その青年、碧眼のエージェント(1)

 二〇〇※年、日本。


 経済発展を目的とした西(にし)大都(おおと)市が、東京都や大阪府と並んだのは二十世紀になってからである。それまでは新しい都市としての名ばかりが知られていたが、高層ビル群や三ツ星ホテルが建つにしたがって、多くの企業がその土地を注目するようになった。


 価格が高騰する土地は次々に売買され、世紀末とうたわれた年を十二年過ぎた頃には、大都会へと変貌をとげていた。


 そんな西大都市は、岐阜県と山梨県の間に位置していた。見通しの良い場所に販売業者が店を多く並べ、密集するように立てられた高層ビル群は深夜になるとひっそりと静まり返る。


 経済発展と人口増加に伴って犯罪も右肩上がりにあり、強姦、恐喝、麻薬密売が急増し、犯罪現場に飛び込んだ警察官が流血沙汰になるニュースが相次いだ。深夜になると現れる薄暗い陰りは、「被害者が加害者の顔を覚えていない」といった未解決事件の波紋を受けて、気味の悪い場所となっていた。


 目配せすることも避ける建物のその薄暗がりを覗きこむ警察官も、懐中電灯でチラリと見やって立ち去って行くばかりだ。何か異常が見られた場合、応援が到着したあと確認作業に入る事が義務づけられていたが、その時は既に被害者だけがいる状態である事も少なくはない。


 人通りの多い夜の街は、星の光も霞むほどの人工の明りと活気で溢れ返っていた。巨大な建物の間奥で小さな騒ぎが一つ起ころうと、その物音すら静けさに飲み込まれて外の賑わいにかき消されていく。それを知って、法に背く輩たちが集まってくるのだ。


 人工の明かりに慣れた人間にとってそこは、巨大な壁と壁の間に深い闇が佇んでいるようにしか見えない。日中は奥行きも感じないほどの明るさがあり、取りつけられた排気口から湿った空気や滴が落ちている様子が見られたが、夜になるとその独特な空気や空調設備の低い稼働音の中で、どこからか地面へと落ちていく小さな水音にすら気味の悪さを感じた。



 続いた雨がようやく上がった六月十五日。


 新しくオープンしたいくつもの店を目指して、今夜も多くの人間が西大都市の繁華街に集まっていた。各飲食店や大型ショッピングセンターの前には制服を着た店員がおり、騒がしいざわめきと靴音の中、客を呼び込もうと必死に声を張り上げている。



 車の通りも激しく、信号によって数十分置きに渋滞が起こった。そんな車の間を暴走族が走り抜け、けたたましい騒音を撒き散らしていく。通りの中道から男達が身を潜めるように出入りする様子も霞むほど、辺りは賑わいと活気に包まれていた。


 そんな繁華街の大通りには、この西大都の中心を象徴する円状の巨大な交差点があった。通りの正面にある高層ビルには電子時計があり、その下に設置された大きな薄型モニターからは各局のテレビ番組やCMが流れている。交差点を囲むように並んだ建物は円状に向かい合い、巨大な広告塔や電子看板を掲げていた。


 各電子広告やテレビモニターからは、常に音が流れている。しかし、地上のざわめきによって埋もれるため注目される事がない。信号が赤になって車と人間が動きを止めた合間に、その音が耳に聞こえてくるぐらいであった。暇なドライバーや通行人が時々そのモニターを見やるが、興味もなさそうに視線をそらすばかりだ。


「ビールの宣伝が聞こえるなぁ」


 繁華街の活気が、少しばかり流れ込んでくるビル影。そんな小さな呟きが上がったのは、午後十時二十三分の事であった。


 湿った空気と重々しい灰色の壁の間で、質素なブルー交じりのスーツをつけた青年がぼんやりと顔を上げ、肩にかかった埃を払うような仕草をした。


 年はかなり若い。男性にしては少し華奢な体格で、とげとげしさを感じない整った顔立ちをしていた。癖のない髪は薄暗い中透けるような柔らかさで、湿気を含んだ生温かい風に揺れている。


 一見すると平凡な青年にも見えるが、彼の足元にはオーダー一着五十万もするジョン・ロブの黒革靴が覗き、細い左腕にはスイスのブランドである、二百万では到底買えないクストスの自動巻き腕時計がつけられていた。彼が身に付けているスーツも、たった一着で新車バイクが買えるお値段である。


 そんな青年の足元には、柄の悪い男たちが四人、苦痛に歪んだ表情をして転がっていた。暗闇に隠れるように七人の男たちが青年の周りを取り囲み、鉄パイプやナイフを持ったまま身体を強張らせている。


 彼らの顔は、薄暗がりでもはっきりするほど赤かった。青年を睨みつける瞳にあった畏怖は、しばらくすると強い怒りへと塗り変わった。


「てめぇ、どこの組のもんだ!」


 怒号するように、胸元から金色のネックレスを覗かせた男が叫んだ。赤いシャツを腕元までめくり上げた彼の手には、所々凹みが見える鉄パイプが握られている。


 青年は、足元に転がる男の腕を足先でどかし、ごく自然にその顔を彼らへと向けた。月明かりに浮かんだ碧眼に全く悪意は感じなかったが、それを向けられた男たちは震え上がった。いつものように追い払おうと動き出した仲間たちが、一瞬にして叩き伏せられたのを見たからである。


 青年は男たちと目を合わせると、悪意という言葉すら伺えないその顔に、少し困ったような笑みを浮かべた。


「君たちにはなんの恨みもないんだけど、今警察のほうが玉突き事故で忙しいみたいで……代わりに僕が頼まれて…………うん、僕も仕事でね」


 少し高い澄んだアルトの声を聞いて、どこの組の人間だと声を掛けた男が、恐ろしいモノと対峙するように息を呑んだ。身に迫る恐怖を追い払うように雄叫びを上げ、手にしていた鉄パイプを振り上げて青年に襲いかかった。


 その時、青年の懐で携帯電話の着信音が鳴った。一般的な着信コール音と、青年が避けた鉄パイプが地面に当たる甲高い音が、静寂に反響するように広がる。


「はい、もしもし」


 鉄パイプを再び振り上げようとした男の顔面を、軽い動作で蹴り上げながら、青年は携帯電話を耳に当てた。彼の柔らかい髪がふわりと宙を舞い、靴底が硬い地面へそっと戻る。


 青年より一回り大きな男の身体は、細い足から繰り出された蹴りとは思えないほどの強い衝撃を受け、顔の骨を軋ませて吹き飛んでいた。


 鉄パイプを持った男の身体が、大きな音を立てて壁に埋もれるのを合図に、残っていた六人の男たちが弾かれるように動き出した。それぞれ恐怖を噛み潰すように怒号し、武器を持って青年に襲いかかる。


『雪弥、私だが』


 しわがれているような低い声色だが、耳に心地よいテノールの声だった。それを耳にしながら、青年は一番に飛びかかってきた男の手から素早い動きでナイフを払った。その直後に、後ろから突っ込んできた肩幅の広い男の、真っ直ぐに突き出された日本刀をひょいと避けて、「やぁ、父さん。久しぶり」とゆったりとした口調で答える。


 真っ直ぐに突いたはずの日本刀を避けられた男は、「そんな」と狼狽するように顔を強張らせた。一瞬の隙が出来た事を青年は視界の端で察知し、避けた体勢を戻しながら携帯電話を左手に持ち替えた。半歩で間合いを詰めると、男の膨らんだ腹部に自身の拳を打ちこむ。

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