この結婚は真っ白につき〜黒い噂が付き纏う伯爵の不在〜

江藤 樹里

第1話 落ち目の伯爵令嬢は黒い噂の絶えない伯爵家へ嫁ぐ


 我が家は傾いていた。それはもう、見ていられないほどに。


「それを立て直すのは確かに私だと思ってはいたけど……」


 結婚。こんな形で解消されるとは思っていなかった。私が育てた薬草、私が育てた珍しい花、そういうのが良い意味で注目されるか、あくせく働きに出て、とばかり思っていたのに。


 私は迎えの馬車を待たせながら十七年間住んだ生家を目に焼き付けた。荷物は先に運んでる。とはいえ、私の荷物なんてほとんどない。持参金だってない。


 何も要らない、と言われた。どうしてそう言ってくれたのかは判らない。訊ける相手かも判らない。


 そもそも、私で良い理由も判らない。


「ジゼル、そろそろ出発するよ」


「はい、お父様」


 後ろから声をかけられて、私は振り返る。ふわり、とその拍子に風に乗って舞い上がった右側の前髪を慌てて片手で押さえた。視界を黒髪が覆う。左目が見えているから歩くのには支障ない。


 足を出して馬車に乗り込んだ。ヴリュメール伯爵家の出してくれた馬車は両親と私が乗り込んでも余裕があるほど大きい。我が家はもう馬車を出すほどの余裕もないからありがたい。


 我が家の傾き具合を知っているヴリュメール伯爵が一応は世間体を気にしてくれた、と私は思うことにした。そんなことを気にする人なのかは疑わしいけれど、花嫁が徒歩でお屋敷に訪れたら流石にひっくり返ってしまうかもしれない。


 私は今日、顔も知らない伯爵と結婚する。


 我が家だって一応は伯爵家だ。目も当てられないほど傾いていて爵位返上の危機に瀕しているけれど。


「ジゼル……すまない……すまないな……」


 乗り込んだ馬車、ガラガラと回る車輪の音が聞こえる中で父がぽつりと言葉を零す。悔恨を滲ませたその声に、私は首を振って微笑んだ。


「お父様、大丈夫。気にしないで。私なら大丈夫」


 根拠なんてないけれど、大丈夫としか言えない。こうするしかないのは私にも解るし、嫌だなんて言える立場でもない。


 私は両親が私財を投げ打ち何とか立て直そうとした姿を知っている。私が趣味で育てた薬草販売で起死回生を試みたことも。


 それでもダメだった。ソルシエールの薬草なんて、と不気味がられたらしい。両親は必死に隠そうとしたけれど私は全部知っている。共同出資者の人が我が家でそう叫んでいたし、その全責任を我が家が負わされたことも合わせて叫んでいたから。


 これはいよいよのんびり薬草なんて育てている場合ではない。私も勇気を出して何か仕事を……と考えていた矢先、ヴリュメール家との婚姻が纏まった、と聞かされた。資金援助もしてくれると言うから両親が路頭に迷うことはない。それなら、と私は頷いたのだ。元々私に拒否権はないのだから。むしろ私のような者を迎え入れるなんてどんな物好きだろうと思う。


 でもまぁ、ヴリュメール伯爵だし、とも思えば妙に納得した。黒い噂の絶えない伯爵と、落ち目の不気味な伯爵令嬢。変人同士お似合いだ。私でもそう思う。


 曰く、伯爵は奴隷商人のお得意様なのだとか。


 曰く、幼い子どもの奴隷を買っては屋敷の地下で手足を切り刻んでいるらしい。


 火のないところに煙は立たないもので、実際に幼い子どもを奴隷商人から買うところを見た人がいたり、子どもを乗せた馬車が屋敷に向かったところを見た人がいたりする。それさえ私は人伝に、主に両親がそう話しているのを聞いたことがある程度だけれど。でも、ヴリュメール家は、“そういう家”だ。


 大昔の戦で大層な功績を残し、伯爵の位を賜ったと聞く。多くの敵をほふり、血を浴びた。自らが流した血はほとんどなく、目の前の死に眉ひとつ動かさない。その強さはさながら竜、悪しき邪竜と称された──らしい。離れた領地を治める人だし知らない相手だ。尾鰭も多分についている伝説とは思うけれど、それでも先祖にそういう武勇を残す人がいるだけでそういう家系だと思われる。


 ただそれは、ソルシエール家も同じだ。


 馬車は一日中走り、ヴリュメール伯爵邸へ辿り着いた。陽はとうに暮れているし馬車に揺られて私たちは草臥くたびれてもいるけれど、着いて早々に小さな結婚式を挙げる。お互い呼びたい親戚も友人もいない。けれど夫婦になるために必要な儀式ではあるから、最低限のことだけの、形式的なものだった。


「ジゼルと申します。よろしくお願いします」


 伯爵邸の物静かな使用人と母に手伝ってもらって、母が自分の結婚式で着たドレスを纏った。蝋燭の灯りがゆらめく庭はある種幻想的とも言えるかもしれない。招待客のいない、ともすれば両親が招待客として扱われているのかもしれない、パーティーとも呼べない食事会。其処で父が私を頼むと伯爵に挨拶し、私もおずおずと自己紹介をした。


 春の終わり、夏が始まるにはまだ少し冷える夜に挙げる結婚式の何と肌寒いことか。袖の長いドレスだけど首元は冷たい風に撫でられている。おまけに初めて顔を合わせた伯爵その人はにこりとも笑わない。空気も場も冷えて、両親が何とか愛想良く笑っているのが不憫に見えるほどだった。


「……あぁ」


 それだけ。たったそれだけ。名乗りもしない。よろしくもない。およそ人間関係を築く気など微塵もないことが窺われる対応に、私は内心で溜息を吐いた。本当にこんな人が両親に資金援助なんてしてくれるのだろうか。とはいえ私も人のことは言えないし、この人に縋るしか今はないから私は表情に出さないように気をつけたのだった。

 

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