第2話-1

「ほら、喉がかわいただろう」


 一時間後、リオネルが持ってきたのは温めたミルクだ。このあたりは牛もヤギもいないだけに、ミルクはとんでもない贅沢品だ。


「熱を出しているときくらい、いいものを口にしておけって。それでなくてもおまえはこの行軍における一番の功労者なんだから」

「……ありがとう。いただくわ」


 泣きすぎて真っ赤にれた目元を恥じてうつむきがちになりながらも、ミーティアは両手でカップを受け取った。


「……とても美味しいわ。香りだけでほっとできる」

「ミルクってそういうもんだよな。おれもガキの頃は熱を出すたびによく飲んでいたよ」

「あなたが……?」


 ミーティアはかすかな驚きに目をまたたかせた。


「意外かもしれないが、これでも子供の頃は身体が弱かったんだ。喘息ぜんそく持ちで、しょっちゅう倒れててさ。空気のいいところで静養しろって言われて、中央生まれなのに、子供の頃はずっと西のほうに療養に行っていた」

「西……南ではなく?」

「乳母の実家が西にあったんだ。療養には乳母が付き添ってくれた。おかげで七歳を過ぎる頃まで、おれは乳母を本物の母親だと勘違いしていたんだ」


 子供の頃を思い出したのだろう。リオネルは少し照れくさそうに笑った。


「乳母自身の子供が生後二ヶ月で亡くなったこともあって、乳母もおれのことを実の息子同然に可愛がってくれたよ。ただ病気のときは優しいけど、それ以外は厳しいひとでさ。喘息を克服こくふくするためには体力をつけることが一番ですって、引退した騎士を呼んで剣や乗馬を習わせたり、なんかいろいろやらされて。当時はそれがいやでしょうがなかったよ。けど……」


 ふとリオネルの瞳に影が差した。


「彼女がおれをかばって魔物に食い殺されたことで、そんな甘いことも言っていられない心境になった」

「えっ……」


 大きく目を見開くミーティアに、表情を消したリオネルは淡々と語った。


「おれたちはそのとき、乗馬の練習を兼ねて国境近くに遠乗りに出ていたんだ。ひどい嵐が過ぎ去った三日後くらいだった。おれと、乳母と、指導役の騎士とで出かけたわけだ」


 おそらく、嵐のせいで国境を守る【くい】が抜けていたのだろう。群れからはぐれたとおぼしき魔物が、国境を越えて三人めがけて走ってきたのだ。


「乳母はみずからおとりになったんだ。騎士におれを連れて逃げろと命じて」

「そんな……」

「おれはもちろん拒否したが、騎士はすぐさまおれを抱えて全速力で逃げた。――当然だ。へっぴり腰で剣もまともに振るえない子供なんて、足手まといにしかならないからな」


 その後、討伐隊の騎士たちがやってきて魔物は退治された。

 そして捜索に当たった騎士は、人間の左腕を一本だけ持ち帰ってきた。

 肘の下から指までの腕は血と泥で汚れていたが、薬指には乳母が常に身につけていた結婚指輪がまっていた。


「腕一本。それが乳母に残った唯一だった。おれを守るために彼女は悲惨な死を遂げた。……おれが無力なせいで、犠牲になった最初の人間さ」


 リオネルは自嘲じちょう気味にほほ笑んだ。


「その日からおれはがむしゃらに剣を習うようになり、五年後には騎士学校に入って、飛び級で十六の年に卒業した。だが学校の勉強と現場の仕事じゃ大違い。二度と乳母のような犠牲を出したくないと思って騎士になったのに、って奴だ」


 若いリオネルは魔物の討伐に参加しては、味方の騎士にも守るべき民にも犠牲が出ていく状況に、絶望を隠せなかったという。


 どんなに訓練しても、隊の中で一番と呼ばれる腕を持つようになっても、守るべきものを守れないなら、騎士でいる意味はないではないか――と。

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