第9話

「なんだか初対面みたいな反応だなぁ」


 二人の自己紹介が済んだところで、眺めていた佐藤がグラスを片手に肘をついた。


「佐藤さん、僕らは、さっきの席が初対面ですよ」

「こうさ、ぱーっと打ち解けるとかさ」

「あんたの場合、初対面の時から距離感がおかしかったですよ」


 自分のグラスへ目を戻した拓実が、ぶすっとした顔で口を挟んだ。


 そんな事も関係ないし、佐藤が酒をやりながら世間話を始めた。主に会社内の人物や女性の件についてだ。話す彼は陽気で、それが成功した悪戯や思い出話へとに及ぶと、自然と酒の量も増えた。


 ヨリが諦めて見守っていると、佐藤はどんどん喋り続けてハイペースで飲んだ。その結果、一時間もせずに、ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべる絡み酒になった。


「おいおい拓実ちやんよぉ。お前、童貞じゃないんなら分かるだろうが、俺の悩みだって」

「あんた、飲むペースが増してからずっと、下ネタばっかりぶっこんでくるんじゃねぇよ!」

「なんだよ、男なら下ネタ大好きだろうがよ。なぁ、ヨリ?」


 こうなった佐藤は、少しだけ面倒な男になる。ヨリは、自分と彼との間に挟んだ拓実に任せるように冷静を保ちつつ、目も向けずにひとまず言う。


「佐藤さん、頼みますから、僕に下ネタの話を振らないでください。鉄拳を見舞いして、この場で沈めますよ」


 ひやっとした冷気を感じたのか、「え」と拓実がヨリの横顔を目に留めた。少し、佐藤が言葉を詰まらせる。


「うーん……お前だったら、本当にやってのけそうで怖いんだよな。そういやこの前の打ち上げの時も、俺、最後の記憶がプッツリ途切れてんだよね。あれはお前の仕業だって課長が言っていたけど、それってマジなの?」

「総務の子が迷惑がっていたので、課長の許可を得て、後輩である僕が責任を持って、先輩である佐藤さんを大人しくさせました」

「なるほど。けど、今沈められたら、俺の楽しみが減っちまうしな。うーむ、困ったもんだぜ」


 ヨリは幼少期から高校在学中まで、母親が推薦した複数の道場に通っていた。会社の行事などでひったくりや強盗犯と遭遇し、その場で犯人を沈めた実績もある。


 妙な特技だと周りからは言われるが、ヨリにとっては一般的な自己防衛術だ。そんな無自覚な格闘家を前に、佐藤が溜息をこぼして拓実に寄りかかった。


「あーあ、お前が女だったら大好物な反応だったのになぁ。そしたら、いろいろ楽しかっただろうに」

「ひぃッ、俺に近寄るんじゃねぇ!」


 佐藤が面白がって、逃げ腰の拓実の肩に腕を回し、夜間に伸び始めた髭面を彼の頬に押し当てた。拓実は「気持ち悪い」「じょりじょりする」と嫌悪感丸出しで訴える。


 面倒な酔っ払い方である。そういう初々しい過剰反応が楽しいのだろう。ヨリは新入社員だった頃、クールな態度で技をかけて彼を抑え込んだのを思い出した。


 するとマスターが、鉄壁の無表情のままヨリにそっと提案した。

「佐藤様、随分酔い始めているようですが、私が沈めましょうか」


 ヨリは丁寧に断った。本心か冗談か測りかねたというのもあるが、ヨリが知っている佐藤という男は、相手が本気で嫌な事はしないと知っているせいだ。


 とはいえ、今日の佐藤の、まるで一升瓶を続けて何本も空けてしまったかのようなテンションの高さは気になった。


「マスター、彼に度の強いお酒をあげたんですか?」

「いいえ、いつも飲まれるものだけです」


 ヨリとマスターがそうやりとりするそばから、佐藤が突然「俺は酔ってません!」と言った。彼の腕に半ば首を締め上げられている拓実が、それに抵抗しつつ反論する。


「嘘だ! あんた絶対酔っぱらってるって! 素面でこんな非常識な大人、見た事ねぇよ!」

「男は何年経っても遊び心を忘れないもんなんだよ~。なっ、ヨリ?」

「遊び心が分からない僕に、話を振らないで欲しいですね」


 ヨリは、疑い深く佐藤の目を見た。そこにはちゃんと彼自身の意思が感じられて、記憶にある泥酔しきった様子にはあてはまらない気がした。


 不意に、拓実越しに目を合わせていた佐藤が、歯を見せて笑った。まるで可愛い弟の成長を喜ぶような顔にも感じて、ヨリはつい尋ねるべく開きかけた口を閉じた。


「十年は長生きしてる先輩の勘ってやつさ。何があるのかは知らねぇけど、ついつい世話を焼きたくなっちまうんだーーさて、と。中年は明日のためにも先に帰るかな」


 佐藤が前置きのようにそう言って、素直に拓実から手を離した。


「俺みたいに、四十も近くなったおじさんになると、体力がもたなくて大変なんだよ。あとは若い者同士で楽しんでくれ。マスター、今の分までの料金は俺が払うから、こいつらにもう一杯ずつ出してやってくれないか?」

「かしこまりました」


 佐藤は一方的に告げたかと思うと、カウンターの奥にあるレジでさっさと支払を済ませ、そのまま帰るべく歩き出してしまう。


 ヨリは半ば呆気に取られていた。ハッと我に返って、慌てて佐藤の背に呼びかけた。


「佐藤さん、待ってください。本当に帰ってしまうんですか?」

「お前が休んでいる分、先輩として俺も頑張らなきゃならねぇからな。城嶋ちゃんも武藤君も、『ヨリさん早く戻ってきて』なんて泣きごと言うし、今の内に尻を叩いて伸ばしてやろうと思って」


 面倒見のいい佐藤らしい台詞だった。彼は、立ち上がりかけたヨリを「いいから、いいから」と席に戻すと、最後に手を振って「またな」と陽気に店を出ていった。


 残されたヨリと拓実は、締められたドアを唖然と見つめていた。


 好き勝手な自由人、佐藤がいなくなってしまうと、途端に場は落ち着きを取り戻したかのようだった。二人のグラスを、マスターが佐藤に言われた通り新しものに取り換える。


「……本当に帰っちゃいましたね、あの人」

「……佐藤さんは、昔からそういうところがあるからなぁ」


 困った。ヨリは、どうしたもんかと悩んだものの、拓実に社交辞令のように「お疲れ様です」とグラスを向けられた。お互い、ぎこちなく笑って新しいグラスを口許で傾けた。


 会話が途切れた店内に、ピアノのクラシック音楽が穏やかに響いていた。ハイペースでんでいた客がいなくなった事で、マスターがワイングラスを磨き始める。

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