第7話

 ほどなくして外に出てみると、雨は日中より強くなっていた。


 ヨリは傘を差すと、ズボンの裾を濡らしながら歩いた。道路を走っている車の走行音が、道路の雨水をはねて多い通行人の雑踏をかき消している。


 しばらく歩くと、雨降りの中で明かりの灯った小さな看板が見えた。そこが例のいきつけの居酒屋の一つだった。昼間はランチメニューも出していて、初老の店主と中年の女性店員がメインで、若い数人のスタッフと共に切り盛りしている。


「佐藤で予約していると思うのですが」


 入店し、カウンターでそう告げると、見慣れた初老の店主が気付いて柔和な笑みを浮かべてきた。


「佐藤様でしたら、個室の三番のお席ですよ、どうぞ」


 そう口頭で案内され、ヨリは店内を進んだ。


 個室席は、全て和室の座席となっている。奥へと向かって三番の札がかかった戸を開けてみると、既に佐藤が、若い青年を隣に置いて入室していた。


 佐藤は、大盛りのカツ丼を食べているところだった。隣の青年は俯きがちに、黙々と唐揚げ定食をつついている。彼は露骨にブルー一色といった雰囲気が出ているのだが、今回の発案者である佐藤の表情は実に楽しげだ。


 彼はヨリに気付くなり、箸を持った方の手を上げて応えた。


「よぉ、ヨリ。先に食ってるぜ」

「はぁ、お疲れ様です」


 入室と同時に、若いアルバイト店員がやってきてお冷を渡され、ついでにヨリは海鮮丼を注文した。


 ――それにしても、まさか彼を連れてくるとは。


 ヨリは普段の表情の下で、少なからず驚いてもいた。水で喉を潤した後、改めて目を向けてみれば、佐藤の隣にいるのはやはり有澤拓実本人だった。


 カフェ店で働いている茉莉の弟、拓実。


 少し癖のある短い髪、茉莉と同じ日焼けとは縁のない白い肌。着ているスーツはブルー混じりの清楚なもので、幅に若干余裕がある。


 探偵会社から手渡された報告書で写真は見たが、実物はやや華奢で幼い印象があった。まさか、こんなところで彼女の弟の顔を拝める事になろうとは予想外だ。


 佐藤はヨリの父親の件は知らないので、偶然にもこの青年を連れてくる事になった経緯が気になった。


 けれど、彼が誰かを連れてくるのは珍しくもない。ひとまずヨリは、相当腹が減っていたらしい佐藤の豪快な食べっぷりを眺めながら、いつも通りまずは商品の到着を待った。


 拓実は、ヨリが入室した際にチラリと視線は向けてきたものの、それ以降は美味しくもなさそうに唐揚げ定食を引き続き食べていた。自己紹介をする様子もないので、望んでこの食事会に参加した訳ではないのだろう事が窺えた。


 しばらくもしないうちに、ヨリが注文した商品が到着した。


 食べ始めて数分後、自由な男、佐藤がカツ丼を完食して「ごちそうさん!」と元気に言った。その一旦満足した朗らかな横顔を、拓実が恨めし気に睨見つける。


 ――そもそも、この二人は面識があったのか?


 ふと、今更のようにそんな事を思った。すると、ヨリが一瞬だけ箸を止めた時、腹が満たされて姿勢を楽にした佐藤が、思い出したようにこう言った。


「こいつ、システム会社の、若手の有澤拓実君。昨日、須藤さんとウチの会社に来てさ。昨日は社長も交えて、須藤さん達と飲んだんだぜ」

「つまり佐藤さんは、出会い頭に彼を気に入って意気投合した、と?」


 元々、佐藤が社交性の広い男であるのを考えて、ヨリは箸を片手に尋ねた。


 すると、拓実の方から小さな舌打ちが上がった。結構怨恨が混じった舌打ちだったように思えて、ヨリは目を向けた。佐藤も隣から彼を見るが、一向に視線は合わされない。


「……佐藤さん、あなた、なんか彼に嫌われてません?」

「ははは。お前が指摘した通り、出会ったその日に意気投合しちゃったのさ」


 その途端、定食をまだ半分も食べきれていない拓実が、勢い良く顔を上げて「違いますッ」と真っ向から佐藤の言葉を否定した。


「無理やり絡まれて、押し切られたんです!」

「でも、俺は昨日ちゃんと予告しておいただろ? 今日飲むから、予定いれとけよってお前に事前に教えたじゃん」


 心の準備だろうが一日あれば十分だろ、というニュアンスで佐藤は言う。


 どうやら、昨日上司達を交えて飲んだというだけで、ほぼ初対面のようなものであるらしい。いったい何がどうやったら、今回の面子での食事会に繋がるのだろうか。


 ヨリがそう考えていると、佐藤がこちらを見た。


「ほら、昨日電話で話したろ。お前の事を訊いてきたって男が、こいつなんだわ」


 とすると、この青年が発言した際の雰囲気かニュアンスが、佐藤の好奇心をくすぐったというところなのだろう。


 まさか半分血の繋がりのある人間だとは知らない状況で、己の楽しみをひたすら追求した結果、このような偶然を生み出した佐藤には恐れ入る。


 ヨリが考えつつ視線を向けると、佐藤の発言に対して問われていると受け取ったのか、拓実が罰が悪そうに目をそらした。


「その、大事な取り引き相手だって、うちの会社でも名前が上がってたんで、どんな人か気になっただけですよ。あなたからの連絡って、全部社長とか課長とか、システム課のリーダーが担当していますし」

「という事は、これまでヨリる事は知らなかったのか? 全然?」


 佐藤が、アルバイト店員が運んできたビールを受け取り、それぞれの前に置きながら口挟んだ。


「俺は、電話とかメールの対応業務には関わっていませんから。担当者がいない時、一度だけ受け取った電話の相手が彼で、先輩に教えてもらったというか……」

「え。お前、ヨリの声に聞き惚れてそっちの道に踏み外し――」

「違います! 何を考えているんですか!」


 拓実が、過剰反応して顔を真っ赤に抗議した。


 対する佐藤が、そんな怒鳴り声なんてかゆくもないと言わんばかりに、残念そうな溜息をもらしてビールジョッキを持った。

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