好きだ、好きだと僕は泣いた

百門一新

第1話

 美術室には、午後の穏やかな時間が流れていた。


 冷房機の稼働音が小さく上がっているだけだ。過去最高気温を叩き出した炎天下の中、部活中の少年少女達の賑やかな声も、活気も熱も、防音ガラスの向こうでブツリと途切れている。


 まるで外の世界から切り離されたような熱もない空間だった。数年前に建て替えられたばかりの床は白く、授業が終わるたび片付けられる机と椅子が後ろにはあった。

 ぽっかりと開けた中央には、一人黙々と作業を続ける少年の姿があった。向かっているキャンバスの周りには、絵を描くための道具が置かれている。


 市立K中学校は、申請があればほとんどの部活動が認められた。他校と比べても課外活動が活発な特色があり、顧問と部員がいれば速やかに部室が提供される。ここ二年で新たに設立された部は四つあったが、その内、珍しくも教師から申請があって立ち上げられたものがあった。


 それが只一人の部員――江嶋彼方(えじまかなた)が所属している美術部である。


 彼方は表情も少なく、ちらりと顰め面を浮かべる無関心さが目立つ生徒だった。入学した当初、心配した担任教師が「絵は描きます」と聞いて美術部の顧問となった。美術室を一人で使っていいと言われて以来、材料を持ち込んで黙々と絵を描く日々を過ごしている。


 二年五組の生徒となった現在も、誰にも打ち解けない感じがあった。大人びた物言いで教師達を困らせ、話し掛けると「放っておいてくれ」と言わんばかりの嫌な顔をする。様子を見に時々顔を出す顧問にも、絵が好きなのかと尋ねられれば「別に」の一言だった。


 まだ夏日が続く八月、この日も彼方は美術室にいた。


 椅子に座って絵を描き続ける彼方の目は、ずっとキャンバスへ向いていた。防音ガラスの向こうから時々、乾いたようなホームラン音が上がっても、彼の気を引く事はない。


 夏休み期間であるというのに、彼はきっかり朝九時には登校して美術室に入っていた。お昼休憩が始まると、買ってきた弁当を食べる。午後になると美術部の顧問であり、現在も担任である小野(おの)や数人の教師が顔を出し、普段と変わらず午後七時の下校時刻に学校を出る。


 ちょっと気難しいその生徒は、変化を嫌うように毎日同じ事を繰り返していた。だから教師達も、『今日も変わらない一日になるのだろう』とぼんやり考えていた。


 だが今週に入ってから、美術室には教師以外の人間が何度か踏み込んでいたのだ。美術室は工作室と同じく校舎の端にあり、彼方もいちいち語る事をしないため誰も気付いていない。


 昨日と同じく、美術室の扉が唐突に開け放たれた。


 前触れもない開閉音を聞いた彼方は、これといって反応せず黙々と作業を続けた。今日が金曜日である事をぼんやりと思いながら、鉛筆で下書きを進めていく。


 入って来たのは、涼しげなセーラー服に身を包んだ女子生徒だった。ひょろりとした細身で、背丈は男子生徒の平均である彼方と同じくらいはある。健康そうな小麦色の肌をしていて、二つ結びされた髪が歩みに合わせて上下に揺れて肩に当たっていた。


 彼女は、上機嫌そうに鼻歌をうたいながら扉を閉めた。首からさげている薄型カメラを構えたかと思うと、唐突に彼方をパシャリと撮った。それでも彼は、無視して絵を描き続けている。


 女子生徒は、特に嫌な顔一つせず美術室を歩き出した。制服の左ポケットの上には、部員一人で設立されたばかりの『写真部』と印字された手製の真新しいカードがつけられてあった。


 他の部室だというのに、平気な顔で堂々と手足を振って室内を横断する。膝よりも短い丈のスカートが、その足元でゆらゆらと揺れていた。


 彼女はキャンバスの前を通り過ぎると、窓辺りで一度立ち止まって外に向けてシャッターを切った。それで一旦は満足したのか、くるりと振り返って、パタパタと彼の後ろへと回り込む。


「どうして人ばかり描いているの?」


 その絵を覗き込むと、そう言って「風景は描かないの?」と続けて尋ねた。数日前、写真部設立に伴い挨拶がてら初めてここを訪れた際、スケッチブックを勝手に見てもいた。


 彼方が描く対象は『人』だった。スケッチブックの中には、老若男女を問わず様々な表情をした人々が描かれている。下描きされた鉛筆が上手い具合影や絵の強弱をつけており、水彩画で仕上げられたものは、薄く色づけがされたようなぼんやりとした印象の絵になった。


 その数々の絵は、彼の記憶力がスバ抜けて良い事も示していた。描く際にモデルを置かない。部活の展示用として描いた風景画は、どれも写真を見本にしたのだろうと言われたほどだ。


 彼方は、そこでようやく手を止めた。首だけを動かして写真部の少女を確認すると、また君かと言いたそうに眉根を寄せる。


「君こそ、どうして写真ばかり撮っているのさ」


 つっけんどんに言うと、ふいっと視線をキャンバスへ戻した。一人でいる彼は、いつだって煩わしそうに『これ以上話す事が必要なのかい』と言わんばかりの言い方をする。


 それでも全く気にしない様子で、少女は彼方の視線を追いかけるように向かい側へと回った。再び描き始めた彼を、正面のキャンバス越しに少し眺めてから、肩をすくめて見せる。


「好きだからよ」


 そう言うと、彼方の顔を覗き込んだ。


「あなたは?」


 出会ってから四回目、同じやり取りからの質問だ。彼女自身分かっているのだろう。わざとらしいくらいの、きょとんとした表情で答えを待っている。


 それに気付いた彼方は、手を止めてその女子生徒を見やった。作業を邪魔されているうえ、必要もなく話し掛けられている事に少し苛立ったように眉根を寄せたまま、冷やかに目を細めた。



「描きたいから描いている」



 それ以上の答えが必要かい、と、彼は年齢に不釣り合いな印象のある言葉を続けてから、口を閉じた。


 しばらく一方的に睨み合っていると、少女が納得いかないような顔をして短い息を吐き出した。背筋をぴんと伸ばし、両手を腰に当て「全く」と彼女は声を上げた。


「あなた、四日前からそんな事ばかり言っているじゃない」

「君の方こそ、四日前と同じ質問ばかりじゃないか」


 描きたいからという答えでは、どうして満足しないんだい。何が足りない?


 彼方は鬱陶しそうに一瞥すると、再びスケッチブックに目を戻して手を動かし始めた。

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