第5話
本人から語られる最期の別れは、長々と続いた。ようやく終わりを迎えたが、とうとう、そこにヨリの名は出てこなかった。
もとより、自分の存在はないも同然なのだ。父親となったその男だって、こうして生まれて育っている事さえ知らないのだから、当然なのだろう。
――でも、と、ヨリは男と自分の関係を思った。
昔、父親の存在が気になっていた頃、母にお願いして会いに行っていたとしたのなら、この結果は変わったのだろうか?
この男が、ただ血を分けてくれただけの赤の他人だとは分かっている。あの当時、ヨリも自分の家庭を、他の家庭と比べる事をやめて同年代の誰よりも早く大人になった。
それでは今、感じているこの感じはなんだろう?
ヨリは、男に名前を呼ばれなかった事に、落胆に似た胸の静まりを覚えていた。
夢の中の男が、手紙を閉じた。会場の前列で顔を伏せていた若い女が、自身の白い手で顔を覆い隠しながら、とうとう大きな声でさめざめと泣いた。
「私も愛しているわ、お父さん」
聞き覚えのある声だった。ああ、彼女は茉莉だと、ヨリはここにきて気付いた。それでは彼女の隣に腰かけ、その肩を抱きながら腕を震わせているのは「弟」の方か。
――けれど、仕方ないじゃないか。
ヨリはここにきて、ようやく今の自分を、少しだけ分かった気がした。それが知らない赤の他人だとしても、死んだその男が、血を分けてくれた父親である事にかわりはない。
たとえ、父親本人も、世界中の誰が知らなくとも、ヨリは彼の名前を胸に刻みつけて忘れられないでいるのだ。
血のつながりとは、結局、そういうものなのだろうと思った。
◇◇◇
妙な夢を見た翌日も、窓の外は変わらず雨景色が続いていた。激しさは少し和らいで、雨粒が一定の速度でもって窓を叩いて濡らしている。
こうも雨が続くと、部屋干しにも限度を覚えた。ヨリは乾燥機を利用する事を決め、濡れた服の入った袋を持つと、一階に設置されているコインランドリーへと向かった。
エレベーターで一階へと降りた時、二年前からよく見かけるようになった金髪の若い男とあった。金のチェーン・ネックレスが白い肌に映える美男子だ。
「おはようございます」
その男は、いつも愛想良く挨拶する。いつも早朝一番に帰ってくる彼は、派手なスーツに女物の強い香水の匂いと、ウイスキーのような甘ったるい酒の香りをまとわせていた。
ヨリも、条件反射のように「おはようございます」と言葉を返した。いつもならそこで終わるので通り過ぎようとしたら、そのまま男が足を止めてきた。
「洗濯物ですか? 雨が続くと、大変ですよね」
持っている袋へと指を向けられ、そう言われた。
「そうですね。スーツはクリーニングに出せても、こればかりは」
「俺、大半はクリーニングに世話になるような服ばかりで、店の方で対応してくれるので有難いんですけど、少ない部屋着にしてもこう雨が続くと大変ですよ。部屋に干すと妙な匂いがするから」
「柔軟剤と消臭スプレーを使っても、あの匂いはなかなか取れませんからね」
ヨリが同意してうんうんと頷くと、男が思い出したように小首を傾げた。
「そういえば、今日はスーツじゃないんですね。お休みですか?」
「有給休暇中なんです」
いつも擦れ違い際は、お互いスーツのことが多かった。よく見ているんだなと、ヨリはそんな事を考えてしまう。
すると若いその男が、どこかおかしそうに笑った。整った顔に浮かんだ微笑は、格好つけて颯爽と歩く姿からは想像出来ないほど、どこか若々しさを感じさせるものだった。
「会社勤めかぁ、いいですね。朝が早いのは厳しいけど、週末は休みだし有給もある。でも、まっ、俺はこの仕事があるからなぁ」
男は、残念そうでもなくそう呟いた。根っからの接客向けの性格をしているのか、スムーズに次の言葉を切り出してヨリに言う。
「足を止めさせて、すみません。今日はつい、話しが続いてしまって」
「いえ。僕の方こそ、なんだかすみません」
ヨリが、慌てて会釈を返すと、彼が自然体な感じで笑った。
「いやいや、話せてよかったです。俺、あなたと挨拶するのは嫌いじゃないですから」
彼はそう告げると、慣れたように手を振ってエレベーターに乗っていった。
顔を見かけたら、今後も引き続き挨拶してくれるという事だろうか。迷惑ではないかな、とか、たまにチラリと考えてしまったりしていたもいた。
「まぁ……それならそれで、いいのか」
ヨリは、彼に対して少しだけ肩が軽くなるのを感じつつ、目的の場所へと足を進めた。
一階にあるコインランドリー室には、他の人の姿はなかった。彼が洗濯物の仕上がりを待っている間に、スーツや学生服の人がまばらに扉前を通り過ぎて外へ出ていった。
外の雨は、変わらずやむ気配がなかった。時刻は午前七時を過ぎていたが、夕暮れ時のようにどんよりと薄暗かった。
乾いた洗濯物を持って、部屋へと戻った。
家事を済ませた後、外に出る気も起こらず、読んでいなかった推理小説を持ってリビングのソファに腰を下ろした。
書斎机に置いてある、例の報告書の存在がまた脳裏を過ぎった。新たな興味などは出ておらず、一度目を通した内容を、再び確認するような好奇心はわかない。
「…………僕は、いったい何をやっているんだろうか」
何度目か分からない呟きが、ふっと込み上げた。
見知らぬ人間に調べられているのは、決して気持ちのいいものではないだろう。そこを理解していながら、ヨリは探偵会社を利用してしまっていた。
――よし。あれは、もう捨ててしまおう。
昨日、見かけた茉莉の姿を思い起こした途端、ヨリはそう思い立った。本を閉じて自室へ向かうと、机の上の報告書を手に取った。
一応は個人情報だ。シュレッダーはなかったので、ハサミで細かく切っていく事にした。父親である男の名前ものった報告書は、はらり、はらりと紙くずとなってゴミ箱に落ちていった。
今の自分に、多くの時間がある事を考えると、いよいよ何かをやる気になれなかった。読書にも気が向かず、テレビを付けて適当なチャンネルで番組を流し見た。
やがて、会社で耳にした名前のドラマが始まった。男女の恋愛が絡んでとくに人気であるらしい、とは聞いていたが、とくに胸に響いてくるものはなかった。
――自分の母はどうだっただろうかと、なんとなく考えさせられた。
ヨリが知る限り、彼女はテレビの中の女性のような「青春」や「恋愛感」のイメージはなかった。物心付いた頃には女社長をやっていて、家で会社の愚痴や弱音をこぼす事は一切なかったし、昔から合理的な理由以外にあまり他者へ関心を示さなかった。
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