第1話 高白氷夜の日常

 なぜだか、あの時のことを夢に見た。


「え? 小春ちゃん、引っ越すの?」


「…………うん」


 お父さんの仕事の都合で小春ちゃんが遠くへ引っ越して行く。

 それを聞かされたのは引っ越しの日から十日ばかり前のことだった。

 あまりにも突然すぎる別れに、俺たちは感情を整理する間もないまま、ついに別れの日を迎えてしまった。


「あっという間だったね」


「…………うん」


「さ、寂しくなっちゃうけど……元気でね」


「…………うん」


 気が利いたことが言えず、俺は代わりに彼女の頭を撫でる。

 たぶん当時の俺はそもそも事態を把握していなかったんだと思う。

 小春ちゃんが傍にいるのは当たり前だったから。

 彼女がいない日々を想像出来なかったのだ。

 だけど小春ちゃんは違った。


「……………………ひぐっ。う……ん……ぐす。ひっぐ……」


「――こ、小春ちゃん?」


「やだぁ! やっぱりいやだよぉ。ひょうやくんとおわかれなんていやだよぉ!」


 我慢が限界に来たのか、彼女の瞳からぽろぽろと涙が零れだす。


「だ、大丈夫だって。二度と会えなくなるわけじゃないんだよ?」


「それでもやだぁ! ひょうやくんと会えないなんていやだよぉ」


 やだぁ、やだぁと駄々をこねる小春ちゃん。

 必死になだめようとするが、泣きじゃくる彼女には届かない。


「……困ったな」


 当時の俺は大好きな彼女が泣いているのがどうしようもなく嫌で、


「――会いに行く!」


 考えもなしに思いついたことを口にしてしまった。


「ふぇ?」


「どんなに離れてても会いに行く! 必ず僕が小春ちゃんを迎えに行くから!」


「…………ほんとう? ひょうやくんが会いに来てくれるの?」


「もちろん!」


 彼女を安心させようと俺は大きく胸を叩く。


「だからさ泣かないでよ。僕は小春ちゃんの笑顔が見たいんだ」


「……ん。わかった。ひょうやくんがそういうならもう泣かない。その代わり絶対にわたしのことを迎えに来てね」


 目をごしごしと擦って彼女は無理矢理笑顔を作った。

 その顔はちょっと面白かったけど、

 なんだかこちらまで泣きそうになってしまったから、


「うん。約束する」


 俺は彼女を抱きしめて言った。


「――たとえ何があったって僕は」



***



「…………氷夜…………氷夜っ!」


 う、うーん。


「起きて! 起きてってば!」


 誰だろう。

 優しい声がする。

 それでいてどこか懐かしいような、


「起きないとチューしちゃうよ?」


「……うぅ。そいつは……困る」


 寝ている間にされたらさすがの俺くんも理性が持たない。

 まったく、俺を困らせないでくれよな。

 ――そんないたずらっ子にはお仕置きが必要だな。

 こちらも反撃しようと重い瞼をこじ開けると、そこにはしわくちゃのおばさんが立っていた。


「うぎゃー!?」


 悲鳴を上げる俺を見て、しわくちゃのおばさんことカトレアおばさんが豪快に笑う。


「はっはっは。全く面白い反応をするね。お前さんは」


「こっちは全然面白くないですよ! おかげで目が覚めちゃったじゃないですか!」


「そりゃよかった。あたしゃあんたを起こしに来たんだからね」


 齢にして八十を超えると言うのにカトレアおばさんは元気そのものだ。

 俺から布団を引きはがすと、カトレアおばさんはカーテンを勢いよく開けた。


「ほら、さっさと支度しな。お前さんには掃除もしてもらわないといけないからね」


「ちょ、支度はともかくなんで雑用まで」


「何いってんだい。お前さんの溜まりに溜まったツケを考えればこれくらい安いもんだろ? どうしても嫌だってんなら今までのツケを一気に払ってもらってもいいんだよ?」


 ぐっ……まずい。

 そんなことをされたら次の給料日まで持たない。


「全力でやらせていただきます!」


「そうそう。その意気さ!」


 人間、時にはプライドを捨てることも肝心なのだ。

 俺はあっさりとカトレアおばさんに屈した。

 ……悲しいね。


「けどなんで俺なんですか? 他に人を雇うなりしてやればいいじゃないですか」


「あたしだってそうしたいさ。でも誰も来てくれないんだよ。国で一番の美人が経営してるっていうのにねぇ」


「なるほど……」


 カトレアおばさん強面だもんな。

 俺だって初めて会った時はちびりそうだったし。


「おい。何か変なこと考えてるんじゃないだろうね?」


「イイエナニモ」


「……ったく顔に出てんだよ。あたしゃ先降りてるから、あんたも掃除が終わったら下に来るんだよ。頼みたいことがあるからね」


「うぃーす」


 ひらひらと手を振って答えると、カトレアおばさんはこちらに目もくれずに出て行った。

 部屋に残された俺は、


「…………さっさとやりますか」


 起きたばかりで思うように動かない体に鞭を打って、掃除に取り掛かった。



***



「終わりましたー」


「おお! お疲れさん」


 掃除と身支度を終わらせて下の階に降りると、カトレアおばさんが出迎えてくれた。


「……とりあえずそこに座りな」


「ういっす」


 言われるがまま、カトレアおばさんの正面の席に座る。

 この宿の一階はカフェと受付を兼ねているが、お昼時だというのに俺以外の客はいなかった。


「飲み物はいつもので良いだろ?」


「あざーす」


 ゴンと乱雑に置かれたコップを手に取り、中身を一気に喉に流し込む。

 うん、美味しい。

 なんてことのない普通の水だけれど。


「ところでお前さん。この後は城に帰るのかい?」


「そうっすね。仕事の報告をしないといけませんし。俺くんの帰りを女の子たちが待ってますからね」


「……女の子たち? お前さんに?」


 意外そうな顔をしたカトレアおばさんに俺は自慢げに話す。


「ええ、もちろん。可愛いおにゃの子たちが俺くんを…………待っていたら良かったんですけどねぇ。おにゃのこたちは恥ずかしがってるのか氷夜くんの魅力に気付いていないみたいなんすよ」


「要するにさっきのは嘘ってことさね」


「……嘘じゃないですよ。ほんのちょっとだけ誇張しただけですって」


「そうかいそうかい。お前さんに彼女なんてありえないと思ってたんだよ。やっぱりあたしの見立て通りだったね」


 「はっはっは」と無性に嬉しそうなカトレアおばさん。

 あれかな?

 好きな人に好きな人がいるか確認して一喜一憂する女の子かな?


 へ、へぇーあんた好きな子とかいないんだ。

 ふ、ふーん。そうなんだ。

 …………は? 

 私はどうなのって?

 べ、別にあんたのことなんか好きじゃないんだからね!

 ――と冗談はさておき。


「そういえばなんか俺くんに頼みたいことがあるんですよね?」


「おっとっと。そうだった。すっかり話が逸れちまってたね。そこでちょっと待ってな」


 カトレアおばさんはそれだけ告げると、カウンターの奥の方へと消えていく。

 ……いつもの理不尽な要求じゃないといいけど。

 なんて不安に思ったのもつかの間、カトレアおばさんは手作りのチラシを持って戻ってきた。


「……チラシ配りですか」


「ああ、いい加減冴えない常連ばかり見るのも飽きてきたからね。新しい顧客を呼んできてほしいんだ」


 話を聞きながらひょいと手元のチラシの文面を読んでいく。

 何々? 

 『可愛い女店主が経営する最高に最高な宿です』か。

 小学生が作ったかのようなクオリティですね。


「チラシ配りは嫌かい?」


「いや別にそれはいいんですけど。新規のお客さんを呼び込めるどうかはちょっと。カトレアおばさんの宿は既に知名度もありますし、何よりチラシの文言が……」


「は?」


「――嘘です。必ずや新規の客を獲得して見せます」


「よろしい……最初からそう言っておけばよかったんだよ」


「ぐぬぬ」


 ……その妙に勝ち誇ったかのような顔がムカつく。

 だいたい必ずなんて無理筋なことくらいわかっているだろうに。


「――ほら、いつまでも突っ立ってないでさっさと行った!」


「あいでっ!?」


 臀部に衝撃が走った。

 カトレアおばさんのツンデレ?

 なはずがない。

 いつまでも残る俺をうっとおしく思ったのだろう。

 さすがに長居し過ぎたかな。


「……お世話になりました」


 へこっと頭を下げてから俺は一直線に出口へと向かう。


「またいつでもおいで」


 後ろからかけられた声が妙に優しくて、


「…………ういっす」


 俺は振り返ることもできないままドアに手をかけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る