第16話

「分からないよ。それは特別に愛せる価値のある人間を、自分で作るということか……?」

「違うわ。自分が腹を痛めて産んで、そうして私の血が流れている。ただ一人、私が無償で愛せる子よ」


 彼女は微笑んだ。まるで、既に子を持った母親のような、深く聡明な眼差しをしていた。


 私は、どうすればいいのかを深く考えた。そうして、話す中で見付けてしまった彼女の寂しさに目を瞑る事が出来なくて、こう提案していた。


「――それなら、まずは話をしよう」

「話し?」

「僕と君は、全く知らない者同士だ。男だからといって、僕はそんな中では君と愛し合う事は出来ない。気に入らないのなら、諦めてくれても構わないよ」


 性行為の知識があるのなら、彼女にも言葉の意味は理解出来るだろうと考えて、私はそう話した。


 彼女は、このままでは身体の関係は難しいらしい、と意味を汲んだようだ。怪訝な表情を浮かべ、ほどなくして思案を終えると「仕方ないわね」と言った。


「男の身体も、意外と面倒なのね。分かったわ。男性である貴方がその気にならないと、私の望みも達成出来ないのなら、まずはあなたの要望通りお喋りでもしましょう」


 ふぅ、と吐息をもらして足を組む。


「意外と初心な男だったのね」


 湖を眺めやった彼女が、つまらなそうに呟いた。


「御覧の通りですよ、期待を裏切ってしまってみたいで、すみませんね」


 私は、ひそかな仕返しで、嫌味たっぷりにそう言い返した。


 それから私達は、今後について話し合った。彼女が話しをする条件に提示してきたのは、いつでも行為に及べるような場所でする事だった。


 私は色々と言いたい事が起こったが、その間に気も変わるだろうと考え、仕方なく彼女に、私が暮らしている部屋の場所を教えてやった。


「交渉は、平等で公正なものにすべきよね」

「また、いきなりだな。今度は何か……?」


 きっちり地図まで書かされてしまった私は、疲れ切って腰を上げたところでそう言われて、余力もないまま警戒を浮かべた。


「私は、話す場所としてあなたに条件を一つ出したわ。だから、一つだけあたなの条件を聞いてあげる。考えておいてちょうだい」


 利口な彼女は、そう言って去っていった。




 それから、私と彼女の妙な交流が始まった。互いに自己紹介もしないまま、私が仕事を終えて帰宅すると彼女がやってきて、二人でベッドに座って話しをする。


 この話し合いの場所を決めたのは、彼女の方だ。私はベッドの上に座るのはちょっとなぁ……と思ったのだが、座布団の上での対話は断固拒否されてしまった。


 とはいえ、どうやら彼女は交際経験がないらしい。私の部屋に上がってベッドに座って会話し、腹が減れば、私か彼女で夕飯を用意す。そうして私は、いつも夜が遅くなる前に早々に彼女を帰したが、これといって疑問をぶつけられなかった事には安堵した。


 部屋は狭かったが、生徒に勉強用として提供したり泊まらせた事もあったから、私は彼女と二人きりになったとしても妙な気は起こさなかった。


 若い美女と二人きりの状況であるし、多分、私の方が男としておかしいのかもしれない。話すようになってからは、彼女が一生徒のように思えて欲情は覚えなかった。


 ――多分、情が湧いたのだろう。


 そんな日々に慣れた彼女が、部屋でリラックスする様子を受け入れている自分がいた。「こういうのも悪くないわね」と言い、少しずつ自分の事を話し聞かせてくれるようになった事に、私は小さな喜びも感じていた。


「そう。あなた、家族がいないのね。私の両親は生きているけれど、向こうがそうであるように、私も愛していないわ。親戚共々醜い争いが絶えないの。いっそ清々しく自滅してくれればいいのにね」


 交流するようになって気付いたのは、彼女は自分の家庭事情も平気な顔で辛辣に語る事だった。私が驚くと、彼女は実に不思議そうにこう言うのだ。


「辛い話だと思うの? おかしな人ねぇ。私達の家では、自分の身は、自分で守らないと生きていけないの。おかげで、私は外で苦労した事はないわ。とくに、私を殺そうと躍起になっていた二番目のお母さんには、感謝しなければね」


 彼女の味覚に障害がある事を知ったのは、そんな生活がしばらく続いてからだった。本当に美味いという料理以外、全く味がしなくなっているのだという。


 母の手料理や、兄弟に誘われて食べた低価格の食事に毒をもられた事が要因らしいが、はっきりとした病名は分かっていないらしい。彼女は「生活に不便はないから」と、病院の世話も受けていないと語って私を驚かせた。


 私達は、当たり障りなく言葉を交わし、そうして時折り、個人的な事をぽつりぽつりと語る毎日を過ごした。


 性行為の経験がない彼女には、私という男が、いつ「作業」に取り掛かれるようになるのかが予測出来ないようだった。「互いの事を知ってからじゃないと出来ないもの」と、当初私が適当に説明した事を信じたのか、自分から無理に迫ってくる事もなかった。


 実のところ、交流が始まってしばらくは、意思の強い彼女に押し倒される日が来るのではないか、と危惧していた。


 私も男であるから、綺麗な顔で迫られれば行為に及ぶのは簡単だろう。けれど、そうされたなら、初めての女性に対して、優しく愛情深く抱いてやれる自信はなかった。


 ――だが、それはただの杞憂に終わった。


 私達は清い関係のまま、結局何事にも発展せずに三ヶ月を過ごした。けれど大学で彼女の噂を聞くたび、耳を済ませるようになっている自分がいた。


 若い男達の冗談めいた妄想話を聞けば、落ち着けない気持ちで就業まで過ごした。恋人のいないらしい噂の美女を勝ち取るためには、誰かが彼女と寝る方が早いのではないか、と――そんな下らない話題を出している男子学生達を叱りたくなった。


 これは嫉妬からくる焦りではなく、私が抱えている気持ちはきっと愛とも違う。


 私は自分に言い聞かせた。だって私は一人の教師として、そうして彼女が信頼した友人として、彼女を寂しさや孤独から守りたいと思うようになっていたから。

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