微笑まないあなたのそばに *一尉は未婚の父*

市來 茉莉

微笑まないあなたのそばに *未婚の父編*

1.ワンコより速い男

 いつかはもしかしてと覚悟をしていた。

 父とおなじ職場で働くことになる。


 実家がある札幌市へ転勤、異動。

 寿々花すずかの両親が住まう実家から、通勤することになる。

 立地抜群、勤務先もすぐそこだった。

 親元を離れて就職、しばし遠方の勤務地で過ごしていた。二十七歳の春、地元札幌へと勤務地が決まった。これまでどおりに規則に従って営内寄宿の予定だったのだが。母が雪の季節に事故に遭い足を負傷、日常生活に支障が出ているとのことで、母の介助をするために、実家住まいの許可を得ることができた。


 実家には父と母以外に、他の家族もいる。


「よっ君のお散歩おねがいね」

「うん。大丈夫。にしても、三月なのに寒いな。こんなに寒かったかな」


 瀬戸内地方の勤務地にいたため、久しぶりの北国生活となる。慣れていたはずの春の寒さを身体は忘れてしまったようで、寿々花はダウンジャケットを羽織って、赤いリードを手に持つ。

 母がだっこしていたヨークシャーテリアの『よっ君』を、靴がならんでいるそばにちょこんと降ろした。


 よっ君は母を見上げて、ふんふんと鼻息を荒くしてしっぽを振っている。

 ほんとうは母と一緒に散歩に行きたいのだろう。母が心苦しそうによっ君をみつめる。


「ごめんね、よっ君。ママが元気に歩けるようになったら一緒に行こうね。それまでお姉ちゃんと行ってらっしゃい」


 弟も妹もいない娘のことを『お姉ちゃん』と呼ぶ母に、寿々花は思わずくすぐったさを覚える。自分がお姉ちゃんと呼ばれるようになるとは思わなかったからだ。


 でも、確かに。よっ君はもう我が家の家族で、寿々花にとっても弟がでた気持ちになるのも本当のことだった。


「行ってきます」

「気をつけてね」


 早起きをして、時間通りに食事をして、運動のための時間を朝に取る。

 寿々花には苦にはならないスケジュールだった。


 ひさしぶりの札幌での生活。

 まだ雪が残る三月だが、北国では気温が緩み春の気配を感じる時節。それでも道外から来た人間にはまだ真冬に感じられることだろう。

 瀬戸内地方から帰って来た寿々花も『忘れていた春の寒さ』ではあったけれど、『ああ、北国の春の空気。思い出す~』と身体の奥から懐かしさが溢れてくる。


 小型犬であるよっ君は、ちょこちょこと歩いているが、それでも早足で進んでいく。

 母が怪我をして散歩ができなくなってしばらくは、忙しい父がたまに散歩にだしてあげていただけ。丁度よく『お姉ちゃん』が同居することになって、毎日お散歩に連れて行ってくれると人と認識してくれるようになった。


 近所の真駒内まこまない公園へと向かう。

 真駒内がある南区は札幌市の広大な森林部分があるため、自然豊かな公園が多い。

 真駒内公園も大きな公園のひとつで、野鳥に水芭蕉、カタクリの花の群生などが見られる。

 散歩コースも、2キロコース、3キロコース、5キロコースとある。犬の散歩もしやすい環境が整っていた。


 そこでよっ君を思う存分歩かせる。たまに一緒に走ってあげると、彼もムキになって走り出すので、寿々花も楽しみながら散歩に付き添えている。


 寿々花も運動は嫌いではない。むしろ今の仕事に必要。なので体力作りは怠らない。わんちゃんのお散歩など、今日のように言葉どおり朝飯前であった。


 まだ残雪がちらちらと見える公園内、ゆったり広めの歩道をよっ君と笑いながら走ったりしていた。そのうちに本気を出したよっ君がぎゅんっと寿々花を引っ張りリードがピンと張るほどに駆け出す。


「あはは、よっ君。負けず嫌いだな。お姉ちゃんだって負けない……、ぞ?」


 負けないぞ――と言いかけたその時、リードの端で『ぷつん』とした感覚。よっ君がひっぱって重みがあったリードの先がふいっと軽くなった。しかもリードの先の金具がぽつんと地面に落ちた。


 はっとした時の目の前には、ぐんぐんと離れていくヨークシャーテリアのお尻。しっぽとお尻が遠ざかっていく!


「え、え、よっ君……? え、リード……」


 リードの金具が壊れていた。母が長く愛用して古びていたのはわかっていたが、まさかの小型犬の力でぶっちぎられるとは!?


「よ、よっ君! 待って!!」


 リードを急いで拾い上げ、寿々花は全力疾走しているよっ君を追いかける。


 先ほどまで『お姉ちゃんと競争だよ~』なんて遊びをしていたせいか、よっ君は『わー、お姉ちゃんが追いかけてきた! ボク負けない!!』とドンドンと小さな身体でも、猛スピードで駆けていく。


 うそー、うそー!! 見失ったらどうしよう!! どうしよう!!

 だが寿々花も足には自信がある。ある、あるのに追いつかない! よっ君待って待って待ってーーー!!!


 冷や汗がどっと背中に滲み出てきたその時、走っている寿々花をさらに追い越していく人影が真横をよぎっていった。


 上下黒色のランニングウェアスタイルの男性が、寿々花を軽やかに追い抜いた。さらに小さくなっていくヨークシャーテリアへと、瞬く間に走り抜けていく。


 足が速い、どんどんよっ君に追いついていく。

 走っている寿々花より早く、駆けていくワンコも追い抜かしていった。

 しかもよっ君の前まで抜けると立ち止まり振り返り、まっすぐ走ってくるだけの犬をさっと軽々と捕まえたのだ。


 寿々花は茫然として立ち止まってしまったが、我に返って急いで男性の元へと走り出す。


「あ、ありがとうございます!!」


 顔を上げた男性がにっこりと笑う。

 鼻筋がすっと通った面持ちの男前スマイルだったので、寿々花は一瞬どきりとときめいたほど。頬がすこし熱くなる。


「すばしっこかったですね。後ろを走っていたんですけれど、急に飼い主さんと距離があいたかと思ったら、ちいさいのに弾丸みたいにあっという間に遠ざかっていくので、自分もびっくり目を丸くしちゃいましたよ」


 犬の扱いに慣れているのかと思ったが、両脇の下だけ抱きかかえられているよっ君がジタバタするので、困った様子の彼がぱっと地面に降ろした。また逃げられないように脇を持っているだけで、身をかがめて掴んでいる彼が『うわうわ、動かないでくれよ』と焦っている。


 そのうちによっ君から、寿々花の足下まで走って戻って来た。


「よっ君、ごめん。っていうか、よっ君、思った以上に速くてびっくりした」


 ちゃんとお尻からすくって、寿々花はよっ君を抱き上げる。

 知らない人に触られたからなのか、よっ君はそのまま寿々花の両腕に収まって大人しくなった。


「ほんとうに、ありがとうございました。母から頼まれて散歩を代理でしていたのですが、ここで見失うことになっていたら……私……」


 母に怒られるよりも、よっ君の姿が見えなくなり行方不明になったらと思ったほうがゾッとして、うっかり涙が滲んでしまった。


「よかったです。俺の足がバカみたいに速いことが役に立って。こんなことしか能がないものですから」

「そんな。私もけっこう走るほうですけれど、ものすごい瞬発力でしたよ。スプリンターですよね」

「あ、まあ。でも短距離走者ではないですね」

「長距離ですか」

「……いえ、趣味みたいなもんです。身体を動かすしか能がないんです」

「スマートな身のこなしでしたよ。長く運動をされて鍛えられてきた方ですよね」


 そう伝えたら、何故か彼が黙りこくった。表情も硬くなる。

 あ、根掘り葉掘り聞きすぎたかも? その場を保たせるためのお喋りが過ぎたかなと寿々花も口をつぐんだ。


 だが、彼の目線はずっと、だっこされているよっ君に釘付けだった。


「そうしてだっこしてやればよかったんですね。気をつけます」

「ワンちゃんはあまり触ったことがないのですか」

「はい。忙しいうえに、家を空けることも多い独身なので、ペットを飼ったことがないんです。ですが、今年度から新しくなる上司が犬好きでしてね。触れて慣れておいたほうがいいかなと思ってしまいました」

「そうなんですね……」


 もう一度だっこしてみますか! と言いたくなったが、他人様に軽々しく触れさせていきなり噛んだりしたら大変なので、そこは寿々花もぐっと堪えた。

 母からも、小さい子が触りたいとか言っても気易く触らせてはいけないと懇々と注意するようと言われすり込まれていた。どんなによっ君が大人しく人慣れしていても、絶対に大丈夫と思わないこと。飼い主としてのモットーだと母にも父にも言われている。


「では。これで失礼いたします。リードを新しくしないといけないですね」

「はい。ほんとうに助かりました」

「じゃあな。『よっ君』。おじさん、ひさびさに本気ダッシュさせられちゃったな」


 爽やかなスポーツマンスマイルを見せてくれる彼が、寿々花が抱いているワンコの目の前まで目線を落として微笑んだ。よっ君も、目の前の彼を見つめて鼻をひくひくさせている。


「それでは、お気をつけて。よっ君、お姉さんから離れるなよ」

「ありがとうございました」


 手を振る彼が颯爽と走り去っていく。リズミカルに走る彼の背中を寿々花は見送る。


 おじさん。かな? 寿々花は首を傾げた。でも、かっこいい人だったと寿々花は思ってしまった。


 赤いリードの壊れた金具を見つめて、寿々花はため息を吐く。報告したら母に怒られる? でもよっ君が無事でよかったとほっと胸をなで下ろして帰宅した。



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