りそうなので、挙式披露宴の日が重ならないよう気をつけないといけませんね』と、情報を交換しようと話しかけられたことがあるの。でも、それっきり。当時も口さがない噂はされていたけれど、お子さんの出産に立ち会えなかった、あちらに全部取られたと聞いたもんだから。ちょっと個人的に腹立つこともあってね……。でも、だからこそ、波風を立てたらだめよ。余計な負担をかけるからね」
「はい。母にもそう言い含められています」
「旅団長ご夫妻はそう決めているだろうと、こちらもわかっているつもりです。このことは秘密裏に音楽隊隊長にも報告しておきます」
「わかりました」
「あなたも冷静に、いままでどおりで」
しっかりされた女性上官なので、寿々花も新しい音楽隊にやってきても、安心して馴染むことができていた。
既婚で音楽隊隊員を続けられているので、女性隊員たちは堂島陸曹に憧れ、尊敬もしている。
そんな彼女から注意をされたら畏怖を抱く若い隊員は、今後は話題選びについては慎重になってくれるだろう。
業務終了のラッパが聞こえ、寿々花は帰り支度をする。
自宅までは徒歩十分もない近所。母に報告しなくては。
門を出ようとして……。寿々花は足を止め、部隊へと踵を返す。
戻るのは音楽隊が置かれている建物ではない。旅団司令部がある、『旅団司令部庁舎』まで向かっていた。
独立した庁舎に父がいる。そして副官の館野一尉も。
怒りを募らせている自分がいることを自覚して歩いている。
母でははない、本人に伝えよう。『悪い噂』をされていると。父と母に『そうではない』と正しい情報が広まる作戦を立ててもらわなくちゃ。本気でそう思っていた。
司令部庁舎が見えてきて、寿々花は正面玄関に近づく。
春の淡い夕暮れ、うっすらとした茜に包まれる庁舎の入り口に立った。
用事もない一隊員が無断で近寄ることなど皆無の場所だった。でも私は――旅団長の娘だ。
娘だ――と心で言い切ったそこで、寿々花はやっと我に返る。
一番やってはいけないことをしようとしていることに……。
娘という立場を使ったら最後。娘は特別扱いかと、父の権威も落ちることだろう。
そんな冷静さを失った自分を知り、寿々花は震える。
一気に自己嫌悪が襲ってきた。
彼のなにを知っているというのだろう。
ヨキが懐いた男性だから悪い人じゃない、だからとて彼の全てが正しいと言い切れるのか。
何も知らないからこそ、善し悪しを決めて思い込んではいけないのではないのか。
なのに。どうして私は怒っているのだろう。
襲ってくる嫌悪と動揺が渦巻き、身体から変な汗が滲んで身体がかあっと熱くなっている。恥じているのだ、身体全体で脳の中いっぱいに……。冷静になれと堂島陸曹に言われたのに、冷静になっていなかった。自分の気持ちだけで動いていた。幼稚な行動を起こしていたのだと――。
寿々花は力なくも帰り道へと戻る。
ふらふらとしたまま、寿々花は駐屯地内のコンビニに寄って、なにか飲み物を買って落ち着こうとした。
制服姿の隊員も、迷彩の作業服を着ている隊員も、まだまだコンビニにいる。
レジで会計をして、寿々花もやっと心が落ち着き店の外に出た。
少し歩いて、周囲に人がいなくなり、ひとりになったところで、隣に人が並んだ。
気配がなかったので心臓がドキリと大きくうごめいたが、その人に腕を強く掴まれていた。
「少しよろしいですか」
見上げて知った顔は館野一尉。突然現れたので寿々花は硬直する。しかも、彼の顔が怒っているようにしか見えなかった。
腕を強く引っ張られ、素早く人影の見えない奥の通路へと連れて行かれる。
業務が終了して静かになっている通路で、制服姿の一尉と向き合った。
「さきほど、司令部庁舎まで来ていましたね。なにかありましたか」
見つかっていた――。寿々花は目を見開く。そして項垂れた。自ら恥じる姿を彼に知られてしまったからだ。
「申し訳ありません。衝動的でした」
「なにかお困りでしたか。旅団長のお嬢様ですから、連絡もなく許可なく近づくことがどのようなことかわかっていますよね」
うつむいていた顔を上げて、彼の目を見るとあの淡々とした冷たい顔をしている。
いま彼は副官の顔をしているのだ。そして業務上の関係として、上官のお嬢様でも許されないことについて言及している。理由も追及している。
「わかっているはずのお嬢様が、それでも衝動的にそばまで来るほどの理由はどのようなことですか。余程のことでしょう。ここで私が伺います」
「個人的なことです。申し訳ありません。母に報告いたしますので、後ほど、父から聞いてください」
そこで館野一尉が怪訝そうに片眉を上げ、戸惑う顔をした。
「……お母様に伝えて、お父様へ、そこから部下の自分へですか? 随分遠回しですね。ということは、お嬢様から面と向かって言えないこととは、自分、俺のことですか」
すぐに察することができる一尉に驚きながらも、さすがだと寿々花は観念する。
「あなたが悪く言われていて……広まったらいけないと思って」
また彼が息をひいたような驚きを見せて、すぐにため息をついて眼差しを伏せた。
「そんなことをわざわざ? そうですね。お母様に報告してください。お父様から聞きます。まあ、だいだい察することができます。婚約破棄したことについて、子供がいることについて、好きなように予測されているのでしょう。どこの駐屯地でも起きた現象ですよ。そろそろ囁かれるだろうと構えていました」
「でも! 一尉は悪くないじゃないですか!」
そんなふうに彼をかばう寿々花を、彼はいままで以上に冷ややかに見下ろしている。
「悪いままにしておいてください。それで結構です。あなたが案ずることではありません」
あなたは無関係、首を突っ込むな。余計なお世話だ。そう言われているに等しい冷たい視線が突き刺さる。
寿々花はゾッとした。もっと怖い顔を隠していたのだ、この一尉は。
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