第18話

 私達は、それから何度も肌を合わせた。妊娠が発覚するまでの間、二人で子供の名前を考え続けながら、形のない何かを求めるように互いの熱を求め合った。


 ようやくお互いの名前を知ったのは、初めてベッドの中で朝を迎えた時だった。彼女は小難しい、けれど一度見たら忘れる事が出来そうにない珍しい名字をしていて、私は結局、彼女を下の名前で呼ぶ事にした。


 提案者は私であるのだからと、彼女は名前決めに関しては、私に大半を任せるという姿勢を見せた。


 そこで私は、自分の名前の一漢字である「ヨリ」を入れる事にした。そして、二人でいろいろと考えた結果、女性名、男性名の両方が決まった。


 ――そうして季節が冬へと移ろう前に、彼女が妊娠した。


 私達は互いに忙しくなっていたから、時間を見付けて、私の部屋に集まって二人で簡単なお別れ会を行った。彼女は、生まれるまで子供の性別は調べないと嬉しそうに言った。


「どちらか生まれてくるのか、楽しみなの」

「そうか。無事に産まれるといいね」


 私は、彼女の望みに対して協力的だった。もしうまくいかなかったら、いつでも連絡をしてくれて構わないからといって、電話番号を記した紙切れを彼女に手渡した。


 それを受け取った彼女は、強気な笑顔で「大丈夫よ」と答えた。


「私は、もっと強くなるわ。たった一人の、私だけの特別な子が出来るんですもの」


 その後、彼女からは連絡がなかった。恐らくは、無事に産まれたのだろうと私は考え、どうなったのか気掛かりに思う心ごと、彼女との約束を守って蓋をした。


 彼女に関しては、結婚した後に、美容会社の社長となっている事を新聞のコラム記事で知った。女社長とは、実に彼女らしいなと思った。子供について気になったが、知る手だてはなかった。


 小学生、中学生の名前が載った記事には、自然に目を通すようになっていた。珍しい名字で、私の名前の一字が入った小学生男児の名を、学生書道コンテストの一覧に見付けた時は興奮したものだ。


 それから長い月日が経っても、私は自分の名前が入った子供に関しては忘れ難かった。自分の子供達を見つめながら、ふと、彼の歳を思い出しては数えてしまったりした。


 当時の彼女との事は、遠い思い出の向こうにしまって色褪せたはずだった。


 ――だが病室のベッドの上で、私は最近、彼女の事についてよく思い出す。


 亡き両親や、妻や、友人達は私を「ヨリ」と呼んでくれていた。彼女が私を少しでも親しく感じてくれていたのなら、もしかしたら、私の名前のが入ったその息子を「ヨリ」と愛称付けて呼んでいるのではないかと、そんな光景を想像してしまうのだ。


 その名前の中には、確かに私との思い出が生きている。


 他者に無関心な彼女が、そうやって私の事を覚え続けてくれているのなら、どんなに喜ばしいだろうかと、私はそんな事を考えてしまう。


 あの頃は気付かなかったが、私達は子が出来るまで、確かに愛情深く互いが寄り添い合っていた。彼女は、いつだって飽きずに私の顔とホクロを見ていた。


 一目見て決めたのよ、と、出会った時に言った彼女。


 今になって思い返せば、それは簡単な答えがあっての事だったのかと、苦笑せずにはいられない。どこか不器用で、疎くて。そうして私もまた、あの公園で彼女の横顔をずっと見ていたくせに、愛も恋も知らない一人の未熟な男だったのだ。


 もし我が子を愛を込めて「ヨリ」と呼んでいるとしたのなら、彼女にとって私は親愛なる協力者で、そうして初めて情愛を抱いた異性だったのだろう。


 私にとっても、あれが拙い初恋だった。


 産まれた年から数えると、彼は今年で二十八歳になるはずだ。ちょうど、私が彼女と出会った時と同じ年齢だが、一体どんな青年へと成長しているのだろう。


 聞きたい事や話したい事がたくさんあるのに、とうとう動けなくなってしまった私を、どうか許して欲しい。


 彼女と家族を信じて過去と向き合っていれば、もしかしたら私達が全員揃って、言葉を交わせる日もあったのかもしれないと、私は最近、そんな事を夢に見るのだ……。


            ※※※


 手紙の最後は、三人の子供の名前が一つずつあげられて、それぞれに宛てた言葉が綴られていた。


 ヨリは、少しだけ崩れた几帳面な字の全てに目を通し、自分に向けられた言葉の一つずつを読み込んだ。そうして「元気でお過ごしください」としめられた手紙を読み終えた時、声を押し殺して泣いた。


 そこに愛などないと少しでも思えたのなら割り切れたのに、だから自分がここにいるのだと思ったら、最後まで言葉を交わせなかった人を失った悲しみで胸がいっぱいになった。


 自分は、何も思われないまま誕生したわけではなかった。きちんと母に望まれ、父に名の一部を贈られて無事に生まれるといいと願われていた。


 そこには確かに、父と母という二人の拙く不器用な恋があったのだ。


 母にとって特別な人だったのだろう。他人に無関心な母が、その愛称さえも唯一覚え続けていたくらいに。そうして彼女は、その人だったから形を残すように愛し合った。


 ヨリは、生まれて初めて嗚咽が出るほど泣いた。こらえようにも、涙は堰を切ったように溢れて止まってくれなかった。


 父親が恋しかったあの頃の気持ちが蘇って理解した。


 ああ、そうか。僕は父の死を知って、ずっと泣きたかったのだなと、ようやくヨリは気付かされた。


 いつの間にか、再開した大雨が激しく窓ガラスを叩いていた。まるで、この悲しみ語るような土砂降りの音に守られて、彼は一人の男のためだけに咽び泣いた。


 

 きっと、この雨もいずれは上がって、晴れ間をみせるのだろう。


 何事も知らなかった頃には戻れない。でも新しい視線で見る世界は、確かにこれまでよりも開けて美しく見えるのだろうとヨリは思った。


             ◇◇◇

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