7 半年経ちました


 元気いっぱいの夏の太陽様。今年は何年ぶりかで、たっぷりお付き合いしましたね。走るのが仕事(部活)だった中学時代、あなたに見つめられて肌が色づくのは喜びでした。でも、今の私はもう違うの、ごめんなさい。だから言わせてくださいね、

「日焼け止め代払え!」って。

ま、そんなこと言うためにあんたの下に出て、更に日焼け止めのお世話になるのはばかばかしいからしないけど。

 そんな太陽もやっと自分の熱量にやられたみたい。朝夕は少し勢いが衰えたかな、と感じられ始めた夏の終りの日。私はお施主様と向かい合って打ち合わせ中でした。場所は株式会社ハウスアートの応接室の一つ。応接室と言ってもソファーではありません。打ち合わせのための部屋なので、大きなミーティングテーブルと椅子です。目の前の広瀬ご夫妻から、新築する家についてのご要望をお聞きしています。


 先日、遠藤さんからこの話を電話で頂きました。

『木曜の十時にご夫婦で見えるから、あなたは九時に来て、先に少し打ち合わせしましょ』

「分かりました。ご夫婦と言う事は旦那さんも見えるんですね?」

平日昼間なのでそう聞きました。

『そうよ、旦那さん、歯医者さんだから木曜なの』

遠藤さんのその言葉で一瞬断りかけました。今、遠藤さんの仕事で豪邸を一つやらせて頂いています。色々と普通の家とは勝手が違い、あたふたしています。そしてお施主様も普通の方とは、もとい、普段お会いしている方々とは違い、振り回されています。お施主が歯医者と聞いて、また豪邸かと少し拒否モードに入りました。でも、今朝九時前に来て遠藤さんから内容を聞くと、敷地四十坪ほどの話でした。今やってる家は、建物だけで百坪ほどあります。

「豪邸ってレベルにはならないですね」

思わずそう言ってしまいました。

「失礼なこと言わないの」

「すみません」

「でもなんで豪邸?」

謝るとそう聞いてきました。

「歯医者さんだって聞いたので、また豪邸かなって?」

「ま、歯医者さんって言ってもピンキリだから」

「そうなんですね」

「私の知り合いに、推定だけど梨沙ちゃんくらいの年収の歯医者さんいるよ」

遠藤さんが涼しい顔でそう言います。どっちの年収をどう推定したんだろう。そんなことを話していると、遠藤さんの部下の男性がやって来ました。他の物件のお施主さんが急に来社されるみたいです。何やら深刻そうな話で。しばらく悩んでいた遠藤さんが私を見ます。

「ごめん梨沙ちゃん、広瀬様の話、聞いといて」

「そんな、今日、一回目の打ち合わせですよ。無理です」

また少し黙る遠藤さん。

「……でも、こっちの話は間違うとややこしくなりそうだから。お願い、私も出来るだけ早くそっち行くから」

「でも」

私は少し怯えた顔を作ります。でも遠藤さんにそんな芸当は通じない。

「そんなすごい家にはなりそうにないって、自分で言ったでしょ?」

睨むように言われます。

「いえ、失言でした。ごめんなさい」

「大丈夫、あなたなら出来る。それに、最初の打ち合わせなんて、多少不備があっても修正できるから」

それって、誰でもいいって言ってるのと同じだよ。そう言うわけで、一人でお相手することになりました。


 広瀬様との打ち合わせは二時間以上続きました。お昼を過ぎたから終わったと言う感じ。四十一歳と四十歳のご夫婦と、小学生の男の子が二人の四人家族。結構無茶な要望がいくつかありました。青木さんに渡す前に整理しないといけないことが沢山。営業の部屋を覗くと、遠藤さんは来社されたお客様とすぐに出て行ったと言われました。帰社予定は十二時になっていますがすでに十三時前。先に昼食に出ることにしました。

 ハウスアート近くの定食屋さんで、ササっと済ませて戻ります。戻って先の応接室に入ると遠藤さんがいました。私が打ち合わせ中に描いた手書きの平面図と、打ち合わせ議事録を見ています。最近の私の必須アイテム、マス目5ミリのA3サイズ方眼紙。今日のような打ち合わせにも、現場での実測調査にも重宝します。今日も広瀬ご夫妻が要望する間取りなどを聞きながら、平面図として描いていきました。そうした方がお客様の理解も早く、また、お客様の要望することも具体的に理解できます。青田設計に入って五か月と少し、身に付けた術です。と言ってもまだまだ素人みたいなものなので、実施設計に入ると不可能な内容もあります。実際に設計する青木さんには迷惑かけていると思いますが、怒ることもなく丁寧に教えてくれます。その度に私はスキルアップ。出来ること、出来ないことの理解が増えるので。

「お疲れ様。ごめんね、戻って来れなくて」

私に気付いて遠藤さんがそう言います。

「いえ、遠藤さんの方は解決したんですか?」

遠藤さんの隣に座りながらそう答えます。

「ううん、あっちはしばらく延期ね。中止になるかも」

遠藤さんは議事録に目を落としたまま。

「……」

「もともと、隣のお寺と土地の境界線で揉めてたのよ」

私は黙って遠藤さんの手元を見ていました。やがて顔を上げた遠藤さんは、私の描いた平面図を示して話し始めます。

「また思い切った間取りにしちゃったわね」

「ええ、出来るかどうかは青木さんと相談ですけど」

間口約9メートル、奥行き約15メートルのおよそ四十坪の土地。そこにどうしても車四台分の駐車スペースが欲しい。なおかつ門扉から玄関までのポーチも欲しい。部屋は八畳相当で四部屋。リビングは十五畳以上。主な要望はそんなところ。普通車四台で考えると、敷地の半分近くが駐車スペースになってしまう(二台は縦列駐車)。なので間取りを少し窮屈にして、LDK、浴室、洗面脱衣、トイレをすべて一階に詰め込みました。階段も広めには出来ず。でも二階はご要望の広さの四部屋と、納戸も確保。そして打ち合わせ中に、二階にも洗面所とトイレが欲しいと言われたのでそのスペースも確保しました。

「一階のリビング、南側の敷地際だけど、裏の家がぎりぎりに建ってない?」

私はタブレットを出して現地の写真を見せながら説明します。タブレット端末は、入社して二か月過ぎた頃に買ってもらいました。

「南側のお宅は、こちら側をお庭にしているので大丈夫です」

「もう現地見てきたんだ。やるじゃない」

これは初めてこういう打ち合わせに参加したときに、遠藤さんから言われたこと。

『打ち合わせ前に必ず現地を見ておきなさい。隣近所の状況を把握してから打ち合わせを始めること』

なのでさっきの質問は、私が現地を確認済みかを確認するものです。遠藤さん自身は聞かなくても既に知っていたはず。私は無視して違う写真を見せます。

「東側の家は、塀から上でこちらに向いてる窓はこれだけです。多分階段室の窓です。なので二階の居室は東側に並べて窓を付けました」

遠藤さんは写真と平面図を見比べた後、議事録に目を落として口を開きます。

「見積りは三階建ての案もあったと思うけど、それはどう言ってた?」

「最初に確認しましたけど、二階建てにしたいとのことでした」

遠藤さんはまた議事録と平面図を見比べます。

「カウンター型の対面キッチンじゃなくなってるけど、これでOKなの?」

「間取り的に無理があるので打ち合わせでは無しにしました。でも、青木さんに考えてもらって、付けれるようなら復活させます」

「二階にトイレ、洗面はなかったと思うけど、これは追加のご要望?」

遠藤さんは話しながら見積書は見ていません。でも内容はしっかり頭に入っている。

「はい、追加分として見積書を出しますと言ってあります」

「お風呂は見積りよりサイズダウンしてない?」

「はい、スペースの問題でそうしました。下のお子さんも、一緒にお風呂に入るのはもう何年もないと思うのでいいかと」

「夫婦で入りたいってことだったらどうする? 確認した?」

「いえ、それは……」

そんなこと確認するわけない。これは遠藤さんの意地悪な質問だ。だって、議事録に向けた顔が笑っている。

「ま、一緒に入りたい夫婦なら、狭めの方がいいかもね」

「狭いと言っても家庭用サイズですよ」

私は真面目に返答。遠藤さんのこういう振りには乗っからない。そのあともしばらく議事録などに目を通していた遠藤さんが顔を上げました。

「上出来。いいんじゃない?」

「ありがとうございます」

「次はまた来週の木曜日?」

「はい、時間はご連絡下さるとのことで未定です」

「じゃあ、それまでに初回の図面できるかな?」

「はい、平面(図)と立面(図)、それと、ある程度の展開図は。あと、住設機器は週明けにでも候補を出しますから、カタログの用意はお願いします」

遠藤さんは立ち上がると私を見下ろして言います。

「もう全部任せても良さそうね」

これは何の意図があって言っていることなのか。迂闊に「はい」なんて言ったら、多分とんでもない目にあってしまう。

「いえ、お金のことは何も分からないので、次回は必ず同席してくださいね」

私は少し事務的な口調でそう言いました。

「そっか、今度は見積りからやってみる?」

さらっとそんな事を言ってきます。

「まだまだ現場覚えるだけで精いっぱいなので勘弁してください。それに、私がお施主様とお金の話をするわけにはいきませんから」

ほんとに私を自分の部下のように使おうとしている。遠藤さんの仕事は、収益面では青田設計でのウェイトは大きいです。なので私がべったり関わっても問題ないのかもしれないです。でもそれはそれ、これはハウスアートの仕事で、私はハウスアートの社員ではない。ハウスアートのお客様とお金の話をするのは、必要最低限でなければいけないと思います。

「そう? 梨沙ちゃんならいいと思うけど。まあいいわ、じゃ、青木さんによろしくお願いしといてね」

そう言って遠藤さんは部屋を出て行ってしまいました。私は荷物や資料を片付けてから、営業の部屋へ追いかけます。でもすでに遠藤さんはいませんでした。忙しい人です。議事録など、今日の打ち合わせ内容をコピーして、遠藤さんの机に置いてからハウスアートを出ました。


 事務所に戻ったのは三時過ぎ。広瀬邸の打ち合わせ内容を再整理します、青木さんに設計依頼するために。青木さんにはハウスアートを出るときに電話しましたが出ませんでした。事務所に戻って再度掛けましたが出ません。そして五時前、もう一度電話します。やはり出ません。久保田さん、清水さんが一緒に帰って来ました。昼から一緒だったようです。広瀬邸のことを話そうとしたら、田子さんがこっちの部屋に入って来ました。五時になったようです。今日は用事があるからと、久保田さんは田子さんと一緒に早々と帰って行きます。残った清水さんに相談することに。するとこう言います。

「青木さんは会社のスマホ、車で充電するから時々車の中に置きっぱだよ」

「はあ」

「個人のスマホに掛ければ?」

「あ、個人のもあるんですか」

「昔から持ってるやつね。会社のスマホなんてまだ最近のことだから。そっちの番号教えようか?」

「いえ、いいです」

個人のってことはプライベート用なのだろうから、気が引けてそう返しました。

「そ、ま、隣なんだから持ってけば?」

簡単にそう言う清水さん。

「いえ、それはやっぱり……」

持っていくってことは、上がり込んで説明するってことだから、それは完全に拒否したいです。清水さんはそれ以上何も言わず自分の仕事を始めます。私は少し悩んでから、資料をスキャナーにかけました。そしてPDFデータにして青木さんにメールで送信。聞きたいことがあれば電話してくるだろうと、開き直ることにしました。そして清水さんに声を掛けて事務所を出ました。

 事務所を出てスーパーに向かいます。明後日はもう9月だというのに、太陽はまだまだ元気です。六時前なのに夕方とは思えない明るさ。そして暑さです。熱気自体が物理的に体にぶつかってくる感じ。でも少し前よりはかなり控えめ。スーパーの少し手前で何の気なしに目を向けた駅前に、知った人の姿を見た気がしました。慌てて目を戻して探します。でもそんな人はいない。勘違いかと気にせずスーパーに入りました。買い物を終えて出て来てからもう一度見てみます、駅前からロータリー一帯を。やっぱり気のせいだったようです。それならそれでいいです。姿を見たと思った人は、出来れば会いたくない人だったから。


 翌日、朝から青木さんと広瀬邸の打ち合わせ。結局、青木さんはメールもチェックしていませんでした。説明はすぐに終了。私の平面図を見てこう言ってくれます。

「これ、スケールも大体合ってるから、このまま図面として通用するよ」

なんだか嬉しくなりました。少し一人前になれた気分です。

 青木さんとの打ち合わせを終えて、すぐに事務所を出ました。最近の私を悩ませている、久野邸と言う豪邸現場へ向かいます。昨夜、現場を施工している桐野建設の重田さんからメールが来ていました。昨夕、またお施主様が現場にみえて、何やらまた無理を言って帰ったとのことでした。その無理な内容を聞きに行かなければならないのです。

 久野邸の現場は隣の千種区なので、事務所から15分から20分程度、渋滞していても30分くらいのところ。南北に延びる環状線と呼ばれる大通りからすぐの、大きな家が建ち並ぶ一角です。すぐに着いて車を乗り入れました。豪邸現場のいいところは、敷地が広いので車を乗り入れやすいところです。

 現場監督の重田さんは現場事務所にいませんでした。現場内に探しに行きます。工事現場というところは、長袖着用が徹底されています。それは真夏であっても例外なし。夏用の薄い生地のジャンパーを支給されましたが、暑いものは暑い。私はこの夏、今までの人生で最大量の水分を補給したと思います。そして、汗の排出量も大幅に記録更新したはず。おかげで八月になる前からず~っと、夏バテ状態です。現場内をうろうろするだけの私がこうなのだから、作業している方々は本当にタフだなぁと感じます。九月を目前にした今日もまだまだ暑いです。裏庭にあたる駐車スペースから玄関に回っただけで、もう汗が流れてきました。現場は外装をほぼ終えて内装工事の最盛期です。

 個人邸なのに自動ドアになっている玄関を入ります。広い玄関から広すぎるLDKに入るところも自動ドア。どちらもまだ動きませんけどね。そこを入ると重田さんがいました。

「お疲れ様です」

私は近寄って声を掛けました。私に気付くといきなりこう言います。

「ああ、それそれ、それを取り替えるって」

そして指さしたのは、私が今リビングに入って来た自動ドアの横の壁です。そこには大きな鏡が置いてあります。大きいので、扉などで開口が塞がる前に運び入れたものです。木箱に入ったままなので、私は現物をまだ見ていません。ベネチアンミラーと呼ばれる初めて聞く名前の鏡です。写真で見ましたが、周囲の装飾も鏡でされているようなものでした。大きさはおおよそ2m×2m。重さは架台を含めて100kg近いとか。お施主様手配の専門の業者が取り付けるので、現場としてはその業者の指示通りの壁を作るだけ。

「まさか、さらに大きくなるんですか?」

私はまずそれを心配しました。これより大きくなったら、今更搬入出来ないかも。

「いや、サイズは半分くらいになるみたい」

そう言って重田さんは数枚のカラーコピーを差し出します。そこには縦長楕円の装飾鏡の写真がありました。同じくベネチアンミラーとなっています。やはり周囲の装飾は鏡でされており、こちらは色が付いています。でも、重田さんが言う通り、サイズは約半分でした。

「これなら入るし、今のも何とか出せますよね?」

玄関からここまでの2か所の自動ドアは、高さ方向の内法が2m20cm。木箱の外寸法より少しですが大きかったはずです。

「出すならいいんだけど、これをこっち側の階段室に付けたいってことなんだわ」

 この家には階段が二か所あります。と言うか、リビングも二つあります。こちらはDKエリアとリビングエリアを床の高さで区切ったホールのようなところ。ダイニングテーブルのセットは12人用という大きさ。もちろんお施主様手配の高級家具。そしてリビングエリアには12人がくつろげる、ソファーセットが置かれます。しかも各々の間には無駄だと思えるほどのスペースを取っています。ダイニングテーブルからリビングエリアと反対側の中庭に面したサッシまでの通路部分でも、うちのリビングよりはるかに広いスペースがあります。そのスペースの奥から中庭沿いの廊下に入るドアを抜けると、正面に廊下が伸びていて、右手奥に一つ目の階段があります。廊下のその階段への短い通路の先は、男女に別れたトイレや納戸が並び、左側は中庭に面したサッシでガラスが連なります。廊下の突き当りの扉の奥はまた小さなホールとなり、二つ目の階段があります。そのホールの左手の扉を入るともう一つのLDK。そちらも十分広いですが、こっち側と比べればまだ常識的な広さです。要は、こっち側はゲストを迎えるLDK.向こうは家族のLDKといった感じです。こっち側の階段を上った2階には、ゲストルームが3部屋のみ。中庭の向こう側の2階とはつながっていません。そう、中庭の向こう側は家族のエリアなのです。そしてそのこっち側の階段ですが、1階の階段室には2m四方の物が据え付けられる壁の広さはありません。逆に2階はちょっとしたホールになっているので問題なし。そのホールの壁面には絵画を掛けると聞いていたけど、その代わりかな。でも、階段あがれるの? って、その前に確認。

「こっちの階段って、1階は付けれる広さないですよね?」

「当然2階。額縁飾るとかって言ってたところに付けたいって」

やっぱりか……。

「階段あがれます?」

ストレートに聞きました。

「軽ければね。サイズ的にはギリ、踊り場も何とか回れそう。でも分らん、重いからなぁ」

「ですよねぇ、100キロくらいあるんでしたよね」

そう言うと渋い顔をする重田さん。

「ほんとに軽ければ問題ないんだけど。大きい、重い、壊れやすいって、三つも悪い要素が重なってるからなぁ」

私は中庭に出て外を見回します。1階のダイニングから中庭に面したサッシの開口は、十分高さがあるので問題なし。障子を開けた開口から中庭に出せます。2階の階段ホール部分は嵌め殺し窓で開口なし。でも都合よく縦長の大きな窓です。確か高さは2m以上あったはず。既に嵌まっているガラスを外せば開口的には問題なさそうです。幸い外壁面の作業はまだ残っているので、足場もあります。私は2階のガラスを指して言いました。

「あそこのガラスを外せば外から入れれませんか?」

重田さんも中庭に出て来てそのあたりを見ます。

「ガラス外して、足場もちょっと架け替えないかんけど、その方が無難かな」

更に渋い顔で悩んでいます。

「ウインチでしたっけ? それを足場の上に付ければ吊れないですか?」

「足場もう一段足して補強もいるけど……」

重田さんはそう言ってまだ考えています。

「まあわかった、どっちにせよ上げろって言うなら上げるしかないから何とかする。でも、上げてからまた下ろせとか言われないように、そっちからも2階に据えるって言質を取っといてよ」

「分かりました」

そう答えたものの頭が痛いです。それは、言質を取ったところで無駄だから。お施主様の気が変わったらそれまで。この現場はこんなことがもう何度も起こっていて、その度に重田さんが被害にあっています。ただこれまではこういうことがあっても、段取りの変更や調整くらいで済んでいますがこれからは別です。今回はガラスを外して復旧くらいで済みそうですが、下手をすると施工済みの所を壊して復旧なんてことになってしまいます。その分追加費用をしっかり頂けばいいのかもしれませんが、そういう無駄な労力は、みんな使いたくありません。

「あの鏡は出来るだけ動かしたくないんだから、頼むよ」

重田さんが木箱を見てそう言います。

「そんなに運びにくいんですか?」

「運ぶも何も、あれ、高級車1台軽く買えるくらいするんだよ。そんなのは出来るだけ触りたくないでしょ」

私は改めて木箱を見ます。確かに現場内なのに、カラーコーンとコーンバーで近付けないようにしてあります。高級車一台分か。そう思って見ますが、高級車に縁がない私には金額が思い浮かばない。でも、私には払えないくらい高額なのだとは認識しました。そんな高額なものが、鏡という壊れやすい物になっている。触るどころか、近付くのも嫌になりました。

 そんなことを思っていると、重田さんがダイニングに戻って行ったので追いかけます。

「昨日のお施主様の話は今のだけですか?」

重田さんは奥のリビングエリアに進みながら答えます。

「いやもう一つ。こっちの方がもっと大変かも」

そう言ってリビングエリアの左の壁の方を向きます。もう勘弁してほしいけど。

「あそこの壁に大型モニターを据えて、ここをシアタールームみたいにしたいらしい」

「はあ」

別段問題なさそう。ダイニングにも反対側の壁に大型モニターが付くんだけど、こっちにも欲しいってことね。裏のエリアに造っていたシアタールームは中止して普通の部屋になったけど、やっぱり欲しいんだ。もっと早く言ってくれればいいのに、くらいに思いました。

「で、モニター付ける壁際から3mか4mくらいの所まで、床を200(ミリ)ぐらい下げてくれってことなんだけど」

そう続いた重田さんのセリフに、はあ? と、声が出そうになりました。ここはダイニングエリアが1階の床の基準の高さになっています。そしてリビングエリアはダイニングエリアより、100(ミリ)下がった高さになっていました。なので室内の床では1階で一番低いところです。それをさらに200(ミリ)下げる。正確には青木さんに検討してもらわないといけませんが、多分無理です。

「どうする?」

考え中で返事をしない私に重田さんがそう聞いてきます。

「200(ミリ)は無理だと思いますが、重田さん的にはどのくらいなら下げれると思いますか?」

「ゼロ」

即答する重田さん。考える気もなさげ。

「ゼロですか……」

私は持って来ていたこの現場の図面から、断面図を探して見ていました。う~ん、私では判断つかない。そう思っていると重田さんがこう言い出します。

「10(ミリ)や20(ミリ)は下げれると思うけど、そんなことしてもしょうがないでしょ。そこを下げるのを考え直してもらうか、ダイニングまで全部、今より200(ミリ)上げるかどっちかだよ」

「それは無理です」

私がここは即答しました。

「玄関からそこのダイニングエリア、そして奥の一階部分まで、全部バリアフリーの設定です。なので、このダイニングの床を上げたら、全て上げないといけません」

重田さんも私の手元の図面を覗き込んでいます。

「なら断念してもらうしかないね」

そう言う重田さんに続けて私は言いました。

「それか、200(ミリ)下げて欲しいという部分を今のままにして、リビング上段となるところを今より200(ミリ)上げます。するとダイニングから100(ミリ)上がる格好で、今と逆になっちゃいますけど、モニター前は200(ミリ)下がります。そっちを了承して頂くかですね」

重田さんも賛同のようで、すぐにこう言いました。

「それで決まり。もともとダイニングとリビングを明確に区別したいから床の高さを変えようってことだったよね。なら上下逆でもいいよ」

重田さんは床の高さを決めた打ち合わせにいなかったので簡単にそう言います。でも、私はその時の久野夫人のセリフを覚えています。

『食事をしてからくつろぐんだから、一段降りる方がいいわね。上がったんじゃ、くつろぐってイメージにならないわ』

奥様は結構その場限りって方で、言ったことをあまり覚えていません。私が覚えているだけで、ご本人は覚えていないかも。でも、また同じイメージを想像されたら同じ結論になりそうです。

「シアタールームの話はご主人からですか?」

私はそこのところを確認します。

「いや、奥さんだよ。ご主人はここにはほとんど来たことないから」

これは何とかなるかも。シアタールームを作りたいのが奥さんなら、そっちが優先になっているはず。そのためなら床の高さが逆転するくらい気にしないかも。そう思うと少し気が楽になりましたが、逆に腹も立ってきました。

 現場が始まってから数々の追加要望であったり、変更がなされてきました。ほとんどが現場で重田さんに対して告げられたもの。でも重田さんからは、お施主さんがみえてこうおっしゃった、としか聞いていません。なのでご夫婦で来られているものだとばかり思っていました。それが今の話だと、ほとんど奥様が言って来ていることになります。

 ここの奥様は私と三つも変わらないと思われる年齢です。間違っても30才には届いていないと思う。旦那さんは50才くらいなので、かなりの年の差夫婦です。その若い奥様、旦那さんと同席する打ち合わせでは、結構常識的な事を言います。旦那さんが突飛なことを言い出すと、止めたりもしています。自分より少し年上の女性のそんな姿に好感も持っていました。でも今の重田さんの話からすると、現場で好き勝手言ってるのは奥様のようです。正式な打ち合わせではいい子ぶって、現場では言いたいこと言う。次に奥様と顔を合わせたら嚙みついてしまいそうで怖い。とりあえず重田さんには、この辺りの造作を一旦止めてくださいとお願いしました。


 私は現場を出ながら遠藤さんに電話を掛けます。最近はブルートゥースでつなぐイヤホンを使っています。現場内で両手が塞がっていても話せるので。電話に出た遠藤さんに今の内容を伝えました。

『悪いけど、床の高さを変えた図面、大至急上げて。すぐに打ち合わせして了解とるから』

遠藤さんが私の説明を聞き終えてそう言います。

「分かりました」

『その現場、今から突貫でやるわよ』

なんだか遠藤さんの鼻息が荒くなったようです。

「まだ工期的にはそんなにきつくないですよ」

『ちがう、そういう奥さんに時間を与えたらだめなの』

「はあ」

『また何か気に入ったの見つけたら、これと変えろとか、あれを使えとか言い出すから』

確かに、それは言えてる。

「そんな感じはしますね」

『時々いるのよ、こういう施主』

そりゃいると思う。お施主さんにしてみたら、完成するまでにいいものが見つかったら、出来るだけそれを使いたいでしょう。その気持ちも分かるので、出来るだけ叶えてあげたいとは思います。でも、この奥さんのように裏で動いて引っ掻き回すような人には付き合いたくない。

「分かりました。青木さんには急ぐように言っときます」

『お願い。私も電話しとくから』


 遠藤さんとの電話はそれで終わりました。私は次の現場に向かって車を走らせます。するとしばらくしたところでスマホが鳴りだしました。ナビにつないでいないので誰からか分かりません。イヤホンのボタンを押して出ます。

「はい、高橋です」

『お疲れ様。今どこ? こっち戻って来る?』

青木さんの声でした。

「菊田様店舗の現場に向かってますけど」

ニューブレインの滝川さんの新しい現場です。彼女が初めて現場責任者を務める現場。

『それ、約束してる?』

「いえ」

今日行くとは言ってませんが、私は滝川さんに会いたかったです。

『じゃあ悪いけど、すぐに戻って来て』

その青木さんのセリフに、私の声は暗くなりました。

「久野邸の件ですか?」

『そ、遠藤さんから電話掛かって来て、今夜中に図面やれって言うから』

「今夜中ですか」

『明日で久野さんと打ち合わせのアポ取るって』

さすがと言うかなんと言うか、遠藤さんは行動が早い。

「分かりました。すぐ戻ります」

『頼む。それと高橋さん、明日の予定は?』

「明日は午前中だけ事務所で図面チェックやる予定ですけど」

『そっか、それ急ぎのチェック?』

「まあ、土曜日に出てやるつもりだったのでそれなりには」

もう何か悪い予感がしてきました。

『どこの図面?』

「ヴィラ喜多山です」

大川設計の下請けで設計している、新しいマンションの現場です。施工をする杉山建設から先週、最初の施工図が上がって来ていました。それに基づいてチェック、修正した図面が、うちの下請けの三輪さんから昨日メールで来ていたのです。本来は清水さんの担当物件ですが、彼が手一杯なので今は私が手伝っています。

『それは今から戻って今日やっちゃって、で、明日は時間空けて』

「何かあります?」

私はまた暗い声でそう聞きます。嫌がっている気配を察して欲しい。

『いや、久野さんとの打ち合わせ、決まったら同席して欲しいから』

嫌な予感が当たってしまった、当たると分かってたけど。なので私はこう言ってしまいます。

「それ、遠藤さんが自分でするって言ってましたよ」

『もちろん彼女がやるんだけど、高橋さん同席させてくれないと困るって言うから』

私が参加するより、青木さんが参加した方がいい。専門家として出来る出来ないを、きっぱり言った方が話が早い。別に青木さんがそう言う事を言わないとかって言ってるわけではありません。むしろストーレートに言います。いかにも技術者っぽく。そう、空気を読まず、お施主様の顔色も見ず。遠藤さんは青木さんのことを高く評価しています。お施主様からの無理難題な要望も、理路整然と説明できる図面として仕上げて来る青木さんのことを頼りにしています。でも、議論になってしまいそうなお施主様には、青木さんを会わせません。これは最近分かってきたこと。今までは、難しそうなお施主様との間には久保田さんが入っていました。おそらくその前は清水さんだったのでしょう。清水さんが遠藤さんを敬遠している気持ちがだんだん分かって来ました。私は電話での議論をやめることに。

「とりあえず戻ります」

『ありがと、気を付けて帰って来て』

青木さんの声がイヤホンから消えました。




 食後のコーヒーを飲みながら遠藤さんが疲れたように口を開きます。

「結局、青木さんのファインプレーで終わったって感じ」

久野夫妻との打ち合わせは、あまりにもあっさり終わりました。昨日から様々な要因で、ある意味盛り上がっていた心の行き場がなくなり、その反動から口数少なく終えた食事の後でした。

 青木さんは今朝までに変更案を二つ作って、図面にしてくれていました。一つは私が現場で重田さんに話したもの。リビング上段を一番高いところにする案。もう一つはリビング上段をダイニングと同じ高さにして、リビング下段(シアタールームのようにする部分)をそこから100(ミリ)だけ下げるもの。当初から久野夫妻がこだわっていた、リビングとダイニングのはっきりしたエリア分け。それは床仕上げを変える方向で提案。すべて無垢板張りだった床を、ダイニングエリアは大理石張りに替えてありました。遠藤さんと私は、正直これはだめだと思っていました。そして十一時から、現在久野夫妻が住んでいる東区の高級マンションで始まった打ち合わせ。一つ目を提案、説明したところ、いい反応なし。そこで二つ目を話したらすんなり乗って来ました。次回の打ち合わせで、大理石の床材サンプルを揃えて見せると言うことで終了。久野夫妻のマンションを出て、車を停めた駐車場前にある小さな喫茶店へ、そこで昼食にしたのでした。

「ですね。青木さんの読み通りでしたね」

私も疲れた口調になってしまいました。大理石案がダメだと私たちが思った理由。それは最初の頃に久野夫人が言った言葉です。

『出来るだけ室内は木の雰囲気にしたい』

当然青木さんにもそのことは伝えたうえで設計してもらっています。そして今朝、青木さんが二つ目の案を私たちに見せた時こう言いました。

『ダイニングに置くって言う鏡の写真、あれは石っぽいイメージが湧いてくるから、床が石でもいいんじゃないかな』

その通りになりました。ご夫妻も鏡に合う石を選びたいとか言い出しました。こうなると青木さんが言ったもう一言が気になります。それは、ダイニングの壁の腰から下ぐらいも、石張りにしたいって言い出すんじゃないかというもの。今日はその話は出ませんでしたがそのうち出そう。重田さんと前もって打ち合わせして、こちらから提案した方がいいかも。

「なんか面白くない」

遠藤さんがそう言って私を睨みます。

「でもいいじゃないですか、比較的いい方に決まったんですから」

「そうだけど、これでもあの奥さんにどう言って納得させるか、結構悩んで考えてたのよ」

そう言って腕組みします。遠藤さんの気持は分かります。話が片付いてホッとした感より、不完全燃焼感の方が強いのでしょう。遠藤さんはスマートに仕事をこなすイメージがあります。でもそれは、一人でさんざん悩みながらシミュレーションを繰り返しているから。最近分かって来ました。

「じゃあ、青木さんが言ってた壁の件、次回こっちから奥さんに提案してみたらどうですか?」

私は次のシミュレーション課題を与えることにしました。

「それじゃ結局青木さんの考え通りじゃない。何かあの人が思いつかないようなことない?」

矛先はそっちだったのか、面倒くさい。遠藤さんは変なところで青木さんに対抗します。話がそっちに行くなら私は相手しないことにします。

「私にそんなこと聞かないでください。さあ、そろそろ戻りましょ」

飲み物もなくなっていたので、腰を浮かせながらそう言いました。

「そうね、とりあえず出ましょうか」

遠藤さんはそう言うと、さっさとお勘定を済ませに行きます。私は先に店を出て駐車料金を精算。車に乗り込むのは二人同時くらいになりました。遠藤さんの車はうちの事務所の所に置いて、私の車でここまで来ています。車に乗ると私がご馳走様を言う間もなく、遠藤さんが口を開きます。

「高速乗って小牧方面行って」

はあ? まだどこか行く気なんでしょうか。遠藤さんはスマホを操作しています。私は車を出しました。

「どこ行くんですか?」

「確か可児だったと思う」

「可児? 現場ですか?」

遠藤さんは目的の所をスマホで見つけたようで、ナビに目的地を設定していきます。

「ううん、住設機器の展示場」

「展示場ですか」

「最近知ったんだけど、結構いろんな種類が置いてあるらしいの」

「はあ」

私も展示場と聞くと覗いてみたい気がしますが、何もわざわざ可児まで行かなくても、と思ってしまう。それに今日はもう帰りたかったです。

「石張りの床にマッチしそうなキッチンが見れればいいんだけど」

遠藤さんがそう言います。その言葉で私も気が変わりました。すぐに次の行動に移るこういう遠藤さんの姿は、見習わなければならないことです。

 目的地には中央自動車道の多治見インターを経由するルート。多治見インターから可児市街に向かうバイパスの途中にありました。工業団地の一角です。広い展示場内にはキッチンだけでなく、ユニットバスやトイレも並んでいます。メーカーの展示場ではないので、色んなメーカーの製品が見比べられるのがいいです。結果的には、目当てのキッチンの現物はありませんでした。でも、ほぼすべてのメーカーのカタログが揃っているので、それを見るだけでも価値がありました。カタログはネットでも十分見れますが、数種類を並べて見比べるにはこういう環境の方が良いです。また、その展示場の会社の方も丁寧に説明、案内してくれるので助かりました。私たちが出した住宅メーカーと設計事務所の名刺を見てのそういう応対でしょう。売り上げでお返しが出来るかどうかは分かりませんが。2時間ほどかけて、キッチン以外の物にも目星をつけてそこを出ました。事務所の駐車場まで帰って来て、そこで遠藤さんと別れます。事務所に戻ると鍵が掛かっていて誰もいません。まだ明るいとはいえ、5時はとっくに過ぎています。とりあえず中に入り、打ち合わせに持って出た図面やカタログを机に置いて事務所を出ました。


 事務所から車まで歩きながら、自分のスマホをチェック。朱美からショートメールが届いていました。

『至急連絡乞う』

「電報か」

電報を受け取ったことはありませんが、思わずそう言ってしまいました。着信は午後2時過ぎ。既にかなり時間が経っているので、家に帰ってから電話することにしました。でも家の駐車場に車を乗り入れると、赤い車がありました。電話する必要はなさそうです。

「おかえり」

玄関を開けて入ると、思った通り朱美の声が迎えてくれました。

「ただいま」

リビングに入ってそう言います。いつから来ているのか知りませんが、部屋の中はエアコンが効いていて快適。そして朱美は、とてもそのまま外に出れないような軽装でくつろいでいる。今日はどうしたの? と聞く前にこう言われます。

「お疲れ。シャワー浴びといでよ、晩ご飯買って来てるから」

キッチンを見ると、最近置いた折り畳みの小さな机に白い箱がのっています。某フライドチキン屋さんの箱。

「ありがと」

私はそう言って着替えを用意、シャワーを浴びに行きました。シャワーを終えてリビングに戻ると、朱美がキッチンにいます。フライドチキンをお皿に並べていました。

「座ってていいよ、温めたら持ってくから」

朱美がそう言います。

「それ以外は何がある?」

「サラダ」

私の問いにそう答えます。私は朱美の方へ近づきました。

「炭水化物欲しいから何か作るね」

「あ、炭水化物ある。ポテト」

そう言って流しの前をどこうとしません。私、そんなに疲れて見えるのかなぁ。

「大丈夫だよ、そんなに疲れてないし、簡単なものしか作らないから」

そう言って冷蔵庫を開けました。冷蔵庫を開ける瞬間、「あっ」と、朱美の声がします。冷蔵庫の中にも大きな白い箱がありました。フライドチキン屋さんの物ではなく、純白の箱。ケーキが入っているとしか思えない箱です。

「なにこれ?」

「あとで驚かそうと思ったのに」

少し口を尖らせて朱美がそう言います。冷蔵庫にはシャンパンも入っていました。ちょっと予感がします。でもそれには早すぎるような。

「誕生日ケーキ買って来たの」

やっぱり、でも10日後だよ。あ、朱美の誕生日は来週か。朱美は9月6日生まれ、私は4日後の10日生まれです。

「今日、メールしたでしょ。来週の金曜か土曜くらいに、一緒にお祝いしようと思ったの」

「で、今日なの?」

「連絡待ってたら、ケーキ食べたくなったんだもん」

「なにそれ」

私はなんだか笑ってしまいました。

「別にいいじゃん、一週間やそこら早くても」

朱美は開いたままの冷蔵庫から缶ビールを取ると離れました。

「前祝いは良くないって言わなかったっけ?」

「あんたは昭和の人間?」

私の言葉にビールを飲みながら、そう突っ込みを入れてくる朱美。

「あんたと一緒だよ」

私はフライドチキンを見ながら何を作るか考え中。冷蔵庫にはこの前安かったのでたくさん買った牛乳がある。決まりました。牛乳を鍋で温めます。その間に玉ねぎとベーコンをスライス。

「今年は祝ってくれる人いないからここに来たの」

リビングから朱美がそう言ってきます。

「私はこの何年か、誰にもお祝いしてもらってないんだけど」

朱美と話しながら玉ねぎとベーコンを炒めます。

「それって私に対する嫌味?」

「ううん、自分で自分にお祝いもしてないから」

牛乳から湯気が立って来たので粉末のコンソメスープの素を入れます。冷凍のブロッコリーも投入。

「そっか、自分でお祝いするって手もあるんだね」

「そうだよ」

「でもそれって悲しくない?」

「だからしなかったの」

鍋の中が再びグツグツしてきました。そこでスパゲッティーをそのまま投入。スープの中で茹でちゃいます。アウトドア好きの友人から教えてもらったテクニック。本来は使う道具や手間を減らすためみたいですが。個人的には、スープスパゲッティーはこの方がおいしいと思っています。早茹で3分のスパゲッティーを使いました。でもスープ茹でする時は少し長めにします。今日は牛乳スープなので5分にしよう。

「だったら意味ないじゃん」

「朱美は親と住んでるんだから、お祝いしてもらえるでしょ?」

朱美が用意したフライドチキンを電子レンジに入れて温めスタート。

「うん、多分当日は家にケーキあると思う」

残り2分くらいで、炒めた玉ねぎとベーコンを鍋に投入。後は待つだけ。

「いいなあ、ケーキ2回食べれるんだ」

器を用意してもう少し待ちます。

「梨沙も今年は2回食べれるよ」

「なんで?」

「来週もう一回やるから」

「はあ?」

電子レンジから出したチキンを座卓に置きながら、朱美の顔を覗くようにそう言います。キッチンに戻る私に朱美の声が返って来ました。

「ここに来る前に来週用のケーキ予約しに行ったの。ちゃんと梨沙&朱美って頼んだんだよ」

「うん」

私は器2つにスープスパゲッティーをよそいながら返事。

「でもケーキ見てたら、今日も食べたくなっちゃったの」

私は器を運びながら言います。

「じゃあ今日はお祝いじゃないじゃん」

朱美が立ち上がってキッチンに向います。

「二人分なんだから、2回してもいいじゃん」

そう言って、シャンパンとグラスを持ちます。シャンパンより先に、同じ冷蔵庫に入っているサラダを出して欲しかった。私はサラダとフォーク、スプーンを取りに行って戻ります。戻るともうグラスにシャンパンが注がれていました。

「ま、取り合えずありがと」

グラスを受け取ってそう言います。そして、二人でグラスを持ってこう言いました。

「お誕生日おめでとう」

お互いに一息でシャンパンを空けて笑いました。

「さ、食べよう」

朱美はそう言ってスパゲッティーに取り掛かりました。私は座卓の上の料理を見ます。ケーキ食べれるかな……。すると朱美が声を上げました。

「なにこれ、初めてだよね。むっちゃおいしい」

朱美に作ったことはなかったかも。嬉しい一言です。

「ほんとは鶏肉焼いてから入れたかったんだけど、フライドチキンとかぶるからやめた」

「これで十分。なんならフライドチキン入れちゃえば良かったのに」

「いやいや、フライドチキンはフライドチキンとして食べなきゃ」

そう言って私は、フライドチキンにかぶりつきました。




 九月最後の週明けは火曜日です、月曜は振り替え休日だったから。私は週明けの打ち合わせを済ませてから、すぐに事務所を出ました。久野邸の現場に向かいます。今日は青木さんも一緒。現場はもう外構工事も進んでいます。お庭や駐車場が造られていっています。なので車の乗り入れは出来ません。近くのコインパーキングに停めて歩きます。

またトラブルがあったわけではありません。今日は単なる興味からの行動。物見遊山とでも言うべきかな。それは青木さんも一緒です。では何をしに行くのか。それは、例の鏡を見に行くためです。この連休で、仕上がった壁に取付されている予定です。

 外観上、建物はもう完成しているように見えます。庭先で外構業者と話をしている重田さんに声を掛けて入りました。自動ドアも電源を入れればもう動く状態です。玄関からは当然、土足禁止。上履き、スリッパも禁止となっています。仕上がってきれいに見えていても、現場内は最後のクリーニングが終わるまで埃がいっぱいです。そんなものが降り積もった上をスリッパなどで歩くと、埃を床に擦り付けているようなもの。なので床材に傷がつかないように靴下で歩くことになります。先週からこうなっていたので、替えの靴下も持って来ています。と言うか、竣工目前の住宅現場は、こういう状態になることが多いです。なので車にはいつも2~3足、靴下を備えるようになりました。ちなみに、完成直前の最終クリーニングが終わると、靴下でもそのまま入るのは禁止です。靴の中で履いていた靴下では、足の脂が床につくので。更に上からきれいな靴下を履くか、不織布で出来たスリッパを履くことになります。

 玄関エリアからダイニングに入りました。そして横の壁を振り返ります。ありました。私の背よりはるかに高い縦長の鏡。下半分ほどの縁の飾りの鏡には、緑や青の色がついています。埃よけのビニールシートが被せてありますが、とてもきれいです。キッチン側に離れて見ます。オーダーが遅れたので、まだ設置されていないシステムキッチンの辺りまで下がりました。結局真っ白に統一された壁面に、はっきりと存在感を示しています。横では青木さんが写真を撮っている。すると、鏡の横の自動ドアから重田さんが入って来ました。

「青木さん、展示物の撮影は禁止ですよ」

笑顔でそう言います。

「すみません、つい」

青木さんはそう言ってスマホをしまいます。

「冗談ですよ。どうですか?」

「入って近くで見た時は、大きすぎていまいちだと感じたんですが、ここまで離れて見ると、さすがに凄いものだと思いますね」

私も横で頷きます。

「無事に取りついてホッとしてますよ」

重田さんも鏡の方を見ながらそう言います。

「上のも見れますか?」

私が重田さんに聞きました。重田さんは階段の方を向きます。

「どうだろ、上のは物をぶつけないように朝から木箱を再利用して覆うように言ってあるから。見に来るって言ってくれてたらあとにしたのに」

「そうですか」

三人で階段に向います。

「まだベッドとか大型家具の搬入があるから、上のはガードしないと心配なんですよ」

重田さんが歩きながらそう言います。階段を上がると、もう作業は終わっていました。故に、壁に取り付いた木箱があるだけでした。

「たしかに、ここはガードしないと何かぶつけそうですね」

青木さんが階段ホールを見回してそう言います。

「ええ、ぶつけて壊されても、弁償しろって言いにくい金額ですからね」

そう言いながら重田さんはスマホを操作しています。そして画面を私たちに向けました。

「これ、設置が終わった時の写真です」

さすがに大きな鏡です。小さなホールの壁に取り付いているので、その時ホールにいた人がみんな鏡に映っています。久野夫人もいました。

「奥様もみえてたんですね」

私はそう言っていました。

「お昼前から終わるまでずっといましたよ」

「お一人で?」

重田さんは頷きます。

「それはお疲れさまでした」

私は少し笑いながらそう言いました。

「現場の前に車停めたままだったから、そっちの方が気になりましたよ」

重田さんも苦笑しながらそう言います。奥様の車は、欧州製の大きなSUVだったはず。作業員の方々も、さぞかし気を遣ったことでしょう。

「そんなに長時間いらしたのなら、また何か新しい注文が出たんじゃないですか?」

私は重田さんを見上げてそう聞きました。

「ま、ちょこちょこと。大したことは言われてないので、こっちでやるからいいですよ」

「そうですか」

取付をずっと見ているのは退屈だったろうから、色々と見てまわって、また思い付きで難題を出されているかと心配しました。

「高い鏡だから心配だったんでしょう。ずっと付きっきりでしたよ」

私が意外そうな顔をしたので重田さんがそう付け足します。

 青木さんは2階のゲストルームに入って行きました。私もそっちに行きます。家具がないだけでほとんど完成しています。各部屋のユニットバスやトイレも設置済み。ベッド二つと、狭いながらリビングスペースもあります。こんなお部屋が3部屋。どんなお客様が招かれるのかな。あんまり興味はないけど。


 重田さんは外構工事の方が気になると言って離れていきました。青木さんと私は、建築工事としてはほとんど完成している現場内を一回りしてから出ました。事務所に戻る車内で青木さんの電話が鳴ります。運転しながら聞いていると、相手は遠藤さんのようです。

「この後の予定は?」

電話を終えた青木さんがそう聞いてきます。

「鈴木木材さんの、新しい現場見に行こうと思ってますけど」

「加藤邸だったっけ?」

「はい、南区です」

青木さんは少し考えてからこう言います。

「それ、久保田さんにやってもらうから、このままハウスアートに向かって」

何か嫌な予感がします。

「このままって、青木さんも一緒ですか?」

「うん、僕も行く」

ますます嫌な感じがします。青木さんはなんだかんだと理由を付けて、ハウスアートには行かない人です。そんな人が一緒に行くなんて。また久野邸でトラブル? 重田さんの話では、昨日は長時間奥様が現場にいた様子。何か根本的なクレームでも見つけて、直接ハウスアートに文句でも言ったのかも。

「何かあったんですか?」

あまり聞きたくはなかったですが尋ねます。

「新しい仕事の話だよ」

ホッとしましたが怪しい。そんなことで青木さんが一緒に行くなんて思えない。ひょっとして、久野邸以上の難儀が予想される仕事かも。だったらそっちを久保田さんにやってもらいたい。

「青木さんが最初から出向くなんて珍しいですね。何か特殊な物件なんですか?」

「う~ん、普通の家だと思うよ」

「普通の家の話に、最初から青木さんが関わるんですか?」

私は疑問を晴らすべく質問を重ねます。青木さんは言葉を探している様子。ややあってこう言います。

「ちょっと事情が特殊って感じかな。高橋さんを借りたいって言われたんだけど、一緒にいるなら僕にも来いって言うから」

特殊な事情。なんか、ますます関わりたくない。普通の家と言いながら、遠藤さんが青木さんまで呼びつける。それに応じて青木さんが出向く。想像を絶する特殊な事情がありそう。

「事情が特殊ってどういうことですか?」

質問ばかりになってしまいます。そして、また言葉を探す青木さん。

「それは僕から言うのはやめとく。着いたら遠藤さんが自分で話すと思うから」

そう言います。そう言われたらもう聞けません。その後青木さんは別件の電話を各所と始めました。私は黙って目的地まで車を走らせるだけ。


 ハウスアートに着くと受付の女性から、応接室の一つで待つように言われました。しばらくも待たないうちに遠藤さんが入って来ます。挨拶しながら、並んで座っていた私たちの前に座ります。そして一瞬青木さんと目を合わせてから、私にA4サイズの封筒を差し出します。

「助けると思ってこの物件、梨沙ちゃんが直担当ってことでやってくれない?」

私は封筒の中身を確認します。新築する家の見積書と、それに関わる資料でした。見積りの宛名は杉浦隆雄様となっています。つまり、杉浦様邸新築工事ということになります。ここまではいつもと同じ手順です。見積書をもとに打ち合わせをして図面を作る。そういう段取りです。でも、直担当と言うのはハウスアート社内での言い方。お施主様と直接話をする担当者の事。私や久保田さんなども、ハウスアートのお施主様と直接打ち合わせをします。でもそれはあくまで、ハウスアートの下請けで設計をやっている業者としてです。私は書類から顔を上げて遠藤さんを見ました。

「直担当でってどういうことですか?」

「そのままの意味よ。お施主さんとは全面的に梨沙ちゃんが会って話をして欲しいの」

遠藤さんはすぐにそう答えます。

「ハウスアートの人間として会えってことですか?」

「ううん、青田設計の担当として接してくれればいいから」

よく分からない。それならいつもと同じような気がする。

「いつもと変わらない気がするんですけど」

そう言ってみるけど反応なし。涼しい顔で私を見ています。

「ひょっとして、見積り外の話になった時、そのお金の話もこっちでするってことですか?」

すると少し目を逸らして考えてから、遠藤さんはこう答えました。

「ま、そんな感じ」

とうとうお金の話までさせようとしてきた。でもこれは断る方向の方がいいでしょう。いくら何でも他社の損益に関わる話をこちらでやるべきではない。揉めた時に責任も取りたくないし。そんな思いで横の青木さんを見ました。何も考えていないような、呑気な表情で私を見ていました。しばらくその顔を見ていたら小首を傾げだす。ダメだ、話聞いてなかったかも……。私は気を取り直して言い返す内容を探すことに。

 見積書を手に取って内容を見ました。内容が無い。いや、あるけれど少ない。ハウスアートの見積書はいつも懇切丁寧なものです。お施主様がどこにいくらかかるか、何にいくらかかるか、はっきり分かるようになっています。その丁寧さがハウスアートの売りのはず。大きく建物の構造、屋根、外装の内訳が明記されたあと、内部は部屋ごとに内装の材質や機器の明細が内訳として明記されます。そうするとお施主様は予算と考え合わせて、部屋毎、場所毎でのグレードの上げ下げが検討しやすいのです。なので大体いつも十数ページ以上の見積書になっています。今手元にある見積書は三ページしかない。内訳は当然ざっくりしたもの。そう、これは概算見積書です。お施主様が最初に相談に来られた時に、そのご要望だとこのくらい掛かりますよ、って出す見積書です。その金額でお施主様は予算を考えるわけです。足りるかとか、借りられるかとか。

「これって概算の見積書ですよね、契約内容の見積書はないんですか?」

概算見積りだけでは設計どころか打ち合わせも始められない。なのでそう聞きました。すると遠藤さんは、

「うん、契約これからだから」

と、あっさり言います。

「まさか、私に契約の話もしろって言うんですか?」

勢いよくそう言ってしまった私に、少したじろいだように見える遠藤さん。でもすぐにこう言います。

「そうよ」

「え?」

「大丈夫、その概算金額で向こうは了解してるから、その時の内容に沿って契約内容を詰めてくれたらいいだけだから」

「無理です」

すぐ言い返しました。でも遠藤さんもすぐにこう返してくる。

「そんなに難しいことじゃないわよ、見積書はこっちで作ってあげるし、予算書も作ってあげる。それに基づいて話したらいいだけだから」

作ってあげる? 言葉がおかしくない? いや、根本的にそんなところからこっちにやらせようというのがおかしい。おかしいと思うことは聞かなければ。

「あの、なんで契約の打ち合わせからこちらに振って来るのか、詳しく説明してくれないですか?」

遠藤さんはここで困った顔をします。そして私の手元の書類を睨みながら考えている様子。気になるのは青木さんです。遠藤さんとは対照的に余裕のある雰囲気。むしろ成り行きを楽しんでいるような感じもします。

「えっとねぇ、このお施主さん、私の知り合いなの」

やっと遠藤さんが口を開きました。

「……」

で?って感じで続きを待ちます。

「でもね、出来れば顔を合わせたくないって感じの人なの」

「……」

「あ、別に変な人じゃないのよ、こうやって私に仕事くれようって人なんだから」

だったらなんで会いたくないんだろう。それ以前に根本的な疑問が今更湧いてきました。

「遠藤さんの下にいる方ではダメなんですか?」

そう言った私を遠藤さんが睨みます。怖い顔ではなくお願いする顔で。美人がそういう顔するとすんごくかわいく見える、ずるい。でも私は返事を待ちます。やがて遠藤さんは少し不機嫌そうな表情をして、

「嫌なの?」

開き直ったようにそう言いました。

「嫌って言ってるんじゃなくて、おかしいから聞いてるんじゃないですか」

「……」

遠藤さんは同じ表情のまま何も言いません。

「何か言えないようなことがあるんですか?」

「……」

話し始める気配がありません。私が折れるのを待っているのかな。でも怪しすぎて、迂闊に引き受けるわけにはいきません。私も無言で返事を待ちます。

「あんた、やりにくい子になったわね」

やっと出た言葉はこれでした。今度は私が何も言いません。

「青木さんはどうなの? やってくれるでしょ?」

遠藤さんは青木さんにそう投げかけます。

「お、俺?」

青木さんは慌てた様子です。

「青木さんからも梨沙ちゃんに頼んでよ」

「いや……」

「青木さんの部下でしょ」

たたみかける遠藤さん。青木さんは思案顔で遠藤さんと私を交互に見ます。そして小さくため息をつくと遠藤さんにこう言いました。

「僕から高橋さんに頼むとしたら、僕から全部話すことになるけど、それでいいか?」

その言葉に遠藤さんは目を瞑って上を向きます。しばらくそのまま。

「会社の人には知られたくないってことだろ?」

青木さんがもう一度口を開きました。すると遠藤さんは、右手の掌を青木さんの方に突き出して待ったをかけます。そして顔を戻すと私を見て言いました。

「そう言うことなの」

「え? なにが?」

思わずそう言ってしまいます。遠藤さんは不満気な顔をして、また私を睨みます。察しろってことなんだろうけど、ヒントが少なすぎて察しようがない。でも睨まれていると、察してあげられない私の方が悪く思えてくる。

「え~と、杉浦さんが遠藤さんのお知り合いだと言うことを、知られたくないってことですか?」

私は睨まれているのに耐えきれずそう聞きました。でも、知り合いからの依頼って隠したいものなのかな。

「杉浦さんが私と知り合いだから担当を私にしてくれって言ったの。だからそれはもう隠し事じゃないの」

遠藤さんは呆れたように、いや、観念したようにそう言います。だったら何を知られたくないんだろう。私は続きを待ちます。しばらくして遠藤さんが言います。

「青木さんとも知り合いだから」

そう言われて青木さんは頷きます。

「僕の大学の後輩」

そう言われてもわけ分かりません。二人は私の様子を観察中。え、まだわかってない私が鈍いの? ちょっと待って、整理しよう。遠藤さんと杉浦さんが知り合い同士だと言うことは会社の方も知っている。でも知られたくないことがある。それが何かだよね。他に何か言ってたっけ。そうだ、会いたくない相手とかって言ってた。でもなんで? 青木さんの後輩。大学のって言ってたから、多分前の職場の後輩ではない。と言うことは、前の職場での遠藤さんとの接点はない。一瞬、前の職場での同僚か何かで、迷惑をかけたから会いたくないのかと思いました。でもその線はなさそう。そうすると職場外での接点。友達ってこと? 会いたくない元友達? あ~わけわからん、いっそ元カレとかだったら腑に落ちるけど。

「!、!、!」

なんか腑に落ちちゃいました。私の何か思いつきましたって反応に、反応する二人。でも言っていいのかな、と思いながら言います。恐々と、二人の顔色を窺いながら、声を落として。

「ひょっとして、杉浦さんって、遠藤さんの元カレとか?」

ビンゴ? 遠藤さんは明らかに固まり、青木さんは笑顔になりました。あ~面倒くさい。そんなことはっきり言えばいいじゃん。って無理かな。私がこういう立場になったら、やっぱり頑なに隠すかも。円満に別れた彼ならいいかも知れないけど、私にはそんな相手一人もいない。ん? と言うことは、遠藤さんも杉浦さんと円満に別れたわけではないのかも。固まってないで、いい加減何かしゃべって。と思っていたら、いつもの様子に戻った遠藤さんが口を開きます。

「なんでわかった?」

そう聞かれても説明は面倒。簡単に答えます。

「勘です」

「勘か」

遠藤さんは疲れた表情でそう言います。

「会いたくない相手って、そのくらいしか思いつかなくて」

続けてそう言った私を上目使いで見る遠藤さん。

「もう全部話したら?」

遠藤さんはそう言った青木さんに、上目遣いのまま目線を向けます。やがて姿勢を正した遠藤さん。まっすぐ私を見ます。

「他の人には内緒にするって約束して」

「はい」

遠藤さんの恋バナが聞ける。なんだかワクワクしてきます。

「他の人には、久保田さんや清水君も含まれるわよ」

そう念を押してきます。私は頷きました。

「と言うか、この三人以外には絶対に内緒よ」

くどい。

「内緒って言うのは、誰にも言わないってことじゃないからね。他の人に知られないように、全力で努力するってことだからね」

なんでそこまで知られたくないのか、少し呆れてきました。

「わかりました」

私がそう答えても、まだ踏ん切りがつかない様子。でも、しばらくすると話し始めてくれました。

 杉浦さんは青木さんの大学の二年下の後輩。学部は違ったようですが、同じサークルだったようです。卒業後は地元名古屋に戻って就職した杉浦さん。青木さんが27歳で名古屋支店に赴任してから再会。時々飲んだりするようになったそうです。その頃遠藤さんは、青木さんについていた新入社員。青木さんが杉浦さんと食事したりする場に連れて行かれたそうです。そして、遠藤さんと杉浦さんの交際が始まりました。交際は数年続き、そろそろ結婚をと思っていた時に、杉浦さんが東京に転勤することに。結婚して一緒に行こうと言われますが、仕事を辞めたくなかった遠藤さん。当初は新婚別居でとか色々話をしたそうです。でも、結局は別れる選択になったようです。

 そこまで聞いて私が口を挟みます。

「別に隠さなくても、あるあるの話じゃないですか」

遠藤さんがまた睨んでくる。でも睨みながら何かを考えているようです。やがて遠藤さんは私の方に身を乗り出してきてこう言います。

「私って、ここでは男の影が皆無なのよ」

「はあ」

「今更過去のこんな話、知られたくないって分かるでしょ」

恥ずかしいってこと? 別にいいじゃん。なんだか遠藤さんがかわいく見えてきました。とりあえず頷いてから、もう一つ質問。

「杉浦さんに会いたくないって言うのは何でですか?」

嫌いになって別れたようではないので気になります。遠藤さんは乗り出していた体を戻しました。そして微妙な表情で、言葉を探しているように見えます。やがて小さく息をつくと口を開きます。

「会社辞めたくないからついて行かない。結局それが理由で別れることになったのに、その数年後に私は会社辞めたの。つまらない理由で」

なるほど、それが負い目で会いたくないんだ。合わせる顔がないと思っているんだ。でも杉浦さんはそんな遠藤さんに接触してきたんでしょ? 元の彼女に自分の家を建ててもらいたいって思ったんでしょ? 杉浦さんは遠藤さんのこと、恨んでるわけでも何でもなさそう。

「でも、杉浦さんが遠藤さんを指名したんですよね。この会社に遠藤さんがいるって知ってて。なら何とも思ってないんじゃないですか?」

私がそう言うと目をそらす遠藤さん。

「と言うか、杉浦さんと連絡取り合ってたんですか?」

私は続けて質問。

「なんで?」

目をそらしたまま遠藤さんがそう言います。

「だって、遠藤さんの今の仕事とか、この会社の事、知ってたってことですよね」

「それは青木さんが教えたの」

青木さんを睨みながらそう言います。

「あいつが家を建てたいって言うから、遠藤がハウスメーカーにいるよって言っただけだよ」

青木さんはそう言ってから簡単に説明してくれます。この春に東京から名古屋の本社に戻った杉浦さん。実家の近くにいい土地が見つかったので、そこに家を建てたいと青木さんに相談。そんな背景でした。

「もともと青木さんに依頼したんでしょ? ならそっちでやれば良かったじゃない」

遠藤さんがそう言います。

「最初は乗り気だったのによく言うよ」

困った顔で返す青木さん。

「ちがう、私は合わせる顔がないから嫌だって最初に言ったでしょ」

やっぱりそう思ってたんだ。

「最初はな。でも、杉浦に会う気がないなら、お前に頼まないだろって言ったら、急にやる気になったじゃないか」

青木さんが遠藤さんをお前と呼んでいる。遠藤さんはまた目を逸らしました。遠藤さんが何も言わないので青木さんが続けます。

「この前の最初の打ち合わせの時だって、和気あいあいって感じだったのに、どうしたの」

あれ? もう会ったんだ。で、それは和気あいあいの再会だったんだ。青木さんが言うように、どうしたんだろ。気まずい再会だったのなら分かるけど、そうではなかった様子。

「その和気あいあいってやつ、それがヤだったの」

遠藤さんのこのセリフ、分からない。さっきからの話を思い出し計算すると、ざっと二十年ぶりの再会だったはず。和やかだったのならいいじゃん。何が嫌なんだろ。青木さんは身を引いて、何か言う気配はなし。

「あの~、よく分からないですけど、聞いてる限りでは私がやらなくても、ハウスアートの方が担当でいいんじゃないですか?」

私は控えめにそう言いました。そう思ったし、本音を言うと、遠藤さんのよく分からないプライベートに、直接関わることから逃げたかったので。遠藤さんは反応しませんが、何か考えている様子。やがて私の方に向き直るとこう言います。

「ダメ、梨沙ちゃんに頼みたい」

「……」

私は黙って先を待ちます。遠藤さんは私を見たまま、また何か考えている感じ。

「杉浦さんっておしゃべりなの」

そしてそう言いました。

「……」

私はまた無言で返事。遠藤さんはまた視線を外して続けます。

「そのうち、私との昔話とかしちゃいそうだから」

それを部下なり、同僚の方に聞かせたくないってことか。

「梨沙ちゃんならそう言う話聞かされても、その場だけで聞き流してくれるでしょ?」

再び私の方を向いてそう言う遠藤さん。私は青木さんの方を見ました。青木さんはお好きなようにって、仕草で示します。少し悩んだ振りをしてから遠藤さんに向き直りました。

「分かりました。やってみます」

ホッとした顔をする遠藤さん。

「良かった。最大限フォローするから、お願いね」




 その週末の土曜日、午前九時に杉浦夫妻と待ち合わせ。場所は建築地である日進市岩崎、旦那さんの実家のすぐ近く。建築することを前提に現地調査をするためです。施工をお任せする予定の太田工務店の担当者と、その協力業者の測量調査の会社の方にも来ていただきました。その会社からは土地家屋調査士にも来ていただいています。隣地との境界を確認、設定するにはこういう資格を持った方が必要とのことでした。私はこの時点から現場に関わるのは初めてです。

 まず登記簿に基づいて土地の境界線の確認をします。そのために両隣と裏の家の方にも立ち会って頂きます。なぜなら、事前に建築地の確認を太田工務店さんにしていただいた際、境界標となる境界杭などが見つからなかったと言われたからです。なのでそれらの家の登記簿も入手。そして地積測量図の記載内容を関係者全員立ち合いの元で確認していき、新たに境界標を設置することになったのです。境界杭が見つからないということに私は疑問を感じました。でも、境界杭がなくなっていたり、実際の位置から移動していたりなんてことはそう珍しくないそうです。地震や大雨の影響、個人で庭の改造をしたときに何か分らず撤去したとか、様々な原因で。また、該当地の登記簿や地積測量図が作られた時と、現在の測量方法や測量機器、技術の違いで得られる数字に誤差が生じることなどは当たり前なのだとか。

 今回は数年間空き地状態で放置されていた土地でしたが、幸いにも隣接する三軒に境界を示す分かりやすい構造物がありました。それは塀です。測量の結果も、それぞれの塀の外側の位置で境界は間違いないという結果になりました。故にそれぞれの家の方の立ち合いの元、仮の境界杭を設置。杉浦邸の建築工事の中で、ちゃんとした境界杭をこちらの負担で設置するということで近隣の方との話は終わりました。

 そのあとは建築地と目の前の道路との高低差や傾斜なども含めての正確な再測量。地盤調査する場所の選定。上下水道や電気、ガスの引き込み位置の確認。まだまだやることは沢山ありました。でもそれらは太田工務店にお任せして、私達は杉浦ご夫妻と打合せ。


 空き地になっていた建築地は、事前に太田工務店さんで草刈りをしてもらっていましたが、足元の悪いところ。きれいな靴を履いたお二人を踏み入れさせるのは気が引けました。なので、表の歩道で話すことに。

「玄関をどの辺にしたいとか、希望のイメージ教えてくれ」

当然これは、青木さんが後輩である杉浦さんに投げかけた言葉です。

「え~、イメージですか? 何も考えてなかったなぁ」

そう言いながらご主人は、敷地の中に踏み入っていきます。奥さんも足取り軽く付いて行く。足下は気にならないようです。青木さんと私も続いて敷地の中ほどまで入りました。ご主人は敷地を見回すようにしてから道路の方を向いて、

「将来的に車四台置くとしたら、玄関挟んで左右に二台ずつがいいですよね」

と、青木さんに言いながら同意を求めるように奥さんを見ました。奥さんは頷いています。

「う~ん、この敷地だと玄関と勝手口を左右の端にして、車をその間に並べる格好でもいいかも知れんけどな。車庫としては四台分欲しいんだな?」

ご主人の返事を受けて青木さんがそう聞きます。

「ここは車無いと不便なんで、子供たちも多分乗るようになると思うから」

そう返すご主人。杉浦さんにはお子さんが二人、中学三年生の娘さんと小学校六年生の息子さんがいました。家の設計上、一緒に住むことになる家族の情報は重要なので、事前に聞き取りしてありました。

「分かった。4LDK程度欲しいってこの前言ってたけど、一階はLDKともう一部屋くらいのイメージでいいか?」

「う~ん、そうですねぇ……」

青木さんの問いかけにそう言ってから、杉浦さんは敷地を見回して考え始めます。両手を動かして建てる家のイメージを頭の中に描いているようです。そして時々奥さんの意見を聞くかのように目を合わせます。奥さんは優しい笑顔を返すだけ。お任せしますって、返事しているかのように。

「庭はどうする? 道路側にするとか裏の家側にするとか、広さとか」

敷地内を歩き回って色々考えている杉浦さんに、青木さんがまた声を掛けました。杉浦さんは足を止めて青木さんの方を向きます。

「そっか、庭も欲しいですね」

そしてまた敷地内を歩き回り始めます。その後ろを楽し気について歩く奥さん。水色にも見えるきれいなライトグレーの、ローヒールパンプスにはもう泥が付いている。スウェードのようなので、泥がきれいに落ちるかな、なんて心配になってしまう。でも奥さんは気にもしていない様子。ほんとに仲が良さそう。

 杉浦さんはしばらく歩き回ったのちに青木さんの傍に戻って来ました。

「なんかぜんぜん思いつかないです」

そしてそう言いました。

「なんで、自分の家だぞ、こんなのがいいとか色々あるだろ」

「いや、そりゃいっぱい想像しちゃうんですけど、いっぱい想像しすぎちゃって、なんかわかんなくなってきました」

杉浦さんは笑顔でそう答えます。

「ま、お前は昔からそういう奴だよな」

青木さんはそう言うと奥さんに顔を向けます。

「奥さんはこんな家がいいってイメージありますか?」

「え、私は……」

そう言って旦那さんの方を見ます。

「好きなこと言っていいよ。家で過ごす時間が一番長いのはお前だろうから、お前の希望が最優先だよ」

「そんなこと言われても、家建てるなんて初めてだから」

「大丈夫だよ、とりあえず希望を言うだけだから」

「だったらお父さんから言ってよ」

「言ったろ、母さんの希望が最優先だって」

「でも、……だめ、今回はお父さんが考えてよ、私は次の時に考えるから」

「次って、次があるのか」

等と楽し気に話すお二人。青木さんが呆れたような笑顔で割り込みました。

「いいよ、無理に考えなくて。何かこれはって希望があるかと思って聞いただけだから」

二人が青木さんの方を向きました。青木さんが続けます。

「いくつか間取りのプラン作るから、それ見てもらってからまた聞くよ」

「すみません、そうしてもらった方が助かります」

杉浦さんがそう返す横で奥さんも頷いています。

「わかった。ほんとは一つ二つでも希望を聞かせてもらった方がやりやすいんだけどな。ま、気に入ってもらえそうなプランを考えるよ」

そう言って青木さんは表の道の方に歩き始めました。それに付いて行きながら杉浦さんが青木さんに言います。

「すみません、何も考えてなくて」

「ま、こっちは仕事させてもらうわけだから文句はないけどな。でも、普通は家建てるなんて大仕事、ああしたい、こうしたいってのがほっといても出てくるはずなんだけどな」

歩道に出て立ち止まった青木さんに並んで、杉浦さんも立ち止まります。

「ですかねぇ。でも、先輩と小百合にお願いするんだから、任せてればいい家が出来ると思っちゃってるんで」

そして笑顔でそう言いました。

「あのなぁ、信用してくれるのは嬉しいけど、お前や奥さんがほんとに望むものは教えてくれないと分からないからな」

青木さんも和やかに二人を見ながら言葉を返します。

 私はそんな和やかさの中でちょっと気まずさを覚えていました。ご主人が口にした「小百合」と言う名前。それは遠藤さんの名前です。昔の彼女なのでそう呼ぶ癖がついているのでしょう。でも、奥さんの前でそんな呼び方をするなんて。私はそのセリフを聞いた時、一瞬驚いて固まってしまいました。奥さんはどうだったのだろう。でも、奥さんの後ろにいた私からは、反応も表情も窺えませんでした。



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