第2話 私の捨て猫だ

 身を低くしたまま、私は少しだけ顔を出して例の女を待った。


 私はまだ小さい身だが、馬鹿ではない。まだ人間の子供たちが通りにいるのに、空腹だからといって姿を晒してメシを要求するなどといった危険はしない。


「隣の八百屋さんから猫缶をもらったのよ。さぁ、お食べ」


 通りが落ち着き出した頃、女がやってきて私の前にふたの開けられた缶を置いた。初めて見るものだった。昼間食べたものよりも、とても美味しそうな匂いが漂ってくる。


 私は警戒しながらも、その匂いに誘われて足早に近づいた。


 口にして驚いた。すごく美味い。


 女がしゃがんでこちらを見つめる中、私はそれをガツガツと食らって口の中に押し込んだ。口の周りにたくさん食べ物が飛び散ったが、まるで気にしなかった。


 食べられる時には食べるのが鉄則だ。またしばらくは食事が出来ないのだから、今、たくさん胃に詰め込んでおいた方がいい。顔がご飯で汚れてしまおうと、あとで綺麗に拭けばいいのだ。問題ない。


 その時、女の後ろを通り過ぎようとしていた一人の男が、ふと歩みを止めてこちらを見たのに気付いた。私は一旦、食べるのを止めて、警戒するようにそちらを睨んだ。


 そこにいたのは、サイズの合わないくすんだスーツに身を包んだ眼鏡の男だった。中の白いシャツはよれよれでズボンの外に出ており、ネクタイはなく、襟のボタンは少し開いている。手には茶色い封筒と、幅の薄い革の鞄を持っていた。


 私と男の間には、例の女がいる。女がそこにいる限り、害をなそうとする者は近づけないだろう。ひとまずそう考えて、私は食事を再開した。


「こんにちは」


 すると、男が女に声を掛けた。少し驚いたように振り返った女が、すぐにふっくらとした顔の皺を緩めて微笑んだ。


「あら、伊藤いとうさん。今日は出版社に?」

「はい、原稿をね」


 伊藤と呼ばれた男は、そう答えてはにかむように笑った。


 人間の男にしては、少し高めの穏やかな響きがある声をしていた。私は缶詰の底にある食べ物を胃に詰めるべく、そこに顔を埋めつつも耳を澄ませる。


「可愛い黒猫ですね」


 男が言う声が聞こえてすぐ、女が私の方へと向き直る気配がした。


「そうなのよ、尻尾の先まで真っ黒で可愛い子なんだけど、なかなか貰い手が見つからなくてねぇ」

「……捨て猫、なんですか?」


 悪いことをしたわけでもないのに、男が反省するような声で問う。


 私は、早く全部食べてしまわなければと、缶の底の周りに残ったものを舐めるようにして口に運んだ。


「二週間くらい前からいるのよ。この通りに一匹ずつ捨てられていて、この黒猫以外は引き取り手が見つかったんだけど……きっと、飼っていた母猫が子を生んでしまって、育てきれなくなって捨てたとは思うのだけれど。ひどい事するわよねぇ」

「そう言えば、八百屋のおじさんが最近、猫を飼い始めたと言っていましたね」

「ええ、そうなのよ。山田さんのところは一軒家だから、自分で飼う事にしたんですって。私のところでもそうしたかったのだけれど、うちは犬がいるからねぇ……」


 話を聞いていた私は、自分には兄弟たちがいて、同じように捨てられたようだと理解した。どうやら彼らの方は、みな安全で暖かい家を見つけられたらしい。


 これまで存在だって考えたことはないのに、私は顔も知らない兄弟たちの幸せを知って、自分が安堵しているのを感じた。缶の中を綺麗に舐めながら、同じ母親から生まれ落ちたらしい彼らが、食べるのも寝るのも困らなければいいと不思議な思いを抱いた。


 どうやら冷めた私にも、まだそういった感情は残されていたらしい。


 ああ、貰われたのが私でなくて本当に良かった、と思った。


 満腹になった私は、最後の一つまで残さず食べきると、缶詰から顔を上げて顔についた食べ屑を手と舌で舐め取った。すると女が、軽く私の頭に触れてきた。


「おチビさん、美味しかった?」


 触れられるのは嫌いだったが、食事を与えられた礼のかわりにそれぐらいは良いだろう。穏やかな声で尋ねられた私は、抵抗しないことを決めて、素直に美味かったとだけ答えた。


 人間の女には、愛想もない「ニャ」という声に聞こえただろう。


 残念ながら私には、愛嬌というものがないのだから仕方がない。


「ミルクは卒業しているんですね」


 まだそこに立っていた男が、女の後ろから、私の方をずいっと見下ろしてそう言った。


「ええ、そうみたい。山田さんの奥さんも、それで飼うことにしたと言っていたわ。ほら、ミルクのままだと少し難しいでしょう?」

「まぁ猫用の哺乳瓶であげなければいけませんからね。それにトイレもまだ自分で出来ない仔だった場合は、お尻をティッシュでポンポンと叩いて排泄を手伝ってやらないといけない」

「あら? 伊藤さん、猫を飼った経験があるの?」

「結婚する前に、妹が子猫を拾ってきたことがあったんですよ。ちょうど大学の長期休暇の間だったので、結局はほとんどを僕が面倒見ていたんです」

「そうだったのねぇ」


 女がちょっと意外そうに感想して、それから、「よっこいしょ」と言って立ち上がった。


 大きな人間が動く気配を敏感に察知して、私はゴミ袋の間に引っ込んだ。身を低くして様子を窺ってみると、女は「それじゃあ、また」と挨拶をし、男が軽く会釈して去っていく女の後ろ姿を見送った。


 一人と一匹が残された時、ふっと男が私の方を向いた。


 私は警戒して息を殺し、これ以上近づくなよ去れ人間、と睨み据えた。そうしたら男の眼鏡の奥の優しげな瞳が、少しだけ切なさそうに細められた。



「またね」



 またね、も何もないぞ、人間。


 私は素っ気なく答えて、ゴミ袋の後ろへ向いて丸くなった。


 私は、そもそも人間が嫌いだ。

 お前の優越感を満たす何かになるつもりはないし、オモチャになるのもごめんだと、私はそう思いながら目を閉じた。

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