第27話 桜の樹の下にはゾンビが眠っている

 ゾンビ達の唸り声が響く中。

 西浦先生は落ち着いてエンジンをかけ、ゆっくりと発車した。

 工学部棟の入り口では、これまで助けてくれた木根文亮という怪しい外見の親切な人が手を振っていた。

 彩の横の後部座席で宮沢がつぶやいた。


「ふぅー。ようやく避難できる」


 車は何度も止まりながら、ゆっくりと動いていった。

 とまりかけるたびに、周囲のゾンビは車に近づいてくる。

 窓にゾンビの手がふれ、すっかり変色したゾンビの顔がガラスの向こうから覗き込んできた。


「ひぃ~」


 宮沢は窓の外を見て小さな悲鳴を上げた。 

 窓の外、手を伸ばせば触れそうな距離に何体もゾンビがいる。

 後部座席の彩と宮沢は、窓から離れようと真ん中に移動して、お互いの肩がぶつかった。


 前方を塞ぐように張り付いてくるゾンビを押しのけながら、車は慎重に進んで行った。

 ボンネットの上に乗り、フロントガラスに顔を押し付けてくるゾンビもいた。

 道路の上には障害物が転がっていることもあった。


 事故で車が動かなくなれば、お終いだ。

 西浦先生は冷静に慎重に運転を続けていた。


 彩は背後に見える工学部の校舎を振り返り、つぶやいた。


「カラちゃん……」


 一人残ったカラのことが心配だった。

 本当のことを告げなかったこと、カラの信頼を裏切ったことへの罪悪感がこみあげてきた。

 彩の声に反応し、隣に座っている宮沢が言った。


「大鳥さんは、何を考えているんですかね」


 誰も何も答えなかった。

 宮沢以外はみんな、何かしらうしろめたさを感じているのだ。


 彩はスマホを取り出し、カラへのメッセージを打った。

 彩は知っていることを全て書いてカラへ送った。

 いや、全てではなかった。

 優花からの電話と昨夜聞いた物音の話はしていない。


 カラへのメッセージを送り終えた頃。

 車はようやくキャンパスの外に出た。

 周囲のゾンビの数は減っていた。

 フロントガラスに張り付いていたゾンビは、角を曲がる時に落ちて、もういない。


 キャンパスの外の風景を見るのは5日ぶりだった。

 まったく同じ街並みなのに、そうは見えなかった。

 すっかり人気のないゴーストタウンになっている。

 他に道路を走る車はない。

 路上には、ぽつりぽつりとカラスやゾンビがいるだけだ。


 彩はビルの向こうに見える病院の建物を見つめた。

 兄が入院している病院だった。

 あの病院も今はゾンビで溢れているのかもしれない。

 入院患者たちが避難できたとは思えない。

 あの建物の中で管に繋がれやっと命をつないできた兄は、きっともう生きていない。


 ゾンビウイルスのパンデミックは弱い者から先に犠牲にしていく。

 パンデミックがなければ生きていた人達が、混乱の中で真っ先に死んでいく。


 西浦先生は、これからどうやって生きていくのだろう。

 避難した先で、ちゃんと治療を受けられるだろうか。

 どこへ避難すれば、医療を受けられるのだろう……。


 彩はそんなことを考えながら座っていた。

 車を取り囲むゾンビが減ったので、宮沢は大人しくなった。

 助手席の優花は、さっきから疲労でぐったりと眠っているようだった。 


 障害物やゾンビのせいで、キャンパスの外に出ても車は何度も停止しかけていた。

 西浦先生はそのたびに安全運転支援システムの解除ボタンを押しながら、運転を続けていた。


 今もまた西浦先生は解除ボタンを押して車を発進させようとした。

 その時、助手席の優花が身を起こした。

 そして、優花は運転をしていた西浦先生の顔を覆うようにがばっと抱き着いた。


「遠野さん!?」


 宮沢の叫び声が、聞こえた最後の声だった。

 西浦先生は抵抗するように動いたが、優花はしがみつき運転席の中で激しく暴れた。

 車は一瞬蛇行したかと思うと突然急速に加速し、彩は激しい衝撃を感じた。

 そこで、彩の記憶は途切れた。










 気が付いた時、辺りはぼんやりとうす暗かった。

 彩は体を動かそうとした。

 体がやけに重たく、動かそうとしても手足がうまく動かない。


 彩は「先生、みなさん、無事ですか?」と呼びかけた……つもりだった。

 彩の口から出たのは、「うぅ、うぅー、うぁ?」という音だった。


 何かがおかしかった。

 それでも、彩はゆっくりと這うように動こうとした。

 何かに縛り付けられているように、胴体は動かなかった。

 手がなにか壁のようなものに触れた。

 上の方はツルツルしていて、下の方はデコボコしている。

 だけど、それが何か、よくわからない。


 すべてがおかしかった。

 何が起こっているのか、よくわからない。


「うぅ……」


 口から出たのは小さな唸り声だけだった。

 彩は全身に感じる激しい重さに沈められるように、どこかに沈んでいくように感じた。

 身体の下へ、地面の下へ、どこまでも、どこまでも、沈んでいく。


 気が付けば、いつのまにか、彩は空を漂っていた。

 白い雲か霧の中を漂っている。

 涼しくて心地良い。

 彩は白い世界の中をゆっくりと降りていった。

 気が付いた時には、すぐ下にどこまでも広がる海面があった。

 彩は海の中へと落ちていった。


(海……溺れる……)


 だが、苦しさは感じなかった。

 水のような水ではないものに温かく包まれ、心が安らいでいった。


 海の中には、たくさんの人が半透明になって漂っていた。

 彩は自分も温かい海の中に溶けていくのを感じた。

 自分が溶けていくのを見ても恐怖は感じなかった。

 安らかな心地だった。


 沢山の人と心でつながっている。

 恐怖も争いも、もうこの先にはないのだ。

 なぜかそう悟った。







 気が付いた時には、彩は大学のキャンパスに立っていた。

 見慣れた大学の建物もあれば、まったく知らない建物もあった。

 そして遠くに、丘の上に満開の桜の木が見えた。


 桜の木はずっと遠くにあるのに、無数の白い桜の花びらが風に流れて帯のようにこちらへと流れてきた。

 地面に舞い落ちる桜の花びらが路のようになっていた。

 彩は桜の花びらの路の中を歩いて行った。


 やがて、大きな大きな桜の老木の傍にたどり着いた。

 桜の樹の下では、一人の青年が寝転がっていた。


「お兄ちゃん?」


 桜の樹の下にいたのは、兄の裕也だった。

 入院していた時の丸刈りで痩せこけた姿ではなかった。

 毎朝髪の毛のセットと洋服選びに時間をかけていた、元気な頃の裕也だ。

 19才の時の兄だった。


 6年前の彩にはとても大人に見えた19歳の兄は、今は、幼さが残る頼りない後輩のように見えた。


 裕也は目を開けると、彩に気が付き、立ち上がった。

 裕也は彩を見て、困惑したような表情を浮かべていた。

 彩は自分から話しかけた。


「お兄ちゃん。わたし、彩だよ」


「彩? やっぱり彩? なんか大人っぽくなったな」


 裕也には6年前の彩の記憶しかないのだ。


「うん。もう、21才になっちゃった」


「21才? 未来の彩?」


 裕也は首をかしげている。


「未来じゃないけど、今は大学4年生」


「4年? じゃ、彩が先輩に?」


 びっくりする兄の顔を見ながら、彩は思わず笑ってしまった。


「そうだね。おかしいね」


「おかしなことばっかだな。気が付いたら、あんな大学になってたんだよ」


 彩は兄の横に立ち、桜の樹のふもとからキャンパスを眺めた。

 大学の建物はたしかにおかしかった。

 日本では見たことがない変なデザインの建物や、なぜかテーマパークのアトラクションっぽいものまでまざっている。


 いつの間にか、さっきまで無人だったキャンパスには何人かの人が歩いていた。

 その中には、のんびり歩いている元気そうな西浦先生もいた。

 ゴミ拾いをしているボランティアサークルの学生もいた。

 キャンパスには合唱サークルの美しい歌声が響き、ダンスサークルの人達はみんなで踊っていた。

 へんてこな建物が並ぶキャンパスは、まるで学園祭のような楽しい空気で満ちていた。


「行こう、お兄ちゃん。きっと、この大学は楽しいよ」


「うん。行ってみるか」


 彩は兄と一緒に、桜の花びらの舞い散る丘から、へんてこで楽しそうなキャンパスへと歩いて行った。


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