5 年下の男の子


 休日のはずの土曜日、私は憂鬱な気分で車を走らせていました。根岸邸の現場には九時頃着く予定です。昨夜、今日出掛ける内容を朱美に話しました。すると、ついて行くと言い出します。一瞬、助かると思いましたが、そのあとの朱美のセリフで却下しました。

「高校生の悩み相談なんて面白そう」

酔っぱらって出たセリフだと思いますが、朱美ならしらふでも言いそう。いや、私も他人事なら面白そうと言うかも。それに、相談してくれるかどうか。そこが問題だし、相談されて私に何が言えるかもっと問題。

 悩んでいるうちに現場に着いてしまいました。昨日と同じコインパーキング。とりあえず、雑記帳のようにしているノートとヘルメットを持って降ります。すると奥に停まっていたSUVから人が降りてきました。すらっとした見覚えのあるきれいな足の女性、遠藤さんでした。と言っても今日はその美脚は見れません。グレーのスラックスにブラウス、その上からハウスアートのジャンパーという姿だったから。足下も薄いヒールの革靴です。現場用のスタイルかな? 私の方に歩いて来ます。挨拶する前に話しかけられました。

「何時に来るか聞きそびれたから、八時から待ってたよ」

「はあ、おはようございます」

「おはよ」

「遠藤さんもみえるとは思いませんでした」

援軍に喜びたいところですが、微妙かも。

「幸一君の事、何も聞いてないでしょ。先に知ってること話しておこうと思って」

「……それは菅野社長のいないところでってことですか?」

「察しがいいのね。幸男さんは社長に知られたくないみたいだから」

「幸男さん?」

「社長の息子さん、専務よ。そして幸一君のお父さん」

「はあ」

お父さんも同じ会社だったんだ。とりあえず私の車の中に移動。

「どこまで聞いてる?」

遠藤さんが車に乗るなりそう聞いてきます。

「う~ん、学校辞めるって言い出してから話さなくなったとか……。あ、その前から暗くなったとか。そのぐらいです」

「本人とは昨日どんなこと話したの?」

「え~、おじいさんの仕事手伝って偉いね見たいなこと言ったら、大工やりたいわけじゃないとかって。後は私がなんでこの仕事やってるのか、いえ、私に好きでこの仕事やってるのかって聞いてきたりして、最後に今の学校は辞めたけど、他の学校には行くって。そのくらいです」

遠藤さんはちょっと怖い顔でこう言います。

「もう少し正確に言えない? 話し始めたきっかけと、彼に好きでやってるのかって聞かれてなんて答えたのか。教えて」

なんか怒られてる。

「話し掛けたのは、あそこのコンビニの駐車場に彼がいたからです」

私は車から見えているコンビニを指さします。

「私が現場を出る少し前に、彼は飲み物を買ってくるように菅野社長に言われてコンビニに来ていました」

「……」

「私もここまで戻って来てから、コンビニにトイレを使いに行きました。行った時にはもう買い物を済ませた彼が、駐車場の車止めに座ってスマホを見ていました。その時も声を掛けましたが、あ、買い出しご苦労様って声を掛けましたが返事がなかったので、そのままコンビニに入りました」

また怒られると嫌なので、よく思い出しながら正確に言い直しました。遠藤さんは無言です。

「コンビニから出て来てもまだ彼は同じところにいました。で、気になって、あ、買い出し中なので戻らなくていいのか気になって声を掛けようと思いました」

「……」

「正直、なんて声かければいいのか分からなかったので、おじいさんの仕事手伝い始めてどのくらい? って聞きました。一週間くらいって言ったと思います」

「すぐにそう返事した?」

遠藤さんは私の話を遮るようにそう聞きます。

「すぐではなかったと思います。少し考えてからって感じですかね」

「それで?」

「私もこの仕事始めたばかりだからおんなじだねって言ったら、自分は手伝いだけなら子供の頃からやってるとかって。そして大工やる気はないって」

「……」

「あ、それはすぐにそう言ったと思います」

「わかった、続けて」

「それで、私に好きでこの仕事……、じゃなくて、やりたくてやってるのかって聞いてきました。私は答えに困ってしまって、やり始めたら面白いし楽しいよと答えました。そしたらこんな仕事楽しいなんて変だって言われて、建物が出来上がっていくところ見られるなんて楽しいよって、そんな感じのこと言いました。すみません正確じゃなくて」

「ううん、それから?」

「それで話は終わりです。そのあと彼は立ち上がって、今の学校は辞めたけど、他の学校には行くって言ったら、現場に戻って行っちゃいました」

私が話し終えると遠藤さんは思案顔で黙り込みます。次に遠藤さんが何を言うのか待つしかない私。なんだか緊張しています。先生に呼び出されて怒られてる生徒の気分。やがて遠藤さんが口を開いてくれます。

「幸一君ね、いじめって程ではないと思うんだけど、それに近い状態みたい。年末くらいから」

やっぱりいじめなんだ。

「原因はね、菅野工務店で建てた家に住んでる子がクラスにいてね、その子の家が雨漏りしたの。12月の後半、終業式の何日か前くらいに」

「それでですか」

「うん、手抜き工事だって、その家の子が学校で話して騒ぎになったみたい」

「それは……」

「その家は私の会社で請け負って、私の会社が菅野工務店に施工依頼したもの。六年前の工事で、当時の担当は私じゃないけど、その雨漏り補修には私も関わった。結論は施工不良でも何でもない。台風か何かで飛んできたものが屋根の一部を破断させていただけ。ちゃんと足場まで掛けて調査したから、家の方にも見て頂いて納得してもらった。そして修理依頼をしていただいたので、ちゃんと修理もした。当然修理代は頂いたけど、納得した上での修理依頼だったから、トラブルになんてならなかった」

「それでも騒ぎは治まらなかったってことですか?」

「子供の世界ではね。しかも、手抜き工事したくせに修理代までぼったくったって、その家の子がクラスで面白おかしく言ったみたい」

「ひどい」

「この話はいじめの兆候が出始めた時に、幸男さんが学校に呼ばれて先生から聞いたもの。一月の終りくらいって言ってたかな」

「幸一君は手抜き工事じゃないって知ってるんですか?」

「もちろん、幸男さんがちゃんと説明してる」

「それをクラスの友達とかに説明したのかな」

「どうだろ? でも、子供って騒げる話題の方が好きでしょ?」

「そんな、でも……」

「でも、学校なり先生がちゃんとホームルームとかで説明したら終りって言いたい?」

「はい」

「そしたら最初に騒ぎを起こした、その家の子が完全な悪者になっちゃう。その子がいじめにあっちゃうかもしれない」

「そんな、幸一君を犠牲にするんですか?」

なんか腹が立ってきました。

「犠牲にするわけじゃないけど、少しの間我慢してって感じかな」

「……」

「この話をおじいさん、菅野社長に隠してる理由分かる?」

「……」

私はなんだか頭にきていて考えられません。

「今の高橋さんみたいになっちゃうから」

「え?」

そう言われて少し冷静に。私みたいに?

「カッとなって学校に乗り込みかねないでしょ?」

私そんなに熱くなってるように見えてたのかな。確かにカッとなってたけど。

「要はね、クラスの子達も、もう真相は分かってるのよ。それでもまだ騒いでる方に乗っかってる。だから先生も、と言うか学校もその後のことが読めないのよ」

「……」

「仮に先生なり学校がちゃんとクラスに説明したりしても、さっき言ったみたいに言い出した子に非難がいくとも限らない。ひょっとしたら、先生や学校使ってまで誤魔化そうとしてるとかって、余計酷い事を言われるかもしれない。そう言うことを先生たちも考えてるみたいよ」

「……お父さんは、幸一君のご両親はそれで納得してるんですか?」

「納得してるわけじゃないけど、他に良策も出て来ないから」

「自然消滅するのを待つってことですよね」

「そう言う事ね。ちょうど春休みが終われば新学年でクラス替えだし」

私の高校時代って、ここまでひん曲がった友達関係があったかなと考えてしまう。確かにいじめ的なことはあった。でも、もっと小規模だったし、ほんの短期間だったと思う。学校を辞めようとまで追い込まれるようなことはなかったと思う。いや、私がいじめられる立場になったことがないから分からないだけかも。

「でも、もう学校辞めるって言ってるんですよね、幸一君」

「幸男さんにはそう言ったみたい」

と言う事は、まだ正式に辞めたわけではないのかな。

「そう言ってから口を利かなくなったらしくて、その後の話し合いが家族で出来ていないのよ」

なるほど。

「それでおじいさんの所の手伝いに行かせてるわけですか。何か話すかもって」

「そんなわけないでしょ、菅野社長には隠してるんだから」

あそっか、そう言ってたっけ。ならなんで?

「幸一君が自分で言い出したみたいよ。多分、家にいたくないからじゃないかなって、幸男さんは」

さっきから感じていましたが、なんで遠藤さんこんなに詳しいんだろう。聞いてみることに。

「なんでそんなに詳しく知ってるんですか?」

「幸男さんから聞いてるから」

「……」

それは想像つくけど、詳しすぎないかって聞きたいの。

「あんまり言いたくないけど、この件では奥さんがすごく敏感で、すぐヒステリー気味に興奮しちゃうらしいの。それで夫婦での話し合いも出来てないって。だから私に話すみたい。相談されてるって言うか、愚痴を聞いてあげてるって感じかな」

「……」

なんか大人の世界の話で、私にはまだまだ早そう。なんてことを思っているのに、遠藤さんはこう言います。

「幸一君の愚痴を聞いてあげてよ」

「私にはそんなこと……」

気付くと遠藤さんが私の方を見ていました。

「高橋さんは優しそうな雰囲気持ってるから、幸一君も話していいかなって思うんじゃない? だから昨日も高橋さんとは会話が成立した」

なんだか青木さんにもおんなじような事を言われた気がする。

「お姉さんになった気で接してあげてよ」

青木さんと遠藤さんが結託してるような気がする。え、接してあげて?

「現場にいるんですか? 幸一君」

「いや、知らない」

そのあと、菅野社長には出来るだけ具体的なことは言わないように、釘を刺されてから車を出ました。一時間近く車中で話していました。

 遠藤さんと現場に近付くと菅野社長がすぐ出てきました。遠藤さんが一緒にいることに少し驚いた様子。

「嬢ちゃん、来てくれてありがと」

嬢ちゃんはそろそろやめて欲しいな。

「いえ、幸一君いるんですか?」

「いや、ここにはおらん」

菅野社長がそう言ってる時に現場内からもう一人男性が出てきました。菅野工務店のジャンパーを着ています。菅野社長はそれに気づくとこう言います。

「息子の幸男、幸一の父親や」

私は幸男さんと挨拶して名刺交換しました。

「昨日こいつから全部聞いた」

菅野社長はそう言います。遠藤さんは少し驚いた顔をします。

「昨日うちに来て大声で話し始めるから、取り敢えず親父の家の方に行って話した」

幸男さんは遠藤さんに説明するように言います。

「息子さんの家まで行ったんですか?」

私は菅野社長にそう言ってしまいます。

「家までって、隣やからな」

そうなんだ。

「なんや、みんな知ってたんか?」

菅野社長は少し不機嫌そうな顔で私と遠藤さんを見ます。

「すみません、私は知ってました。でも、彼女はさっき私が話すまで知りませんでした」

遠藤さんは少し頭を下げてそう言います。菅野社長はしばらく遠藤さんを見ていましたが、やがて気を取り直したように口を開きます。

「昨日話した通り、この嬢ちゃんとは話したらしいんや」

それは幸男さんにでした。

「高橋さん、幸一は受け答えしただけですか? それとも自分から何か話しましたか?」

幸男さんが私に聞きます。

「私の話し掛けたことに答えた格好でしたが、彼から私への質問もあったので、そう言う意味では彼から話してくれたのだと思います」

「質問、どんな質問ですか?」

「この仕事をやりたくてやっているのかって聞かれました」

私の答えを聞いて、幸男さんはしばらく考えているようでした。

「ま、昨日のことはもういい。それより今からもう一回、幸一と会ってくれへんか?」

菅野社長がそう言い出します。

「会うってどこでですか?」

「この近くに別の現場があるんや、そこに今日はおる」

「そうですか、でも、会っても話してくれるかどうか分かりませんよ。それに、何を話したらいいかも私には分かりませんし」

私がそう言うとしばらく沈黙でした。でも幸男さんが口を開きます。

「会ってくれるだけでもいいです」

「……」

私は何も言えませんでした。

「あの子は以前から少し人見知りなところがあるんです。初対面の大人と話すなんてまずなかった。挨拶や聞かれたことへの受け答えくらいはしても会話は成立しない。まして最近は挨拶すらしない。でも高橋さんとは会話できたようだ。幸一もあなたになら何か話すと思う。何でもいいから幸一の話を聞いてやって欲しいんです。あいつも何か誰かに話したいはずなんです。お願いできませんか」

「……」

思っていたよりずっと深刻な話でした。いや、深刻な思いでした。当然だと思います。当然だと思うから私は迷っていました。流されるように今日はここまで来ましたが、私なんかがこのことに関わってもいいのかと考えてしまう。

「顔を合わせても何も話さなかったらそれでもいいです。僕も必ず成果が出るなんて思ってません。でも、何かきっかけになればと……」

幸男さんのその言葉に菅野社長も頷いています。もう断りようもありません。

「分かりました」

私はまたこのセリフを言ってしまいます。


 幸一君は根岸邸から車で十分くらいの所にある、足立邸と言う現場にいるとのことでした。そこは引き渡し目前で、明日の朝から最後のお施主さんの検査があるとか。そのために今日は幸一君と菅野工務店の女性従業員の二人で、隅々まで掃除しているのだそうです。そして菅野社長達の段取りはよく、女性従業員には話をしてあるそうです。幸一君にも設計事務所の人が検査に行くかもしれないと言ってあるとのこと。なので私は検査に来た設計事務所の人間と言うことになります。菅野社長に教えてもらった駐車場に車を停めて現場へ歩いて向かいます。

 真新しい家の前にすぐ到着しました。玄関を開けると菅野社長くらいの年の女性が廊下を拭いていました。私を見ると立ち上がって挨拶してくれます。ちょっと痩せすぎなくらい細い女性でした。玄関に入ろうとすると、そこで靴を脱ぐように言われます。玄関内の土間はもう土足禁止のようです。靴を脱いで玄関を上がろうとすると、柔らかい紙か不織布で出来たスリッパを渡されます。汚したり傷を付けないようにこれを履けと言う事でしょう。それを履いて上がります。すると小声で、二階にいますと言われました。私は二階に上がります。幸一君を探しているように思われないために、階段を上がってすぐ右の部屋に入ります。誰もいない部屋の隅々を見渡して、検査している振り。意味もなく物入れを開けたり、サッシを開け閉めしたりしてみます。そして廊下も見回している格好をしながら隣の部屋へ。いました。物入れの下の段にかがみこんで、雑巾がけをしているみたいです。心臓がバクバクしてきます。さあどうしようかな。

 幸一君が私に気付きました。少し驚いた顔をしますがすぐに目をそらします。そして雑巾がけを続けます。

「こんにちは」

私は声を掛けます。返事はなし。反応もしませんでした。

「ちょっと見させてもらうけど、邪魔だったら言ってね」

無反応です。私は部屋の中を見て回る振りをします。振りをしながら話しかけるきっかけを、話しかける話のネタを探します。でも思い浮かばない。考えれば考えるほど思い浮かばない。あんまり見回し続けていても不自然。サッシを開けてみる。部屋の中は少し暑いくらいだったので、窓を開けると気持ちいい。気持ちいい? こんな暑い中で雑巾がけなんかしてたら本当に暑くないかしら。そっと幸一君の方を見ます。物入れの上の段を拭いていました。思った通り汗ばんでいます。

「部屋の中は暑いね、外の風は気持ちいいよ」

そう言ってみますがやはり無反応。雑巾がけの手の動きが止まるどころか、少しゆっくりになるとかそんな様子もなし。完全に無視されてる。そう思うとなんだか傷付いてしまう。私が傷付いている場合ではないのだけど、寂しく感じる。何んとなく目を落とします。開けた引き違い窓のレールに目がいく。別にレールで何かを見つけようと思ったわけではありませんが、アルミのレールの隅に埃なのか砂なのか、そんな感じのものが隅を埋めるようにこびりついている。指先で擦り取ろうとしてみるけど、爪も届かない。指先の角度や向きを変えて、何度かやってみるけどダメ。なんかどうしてもその汚れを落としたくなってきました。私は胸のポケットからシャーペンを抜きます。そのペン先でレールのその汚れを取ろうとした時、後ろからかわいい男の子の声がしました。

「まって」

ただその一言ですが、確かに聞こえました。私は驚いて手を止めます。そう、ただ驚いて。汚れを落とそうと、そっちに頭がいっていたので、ただの驚き。演技でも何でもありませんでした。驚いた延長線で声の方に顔が向きます。立ち上がった幸一君がこちらを見ていました。目が合うと一瞬そらす。でも俯き加減でこちらを見ながら寄って来ました。私もレールに向って伏せ気味だった体を起こします。幸一君は私が手を出そうとしていたレールを見ました。するとズボンの後ろのポケットから白い樹脂製のヘラを取り出します。そのヘラの先に雑巾をかますと、それで拭いていきます。

「へえ、そうやって拭くといいんだ」

これも演技ではなく、自然に出た感想。でも返事はない、こともなかった。

「……アルミは固いもので擦るとすぐ傷が付くから」

少し小さめで、緊張しているような感じはする声ですが、幸一君はそう答えてくれました。

「そうなんだ。ごめんなさい、傷付けるところだった」

これも自然に出た言葉。そして気付きます。幸一君は私がすることを見ていた。私に注意を向けていた。

「……いいよ、でも気を付けて」

また小さめの声が返って来ました。

「まだ手伝い始めて一週間くらいって言ってたけど、よく知ってるね」

私は普通に会話します。普通を装ってるわけではなく普通に。だって、会話しに来たとか忘れてたかも。普通に話し掛けたら普通に返事が来たから。そしてまた普通に言葉が返って来ました。

「言わなかったっけ? 子供の頃から、忙しいと手伝わされてたから」

「そっか、手伝わされてたのか」

私は笑顔で幸一君の顔を覗きながらそう言います。照れたように顔をそらす幸一君。

「なに?」

「ううん、私はまだ何も知らないから、幸一君の方がすごいなって思って」

幸一君はそれには応えずに、拭いていた窓を閉めます。終わったのかな? すると開けていたのと反対側を開けて、そっちのレールを見ます。

「やっぱりこっちもだ」

そう言う幸一君の言葉に釣られて私はレールを覗きます。同じように汚れがこびりついてる。

「よく分かったね」

素直な感想。

「クリーニング屋さんは水洗いした後、こういう残った汚れを拭いて回るんだけど、多分ここは拭いて回るときに忘れたんだと思う」

「そうなんだ」

「水洗いした後だと、汚れもふやけてるからすぐ取れるんだけど、こうやって乾いちゃってると簡単にはとれない」

「良く知ってるね」

「他にもあるかも、もう一回全部見なきゃ」

手を止めずにそう言う幸一君。

「なんか、プロだね」

一瞬手が止まる幸一君。でも続けます。私が見ているとこう言われます。

「仕事しなくていいの?」

仕事? そうだった、検査してるんだった。振りだけど。

「ごめん、邪魔したね」

それには返事してくれませんでした。私は部屋のほかの部分を見て回ります。さっき幸一君が拭いていて見れなかった物入れも。う~ん、この部屋はもう見るところがない。壁に取り付けられたリモコンに目がいきました。一つはエアコンだけど、もう一つは何だろ。よく見ると照明のリモコンのようです。手に取ってみると、明・暗の上下ボタンがあります。試してみることに。照明の明かりが強くなったり弱くなったり。そうなるとは思いましたが、最近はこういうことが出来るんだと感動。すると目が合いました、幸一君と。こいつ何やってんだ? って顔してます。彼はタオルを敷いた床の上に置いていたバックから、きれいな雑巾を出します。そしてそれを私に差し出しました。

「触ったところはこれで拭いてください」

「はあ、あ、ごめんなさい」

私は受け取って、リモコンを拭いて戻します。

「触ると触った跡が付くかもしれないから」

そう言って窓に戻ります。

「そこまで気を配るんだね」

「……じいちゃんがそう言うから」

「おじいさんが?」

「うん、新品って言われたものに、手垢とか指紋とか付いてたら嫌だろって」

おじいさん、菅野社長のその心配りもすごいと思いますが、それをちゃんと実行しようとしている幸一君もすごいと思いました。

「分かった。触ったら拭いていくね」

私はそう言いました。そう言ったものの、この部屋でやることがなくなってしまった。ずっと見てるのも変だし、他の部屋に行くしかない。

「邪魔してごめんね、この部屋は見終わったから隣いくね」

「……」

一瞬こちらを振り向きかけましたがそれだけ。返事はありませんでした。ほんとにしょうがないので隣の部屋に行きます。また振りをしながらうろうろ。うろうろしながら思います。幸一君は、本当はこの仕事が好きなんじゃないかって。遠藤さんから聞いた話では、学校に行かないと言ってから、自分でおじいさんの手伝いしに出たってことだし。家にいてなんだかんだ言われるのが嫌なだけだったら、こんなことしなくてもいい。高校生が目的もなく毎日長時間、時間を潰すなんて限りがあるとは思う。でも、それでおじいさんの仕事手伝うかな? 避けようとしているお父さんも同じ会社なのに。子供の頃から手伝っていたって言ってた。高校生になっても手伝っている。嫌ならやらないでしょう、高校生は。幸一君はこの仕事好きなんだと、最初の考えに戻ってしまう。そしてさらに思う。そのおじいさんたちが建てた家で雨漏りして、手抜き工事だと言われショックを受けた。でもそれは誤解だったとわかって、釈明するけれど誰も取り合ってくれない。それで何もかも嫌になった。そんなところかな。

 私はいつの間にか部屋に立ちつくしていました。幸一君が入って来て、そんな私を変な目で見ます。そりゃ変だよね。でも幸一君は何も言わずに窓を開けてレールを見ています。本当にもう一回見て回ってるようです。私は話し掛ける言葉が見つからないのと、ボケっと立ちつくしてるところを見られた気恥ずかしさで部屋を出ました。二階はもう見るところがない。しょうがないので下に降ります。しっかり階段もチェックしている振りをしながら。広いリビングに入りました。リビングとつながっているキッチンも広い。こんなに広いとエアコン効かないだろな、なんて思ってしまう。電気代の心配も。つくづく小市民な私です。

 キッチンに移動。広すぎると料理しにくいとも聞くけれど、やっぱりいいなぁ。色々開けてみます。食洗器が内蔵されている。羨ましすぎて、これを洗うのめんどくさそうと思ってしまう。IHクッキングヒーターも興味がある。一度使ってみたいな。表面フラットなので掃除も楽そう。さっき渡された雑巾で、表面をそっと拭いてみたりして。すると、また目が合ってしまう、幸一君と。いつの間にかリビングにいました。なんか呆れられてるような表情。快適そうなキッチンを見て、うっとり顔してたかも。またまた気恥ずかしさが襲ってきます。キッチンとリビングを隔てるカウンターテーブルに幸一君が近付いてきます。

「汚れてた?」

あ、拭いてるとこしか見られてなかったのかも。

「ううん、いいなって思って触っちゃったから」

言い訳しました。それを聞くとリビングを出て行きます。お風呂とかがある辺りに向かう様子。ついて行こうかと思いますが、ついて行ってどうするか思いつかない。とりあえずリビングに入ってうろうろ。車庫に面した掃き出し窓の傍に寄ると、駐車スペース脇の花壇が見えました。出来上がったばかりの花壇。そして植えられたばかりの草花。その中にピンクの小さな花をたくさんつけた一角があります。その横には黄色の花をつけた一角。私の好きな花でした。うちのベランダにも小さなプランターに押し込まれてあります。うちのはまだ花が咲いていない。あれ? うちのは毎年ゴールデンウィークくらいに咲き出すような気がする。と言う事は同じだと思ったけど違うのかな?

「また汚れてる?」

不意に後ろから声がしました。サッシ際にしゃがんでいた私は、驚いて尻もち。危うくガラスを蹴とばすところでした。尻もちをついたまま体勢を整えて言います。

「ううん、外のお花見てたの」

あ、またさぼってると思われたかな。私のセリフで花壇を見ている幸一君に追加で言い訳。

「もう仕事終わったから」

「あれ、なんて花?」

「多分、カランコエ」

「カランコエ」

私の言葉を繰り返す幸一君。

「うちにもあるの。うちのは赤いお花だけど」

「好きなんだ」

「うん、小さなお花が沢山ばぁって咲いてるの、かわいくない?」

「そうだね」

「幸一君が好きな花は?」

「え? ……花なんて知らないよ」

「そっか」

「咲いてるときれいだとは思うけど」

なんか、普通に会話してることに気付きます。ちょっと嬉しいかも。幸一君は窓から外を見回した後、玄関の方に行きます。そしてすぐ戻って来ます。私は立ちあがっていました。一応、尻もちをついた床を拭いてから。

「ばあちゃん知らない?」

そう言う幸一君。

「ばあちゃん?」

「うん、下にいなかった?」

あの人、幸一君のおばあさんだったんだ。と言う事は、菅野社長の奥さん? 幸一君にはうちの事務所から一人ついてるからとしか言わなかった。奥さんなら奥さんって言えばいいのに。愛想の悪い感じの人だったので、私の接し方もあまりよくなかったかも。

「私が来た時にはいらしたけど、降りて来てからは、そう言えば見てない」

私も周りを見回すような格好でそう答えます。

「そっか」

そう言うと玄関前の階段に行って座り込む幸一君。

「どうしたの?」

私は近くに寄ってそう言います。

「別に、やることなくなったから」

「お掃除終わたんだ」

しばらく黙ってから幸一君がまた口を開きます。

「多分、床とかワックス掛けるんだけど、ばあちゃんこないと分かんない」

「そっか、どこか行かれたのかな?」

またしばらく沈黙、そして。

「車行ってタバコ吸ってるんじゃないかな。ばあちゃんタバコ好きだから」

「そうなんだ」

またまた沈黙。私は会話のネタを探しながら、玄関横の収納スペースを見たりしていました。するとまた口を開いてくれる幸一君。

「お姉さんは設計事務所の人だよね」

おお、またお姉さんと呼ばれた。

「そうだよ」

しばし沈黙。今度は私から何か言おうかと思ったら、先に幸一君が声を出します。

「やっぱり大学とかで建築の勉強したの?」

「ううん、私は文系だったから」

「なんで設計事務所入ったの?」

なんで、か、何て言おうかな。

「もともとは全然違う業種に就職したの。でもその会社辞めちゃって、この前までアルバイトなんかしてブラブラしてた。そんな時にちょっとした知り合いだった、今の会社の社長さんに誘ってもらったの。うちの会社来ないかって。それが設計事務所だったってわけ」

「ふ~ん」

反応が薄い。ま、興味ないよねこんな話じゃ。

「なんで最初の会社辞めたの?」

何気に痛いところをついてくるやつ。

「詳しく話すと色々あるけど、簡単に言うとリストラされたの」

嘘ってわけじゃないからいいでしょう。

「リストラ?」

「人員整理ってやつ。私、役に立ってなかったのかな? 整理される方に入れられちゃったの」

「……」

なんか重いこと言っちゃったかな。幸一君が黙り込んでしまった。

「昨日は大工なんてやらないって言ってたけど、ほんとは家を作るこの仕事、好きなんじゃないの?」

「……」

反応しないか。

「家を作る職人さんになるんなら、若いうちから弟子入りって言うのかな? そんな感じで腕を磨いた方がいいかもしれない。でも、幸一君の所は工務店でしょ? 工務店としていい家作りをしたいなら、さっき幸一君が言ったみたいに、ちゃんと専門的な勉強した方がいいと思う」

まだ反応なし。私の浅はかな知恵ではもうセリフがないよ。でも続けるしかない。

「今の学校辞めて、他の学校行くとかって昨日言ってたけど、他の学校って言うのはもう決まってるの?」

「……」

「高校生だよね? 幸一君いくつ?」

「……十六」

良かった、答えてくれた。十六、今年十七? と言う事は、今年は高二か。

「高校だと、編入試験とか受けなきゃいけないし、簡単に学校かわれないよ」

「……」

「あと一週間もしたら新学期、て言うか新学年でしょ? どうするの?」

「……分かってるよ。でも関係ないでしょ」

まずいかな、なんか気まずくなりそう。

「関係ないけど、もったいないなと思って。すんなり進級して、進学していけば、それだけ早くやりたいこと出来るのに」

「……」

「やりたいことがない人は、回り道してもいいかもしれないけど、やりたいことがある人は、最短コース行かなきゃもったいないよ」

「……」

また反応しなくなった。そして私は自分でも思っていなかった質問を、ストレートにしてしまう。

「何で学校辞めるの?」

膝の上からぶら下がるようにあった幸一君の掌が、膝の上に置かれる。拳の形になって。

沈黙、沈黙、沈黙。私もこの質問をした以上、返事を待つしかないと思ってしまう。

「……じいちゃんから何か言われたんだろ」

沈黙の後の幸一君のセリフ。

「言われたよ。言われたと言うか、幸一君が学校を辞めるって聞いた。その理由がおじいさんにも分からないって。だから心配してるんだよ、私なりに幸一君の事」

「……」

「昨日初めて会ったのに、心配してるなんて言ってもおかしいかもしれないけど。コンビニで初めて話した時、私は幸一君の事、学校辞めてブラブラしてるから、おじいさんの仕事手伝わされてる子だとしか思ってなかった。不貞腐れたように座り込んで、スマホ見てる姿見た時なんて、ああ、そのうちこの子はぐれちゃうんだろなって思ったよ」

「……」

「でも、他の学校行くって幸一君が言ったから心配になった。学校に行きたい子なんだって。そして今日ここで会って、感心しちゃうくらい丁寧な仕事してる幸一君の姿見て思った。この子もいい家を作りたいんだって。ちがう?」

「……」

握っていた拳からは少し力が抜けたような気がする。今度はこう聞こうと、私がそう思って聞きました。

「本当に学校辞めるの? 辞めなきゃいけないの?」

すぐに反応がありました。でも、答えてくれたわけではありません。いえ、これも答えたうちに入るのかも。幸一君は立ち上がって玄関から出て行ってしまいました。


 私は閉まった玄関をしばらく見ていました。でも、どこに行ったんだろうと思うと心配になって来ました。慌てて玄関を出ます。すると先程の女性がこちらにやや速足でやって来ます。

「何やったの!」

いきなり女性、いや、幸一君のおばあさんに詰め寄られました。

「何ってその、……幸一君は?」

「車に置いてた自分の鞄もってどっか行った。で、何があったの、話し出来たの?」

なんだか怖い感じ。

「話はそれなりに出来てました」

「それなり?」

「いえ、普通に」

「ほんとにあの子話したの?」

「はい、でも、何で学校辞めるのか聞いたら出て行ってしまって」

するとおばあさんは一息飲み込んでから声を荒げてこう言います。

「なんでそんなこと聞くの! 触れたらいかんことやって分らんの、ええ?」

「すみませんでした」

もう雰囲気で私はそう言って、頭を下げました。おばあさんは沈黙。頭を下げている私にはおばあさんの表情や反応が分からない。次は何を言われるのか怖かったです。でも、次に聞こえたおばあさんの声は、棘は含んでいるもののトーンダウンしていました。

「まあいいわ、どうせダメやと思ってたから。気のすむまでそっとしとくしかないんやから」

「……」

私は頭を上げましたが、それは違うと思いました。そんな腫れ物に触るみたいな扱いをされたら、幸一君はますます話せなくなってしまう。そう思うけど言えません。

「もう用はないんでしょ、帰ってくれてええよ」

そしてこう言われてしまいます。しょうがないので挨拶して離れました。おばあさんは旦那さんの、菅野社長のこの計らいに最初から反対だったのでしょう。最初から私に愛想が悪かったのはそれででしょう。ま、もともとああいう人なのかもしれないけれど。私は車に乗ると根岸邸の現場に向かいました。話が終わったら待ってるので戻って来てと言われていたから。おばあさんにああ言われた後なので気が重い。コインパーキングにはまだ遠藤さんの車がありました。彼女も現場にいるようです。

 根岸邸の現場前には誰もいませんでした。ちょうど十二時を少し過ぎた頃です。職人さんたちも食事に行ってしまったのか、中から作業している音も聞こえません。菅野社長や遠藤さんもお昼に行っちゃったかな。建物の前面に下がっているシートをめくって中を覗きます。目の前のリビングの奥で、遠藤さんと幸男さんがしゃがみ込んで墨を打っているようでした。墨を打つと言うのは、図面に描かれている基準となる通り芯などの線を、実際の現場の床や壁に描くことです。墨を染み込ませた糸をあらかじめ罫書いておいたポイントとポイントの間に張って、それをはじいて床などにまっすぐ、糸から墨を写します。そうやって現場の中に図面と同じ位置に線を描き、作業の基準とします。そんなことを遠藤さんがやっていました。この人も現場の人なんだと改めて思いました。右側の廊下にいた菅野社長が私に気付きました。

「嬢ちゃんすまんかったな」

そう言って私の方へ来ます。遠藤さんも幸男さんも、その声でこちらへ来ます。

「幸一は、嬢ちゃんからも逃げたみたいやな」

そう言う菅野社長。奥さんから電話でもあったのでしょう。

「はい、すみませんでした」

「いや、謝らんでも。嬢ちゃんが悪いわけやないから」

「今日は高橋さんとも、何も話さなかったですか?」

菅野社長に続いて幸男さんがそう聞いてきます。私がどう話そうかと一瞬考えていると、菅野社長が続けて言います。

「うちのからはだめやったと言って来た。何も言わんと、どっかに行ってもうたって」

そんなことはない、ちゃんと会話は成立していた。普通に話せていた。奥さんはその場にいなかったのに、何を言ったのだろう。

「いえ、話は出来ました。普通に、普通のことを沢山話しました」

三人が改めて私に注目します。私はかいつまんで幸一君とのことを三人に話しました。

「でも最後に、学校を辞める理由を聞いてしまったんです。そしたら黙って、出て行ってしまいました」

「そうか」

私の話を聞き終えて、菅野社長がそう漏らすように言います。

「すみませんでした。調子に乗ってつい行き過ぎてしまいました」

私はそう言って頭を下げます。

「いや、高橋さんやめてください。こんなことお願いした私たちが悪いんですから」

幸男さんがそう言ってくれます。

「そうや、それに、あいつがそんなに話しただけでもすごいことや。ありがと、あとはうちの問題や。すまんかったな」

菅野社長はそう言うと立ち上がって外に出ます。奥さんが家に戻ってお昼食べるように言ってると言うことです。私の事で話でもあるのでしょう。そう言うわけで、菅野社長と幸男さんとはそこで別れました。遠藤さんとコインパーキングに向います。

「お疲れ様」

遠藤さんのねぎらいの言葉。

「はあ」

疲れましたけど、お疲れさまと言ってもらえることをしたのかどうか。

「ほんとに疲れてるみたいね」

そう言う遠藤さんの、スラックスの膝下が汚れている。気付いていないのか、気にしていないのか。

「いえ、疲れること何もしてないですから」

遠藤さんは私の顔を覗き込むようにして微笑みます。

「そ、ならいいけど」

そう言っている間にコインパーキングに着きました。私はまだ、遠藤さんと話をしないといけないなぁと思っていました。なのでこの後どうしようかと。すると遠藤さんが言います。

「お昼は私がご馳走するから、高橋さんの車乗せてって」

「え?」

「お昼時は混むから、車一台で行きましょ」

「分かりました」

私は急いで清算して車を出しました。遠藤さんの言う通り走らせて着いたのは、とあるファミレスチェーンの系列のステーキレストランでした。ま、ステーキメインのファミレスなんだけど。ファミレスよりは多少価格帯が上だからなのか、店内はほぼ満席とは言え、待つことなく座れました。注文を終えるとサラダバーに向かう遠藤さん。なんだか動きが若い。私も向かいます。お互いにサラダ、スープ、ドリンクを持って席に戻りました。

「幸一君、話してる時どんな感じだった?」

サラダに手を付けながら遠藤さんが聞いてきます。私は少し記憶を探ってから口を開きました。

「最初の二言三言は無視されました。でも、一度話し始めたら結構普通でした」

遠藤さんはサラダを食べていて返事しません。

「幸一君の事、どう思った?」

私もサラダを食べ始めたらそう聞いてきます。

「どうって、……よく分かりません。でも、普通の子です」

注文した料理が運ばれてきました。ステーキなんて食べる機会はそうそうありません。いつぶりなのかも思い出せない。おいしそうです。紙の前掛けをして食べ始めます。遠藤さんも食べ始めます。何も言ってきません。なので私から口を開きました。

「幸一君は、家の仕事が好きなんだと思います」

遠藤さんは食べながら私を見ます。先を促されている感じ。

「おじいさんに教えられたことをちゃんとやっていました。それは細やかな配慮がなければできないことでした。いやいややってる人には出来ないこと、と言うか、いやいやでは気付けないようなことでした」

遠藤さんが何も言わないので、私も食事を続けます。

「幸一君は、本気で学校辞めたいと思ってると思う?」

遠藤さんの質問。私は食べながら少し考えます。

「分かりません。でも大学まで行きたいと思ってると思います」

遠藤さんが顔を上げます。私はお肉を口に。最後の一切れ。

「幸一君がそう言った?」

「いえ、でもそう感じました」

遠藤さんも残った料理を平らげていきます。それを見ながら続けます。

「私が設計事務所にいるので、大学で勉強したのかと聞かれました」

「……」

「それまでの会話から、幸一君は建築の仕事がしたいんだと思っていましたから、ならちゃんと勉強した方がいいと言いました」

「それで?」

遠藤さんも食べ終えていました。

「勉強した方がいいよって話の続きで、学校辞めて他の学校に移るとか、簡単じゃないしもったいないよって話をしました」

「……」

「そのあたりの話には何も言いませんでしたけど、聞いてはくれました。それで、学校辞めなきゃいけないの? 何で辞めるのって質問したら、出て行ってしまいました」

「そう」

遠藤さんはしばらく無言。そしてこう言います。

「ドリンク、おかわりいかない?」

二人でドリンクを取りに行って戻って来ました。席に着くと遠藤さんが話し始めます。

「高橋さんは適任だったみたい。良かった」

「そうですか?」

「うん、時間の問題ではあると思ったんだけど、こんなに早くしゃべるようになるとは思わなかったから」

「時間の問題」

私は遠藤さんのセリフを繰り返してしまう。

「そ、人見知りと言っても、話せる人とは話をする子なのよ。そんな子が思い詰めて殻に籠っても、話せる相手が見つかったら話をしたいに決まってる」

「なら私じゃなくてもそのうち……」

「うん、そのうちね。でも、春休みの間か、新学期が始まっても早いうちじゃないと、彼は本当に戻れなくなる」

遠藤さんはドリンクに口を付けます。なんか遠藤さんの計算の中で動いていた気がする。

「遠藤さんではダメだったんですか?」

「私は元から彼の中で、話が出来る相手じゃなかったから」

さらっとそう言う遠藤さん、大人だ。私もアイスコーヒーに口を付けます。

「人と話すってことを再開するきっかけは出来たけど、家族がすぐに話す相手になるかどうか。兄弟でもいたら良かったかも知れないけどね」

「家族があんなでは無理ですよ」

思わずそう言ってしまう。

「あんなって?」

「腫れ物に触るみたいにしてるから」

「ああ」

遠藤さんは簡単に頷きます。

「心配してそうなってるのは分かるんですけど、あんなふうにされると、話したくても話せないですよ」

遠藤さんはドリンクに口をつけたまま考えているようです。そしてこう言い出しました。

「すぐにでももう一度高橋さんをぶつけたいところだけど、そんなしょっちゅうあなたがあそこに出向く口実がないもんね。不自然すぎると警戒されちゃうし」

人のことをぶつけるとか言わないで欲しい。

「辞めたい理由と言うか、背景を彼が話してくれたらいいんだけど」

遠藤さんはそう続けました。

「理由を聞ければなんとかなるんですか?」

「何とかなると言えばそうだけど、そう言う理由を人に話せる段階は、もう自分の中では結論が出ているのよ」

「はあ」

「はっきりとじゃなくてもね。この場合だと、やめるって結論と、辞めないって結論。あとは話した誰かに、どちらかへ背中を押してもらいたいだけ」

何か分かるような話です。自分が何かに悩んでいるときに当てはめると、そう思ってしまう。でも迷わずに、どちらかに結論を出してしまったら? って思いました。私がそうだから。

「辞めるって結論だけを出していたらどうします?」

遠藤さんは考えもせず答えます。

「私はそれでもいいと思ってる」

「……」

「菅野さん一家には大事かもしれないけど、結論が出れば先に進めるから」

「先ですか」

「そ、高橋さんが言ったんじゃない。彼は大学まで行きたいと思ってるって」

「……」

「なら、そう悲観する結論でもない。転校してもいい訳だし。大学目指すってことをみんなで応援して支えればいい」

「……そうですね」

「学校辞めて働くって言い出しても、悪いとは言えないけど、どこでも学校行って、大学にも行く気があるなら上々だと思う」

聞けばそうだなとは思いますが、なかなか私では思い至らない考えです。やっぱり私なんかまだまだ子供。幸一君にお姉さんと呼んでもらえるのはありがたいと思わなくちゃいけないかも。

「高橋さんを再投入するかどうかは少し考える。タイミングとか口実をね」

私は遠藤さんの道具ではないんだけど。でも、ここまで関わった以上、私も幸一君の進路は見届けたい思いです。

「仕事のこと気にしてる?」

遠藤さんが私の顔を見てそう言います。

「いえ、まあ、そうですね」

そうだ、私にも仕事があるんだから、そうそうこちらを優先には出来ない。

「大丈夫、青木さんには口出しさせないから」

なんかすごいこと言ってる。遠藤さんは青木さんの後輩だよね。立場が逆転してる。あ、今は遠藤さんが青木さんのお客さんなんだ。そう言う意味では立場は遠藤さんの方が上か。そんなところで話は終わりました。遠藤さんをコインパーキングまで送ります。車を降りるとき、

「高橋さん、ほんとはとても助かった。ありがと」

と言ってくれました。その一言はなんだか暖かかったです。




 家に帰ると朱美がまだいました。いたと言うか、寝てました。座椅子に座った状態から横に寝ころんだようです。座卓の上のノートパソコンには飛行機の格安チケットのサイトが開いたまま。テレビも付いたままです。テレビはDVDのメニュー画面。観ながら寝ちゃったのでしょう。エアコンはついていませんでした。

 昼間は日が入っていれば暖かいのですが、寝てると寒いかも。ベッド横には、朱美がうちに泊まるとき用に持ち込んでいる、低反発のマットレスが敷きっぱなしです。このマットレス、私の寝具一式より高価。その上に朱美が使っている毛布があります。その毛布を掛けてやりました。それでも起きません。

 キッチンに行くと昨夜のピザの箱がきれいに折りたたまれて、ゴミ袋に入れてありました。朝食後はまだ残っていたピザ、お昼にも食べたのでしょう。朝出るときは手を付けずに放っておいた空き缶が、流しに逆さにされて並んでいます。水ですすいだ後の水切りでしょう。リサイクル用のゴミ袋を出して、残った水気を振り切ってから入れていきます。何か飲もうと思いましたが、帰って来て手も洗っていない。キッチンの流しで手を洗ってうがいも。そして冷蔵庫を開けます。知らないものが一杯入っている、スーパーのビニール袋に入ったまま。覗いてみると、お惣菜がいろいろ。

「それ、今夜食べるやつね」

朱美の声。私は朱美の方を見ます。まだ寝ころんだままこちらを見ていました。

「おかえり」

「ただいま」

私はお水のペットボトルを出して、うがいに使ったコップに注ぎます。

「お水飲む?」

一応朱美にも聞いてみる。

「うん」

コップをもう一つ出して注ぎます。一つを座り直した朱美に渡し、もう一つは座卓に置いて寝室の方へ行きました。1LDKと言っても、リビングと寝室は可動式の間仕切りで区切っているだけ。間仕切りはいつも全開にしちゃってるので、大きな一部屋になっちゃってます。寝室に置いてあるポール型のハンガー掛けに会社のジャンパーを脱いで掛けます。そのまま部屋着に着替えちゃおうかと思いましたが、着替えるのはシャワーを浴びてからにしたい。今日は服が汚れたわけでもないので、このままでもまだいっか。私も座卓の傍へ行って腰を下ろしました。そしてお水を一口。やっと帰って来たって気になりました。朱美が何も言わない。テレビは消されていました。朱美を見ます。目が合いました。

「なに?」

私の方から口を開きます。

「お疲れ?」

「疲れることしたわけじゃないんだけどね」

「そっか、高校生の悩み解決は失敗か」

失敗か、そだね、失敗だね。でも、そんなストレートに言うな。

「失敗ってわけじゃないよ。成功に至らなかったってだけ」

私は言い返しました。朱美は小首をかしげるようにして私を見ます。

「二回戦やるんだ?」

そしてそう言います。そうしたい気はあるけど、その機会があるのかな?

「二回戦があればね」

私はそう言ってから話題を変えます。

「冷蔵庫のあれ何? 今夜も泊ってくの?」

「ダメなの?」

「ダメとは言わないけど、四連休どこにもいかないの?」

「ここに来てるよ」

「うちは行楽地じゃない」

「じゃあ、明日どっか行楽地行こ」

明日は一日中寝てたい気分。

「どこに? 桜の名所は嫌だよ。人混み嫌い」

「そっか、お花見もいいね」

「だから人混み嫌だって」

朱美のおかげで、役に立てなかったと感じていた苦い気持ちは晴れていきました。


 週明けの朝、おニューの腕時計をして運転中。結局昨日は、朱美とアウトレットモールに行きました。朱美は服など買っていました。私が買ったのはコーヒー2杯と、ソフトクリーム1個、それと昼食。そしてアウトドア用の腕時計。現場では腕時計が汚れるし傷付く。高級ブランド品ではありませんが、一個しか持っていないお気に入りの腕時計。ずっと気にしていました。アウトドア用の物なら大抵のことはOKでしょう。と言っても、これも私にしたら高価な物。あえて汚したり傷付けたりしたくはないけど。

 事務所に入ると青木さんと久保田さんだけ。清水さんはいませんでした。今日は朱美と話していて、出るのが少し遅くなった私。田子さんとほとんど同時のぎりぎりの時間です。月曜の朝は朝礼があります。そこで聞きましたが、清水さんはもう出掛けたようです。おかげで私は、清水さんの担当現場の修正図面のチェック。午前中はそれをやっていました。

 ランチの後、青木さんから課題が出されます。外壁を貼り始めた現場の進捗検査。確認必要な箇所をチェックされた図面数枚を渡されます。そしてカメラも渡され、写真を撮ってくる場所も細かく指示されました。青木さんはいつものように、この後は家に帰って図面を描くとのことです。私は現場に向いました。豊田市にある星野邸の現場。太田工務店が施工していますが、ここもハウスアートの仕事です。担当は当然、遠藤さん。本当に青田設計は、遠藤さんから沢山お仕事を頂いています。太田工務店の監督さんに色々心配されながら確認していきます。そう、こちらは菅野社長のように親方って感じではなくて、監督さんって感じの方です。すべて図面通り。写真も撮り終わって会社に戻ります。


 会社の駐車場に着いたのは四時過ぎでした。事務所の方に向って歩いていると、事務所の入るビルの入り口近くのガードレールに腰掛けている人影に気付きました。若い男性、幸一君でした。私に気付くと、反対側に歩き出そうとしますが止まりました。何でここにと思いながら、速足で近付きます。なんでここにと言っても、私に会いに来た以外はないでしょう。

「幸一君、どうしたのこんなとこまで」

俯いて何も言いません。う~ん、どうしよう。

「よくここが分かったね」

「……名刺あったから」

返事がありました。で、これからどうする? きっと、私と話がしたいんだ。でもどうしよう。喫茶店の中に真紀ちゃんの姿を見つけました。

「時間ある? 速攻で仕事片付けて来るから、チョットだけそこで待っててくれない?」

私は喫茶店を指しながらそう言いました。一呼吸あってから頷く幸一君。私は彼の手を取って喫茶店に入りました。

「真紀ちゃんごめん、ちょっと彼のこと見ててくれない? 私もすぐ戻って来るから」

ママも真紀ちゃんも、ちょっと驚いた顔でこっちを見ます。真紀ちゃんは丁度エプロンを外そうとしているところでした。そっか、四時までだっけ。

「いいよ、こっちにどうぞ」

でも真紀ちゃんは笑顔でそう言ってくれます。いつもの独特のテンポで。

「好きなもの頼んでいいから、待っててね」

返事はありませんが頷きました。私は真紀ちゃんとママさんに小さく頭を下げて店を出ました。

 階段を駆け上がりながら青木さんに電話します。朝から幸一君のことを何も言わなかった青木さん。土曜のことは遠藤さんから聞いているとは思うけど、もし聞いてなかったら一から説明しなきゃならない。それは面倒だとは思いましたが、やはりまずは青木さんに相談しようと思いました。遠藤さんではなく。事務所に入ったころ電話がつながりました。田子さんに会釈だけして隣の部屋に入ります。誰もいませんでした。

「青木さん、幸一君がここに来てます」

『ん? 今、事務所にいるの?』

「いえ、事務所の前にいたので、取り敢えず『峰』(下の喫茶店の名前)で待ってもらっています」

『そっか』

「あの、私も今朝話さなかったんですけど、土曜の事とか聞かれてます?」

『聞いてるよ、土曜日に遠藤さんから電話あったから。それに、ちょっと前にも電話あったんだ。幸一君がいなくなったって』

え、そんな話がもうきてたんだ。

「いなくなった?」

『詳しく聞いてないけど、午前中、社長の現場にいて、お昼行こうとしたらいなかったらしい。社長の車にジャンパー置いて、鞄もってどっか行ったらしい』

「騒ぎになってるんですか?」

『いや、まだ騒ぎって程じゃないんじゃないかな。土曜だって夜には帰って来たらしいから』

「そうですか」

『心配はしてるだろうから、遠藤さんに電話しとく』

「分かりました。私はどうしたらいいですか?」

『……』

青木さんは答えませんでした。もう少し待ちます。でも無言。

「もしもし、聞こえてます?」

『聞こえてるよ』

「あの……」

『僕には分らない。でも、高橋さんには分ってるんじゃないの?』

私の言葉を遮って、青木さんがそう言います。私にはわかってる? 何を? 何も分からないんだけど。そう、何もわかってない。青木さんの声がまた聞こえます。

『そこに来ちゃってる以上、今は高橋さんに任せるしかない。高橋さんの思った通りでいいから』

思った通りでいい。そんなの言われなくても、私にはそれしかできない。遠藤さんみたいに、しっかり接し方を考えるなんてできない。

『一つだけ、僕が思うことを言ってもいいかな?』

「はい、お願いします」

『多分、大人の言葉は届かない』

「大人の言葉。どういうことですか?」

『うまく言えないけど、味方が欲しいんじゃないかな。自分の側に立ってくれる味方。でも、その味方は大人じゃダメな気がする』

「……私も一応、大人なんですけど」

『違うよ、その味方には僕だってなれる。機会がなかったし、高橋さんよりもっと時間もかかるだろうから、今からじゃ無理だけど』

「……?」

青木さんが何を言おうとしているのか分らず私は何も言えません。すると青木さんがこう言います。

『仲間に年齢は関係ないでしょ?』

仲間か。そっか、大人じゃダメって言うのは、子供じゃないとダメってことではないんだ。上からではダメってことなんだ。

「わかりました。話してみます」

『うん、よろしくお願いします』

青木さんに電話して良かった。なんだか気が楽になった気がします。やることの難易度は変わらないのに、なんとなくすすんでやりたい気分になりました。私は田子さんに、また出かけますとだけ告げて事務所を出ました。


 喫茶店に入ります、何も考えずに。カウンター席にいる幸一君。カウンターの中のママさん、真紀ちゃんと会話してるようです。何気に弾んだ感じです。私が近寄ると真紀ちゃんが私に声を掛けてきました。

「梨沙って、そろばんやったことある?」

はあ? そろばん? 何を言ってるのか分からない。

「いや、ないけど」

「だよねぇ、幸一君、二段なんだって」

「二段?」

私がそう言って幸一君を見ると、はにかんだように顔を伏せます。でも、なんだかいい顔をしています。

「なんでそろばんの話なの?」

私は幸一君の隣に座りながら真紀ちゃんにそう聞きます。

「子供の頃の習い事の話してたの。幸一君、水泳やってたんだって」

「そうなんだ」

なんで習い事の話? 水泳? そろばんはどこ行ったの? でもさすが接客業ってところかな。お客さんと会話する術を持っているってことか。

「で、ママが、自分の子供の頃はみんなそろばん習ってて、自分は一級取ったって自慢したの」

「自慢したんじゃないわよ、一級取れる子はそんなにいなかったって言っただけでしょ」

ママさんが割り込みます。

「そしたら幸一君が、自分は二段まで合格したって」

可笑しそうにそう話す真紀ちゃん。

「よく分かんないけど、すごいことなんだよね」

そう言ってまた幸一君を見ます。恥ずかしそうにしている。

「今時そろばんなんてよく習いに行ったね、ご両親が勧めたの?」

ママさんが幸一君に聞きます。

「じいちゃんが行けって言ったんです」

幸一君がすぐ答えました。

「ならわかる。ご両親がおいくつくらいか知らないけど、今の人はもうそろばん習えなんて言わないよね」

「じいちゃんが習えって言った時、親は必要ないって言いました。でもじいちゃんが、そろばんは計算を習うところじゃなくて、考え方を習うところだからって」

なんだか積極的に話す幸一君です。

「考え方を習う。おじいさんいいこと言うね」

ママさんがそう言います。

「そろばんって、昔の計算機でしょ?」

真紀ちゃんの問いに、ママさんと幸一君が頷きます。

「それ習って考え方が分かるの? 梨沙分かる?」

私に振るな。私は少し考えてから話します。

「中学の時だったと思うけど、国語の先生が言葉の読解力が高いと、数学の問題や数式の理解力も高くなるって言ってた。その逆じゃないのかな? よく分かんないけど」

「それ、うちの国語の先生も言ってた。国語力は全部の教科に必要なんだって」

おお、幸一君が積極的に話してくれる。でも何で私にはタメなの?

「ねえ高橋さん、話の途中で悪いんだけど、幸一君、お昼も食べてないんだって。なんか食べさせてあげて」

そう言うママさん。

「ええ~、なんか食べてればよかったのに」

そう言うと俯きます。

「そう言ったんだけど、高橋さん来るまでいいって」

ママさんがそう言います。カウンターには空のグラスがあるだけ。汚れ方を見ると、コーラフロートかコーヒーフロートを頼んだみたい。

「そっか、じゃあ私ももう晩ご飯食べちゃう。一緒に食べよ」

そう言ってメニューを幸一君の前に置きます。

「好きなの食べていいよ。今日は奢ってあげる」

「ほんとにいいの?」

メニューを手に取ってそう言う幸一君。嬉しそうな顔をしています。普通の子供の反応に思える。私はママさん、真紀ちゃんに感心しました。こんな短時間で、あの幸一君をこんなに普通に戻してしまうなんて。しかも、もともと人見知りだって言うんだから信じられない。最初からここに連れてきたらよかったかも。対人スキルが半端ない。

「じゃあ、揚げハンバーグ定食」

そう言う幸一君。それはミンチカツだよ、とは言わない。

「じゃあ、それ二つお願いします」

私がそう言うとママさんはキッチンに行きました。

「デザートは、チーズケーキと、またコーラフロートにする?」

真紀ちゃんがそう言います。少し財布が心配だけど、まあいっか。

「いえ、いいです」

遠慮する幸一君。すると真紀ちゃんがさらに言います。

「梨沙はまだ食べてくれないんだけど、うちのレアチーズは私が作ってるんだよ。食べてくれない?」

私の顔を見る幸一君。もうしょうがない。

「じゃ、それも。私はアメリカンね」

「まいどあり~」

嬉しそうにそう言うと、キッチンに首を突っ込む真紀ちゃん。追加オーダーを伝えているのでしょう。そして、カウンターを出てこちらへ来ます。

「私はもう仕事終わりだから帰るね。幸一君、また来てね」

「はい」

と返事する幸一君。また来るのか。

「真紀ちゃん、ありがと」

そう言う私に手を振って出て行く真紀ちゃん。本当にありがとう。

 真紀ちゃんが出て行ったあと、どうしよかと思っていると幸一君が口を開きます。

「梨沙って言うんだ」

かなり年下だと分かっていても、男性に呼び捨てにされると、ドキッとしてしまう。

「名刺に書いてあったでしょ」

なんだか私も友達口調に。

「そこまで見てなかった」

「あ、幸一君は呼び捨てにしないでね。まだ早いよ」

「早いの?」

「早いよ、て言うかいくつ上だと思う?」

「そんな変わんないと思うけど、じゃ、梨沙さん?」

高校二年生に、そんな変わんないと言われるのは喜んでいいのかな? 微妙だ。と言うか、高橋さんと呼ぶ気はないのか。

「ま、それでいっか」

「変なの」

変なのは君だ。数日前と比べて変わりすぎ。これが元々のキャラなのかな? まだなんか無理してるのかな?

「さっきの真紀ちゃんって人、友達?」

「そうだよ」

ほんとによくしゃべるな。

「真紀ちゃんがどうかした?」

「別に、なんか変な人だなって」

真紀ちゃん、変な人って言われてるよ。なんだか拍子抜けって言うか、変な気分。この子ほっといてもしゃべる子だったんだ。土曜日の私の、緊張と気苦労をどうしてくれる。でも、この調子で肝心なことまで話してくれるかな。

 料理が運ばれてきました。何気に幸一君のライスは大盛。付け合わせのスパゲッティーも。ママさんが気を利かせてくれたのでしょう。そして私たちの席から一番遠いボックス席に雑誌を持って行ってしまいます。ほんとにプロだなあ。すごい勢いで食べ始める幸一君。お昼も食べてなかったなら当然か。私も食べ始めます。半分くらい食べたところで話し掛けました。

「私になんか話があったんでしょ。なに?」

一瞬手が止まる幸一君。ここで元に戻ってしまわないでと願ってしまう。

「うん、昨日じゃなくて、土曜日のこと」

良かった、さっきまでの感じで返してくれた。でもちょっと、トーンダウンはしている。私は返事せずに食事を継続。

「じいちゃんたちから僕の事、なんて聞いてる?」

僕。確か俺って言ってた気がする。さて、どう答えようかな。菅野社長からはほとんど何も聞いていない。でも、遠藤さんからは詳しく聞いている。ま、詳しく知ってるんだから、そう言う風に答えるしかないよね。

「菅野工務店で建てたお友達の家が雨漏りして、手抜き工事したって騒ぎになった。それでいじめみたいな目にあってる」

私はそう言って、幸一君の反応を見ずに食事を再開。幸一君は手を止めます。そして話し始めます。

「俺はもういじめられてない。期末テストの前からいじめられてない」

また俺になってる。ん? いじめは終わったのに学校辞めるの? なんか変。幸一君は最後のライスを口に入れてから続けます。

「じいちゃんの会社が手抜きしてたわけじゃないって、みんな分かったから」

話してくれますが、さっきよりは歯切れが悪い。

「それでいじめは終わったのね」

幸一君の前のお皿には、まだ少しハンバーグとスパゲッティーが残っている。でも、フォークを持ったまま手を付けない。

「終わってない」

終わってない、ってなんで? あることが頭に浮かびます。遠藤さんが言っていたこと。幸一君の所の潔白が証明されたら、最初に幸一君の所を悪者にした子に矛先が向くかもということ。そう言う事なのかな。

「ひょっとして、別の子がいじめられるようになった?」

私の言葉に幸一君が少し反応。そして口を開きます。

「雨漏りした家の奴、義康って言うんだけど、俺と中学も一緒で仲が良かったんだ。だから手抜き工事とかってのは、俺に冗談で言っただけなんだ」

「……」

私は口を挟みません。

「なのにクラスの奴らがそれを聞いて、陰でうちの悪口を言い出した。俺と義康は知らんふりしてた。でも義康の家の修理が終わった時に、あいつが俺にまたふざけて、修理代ぼったくったとかって言ったんだ。それを聞いたクラスの奴が、今度は本気で騒ぎ出したんだ。手抜き工事して修理代ぼったくる悪徳商法とかって黒板に書いたりして」

幸一君は残った料理を口に入れます。酷い話ですが理解出来ました。親しい友人にだから言えたきつい冗談。単なる親しい友人同士の戯れの会話。それが周りの子には通じなかった。そして本人たちを無視して炎上した。そう言う事みたい。でも続きがあるはず。

「それで一旦は、幸一君がいじめられたのね」

「うん、でも気にしなかった。口でなんだかんだ言われるだけだったから。テレビのいじめみたいに手を出されたり、物を盗られたり、そういうことは俺はされなかったから」

俺はされなかったってセリフが気になりました。誰かはされたのかな。幸一君は続けてくれます。

「でも二週間くらいたった時、義康がみんなに本当のことを説明したんだ。俺は気にしてないからいいって言ったのに」

「それで義康君がいじめられるようになった?」

私は先回りしてそう言ってしまいました。幸一君は頷きます。

「あいつは嘘つき呼ばわりされて、俺より酷い事された。そして、期末テストが終わったら学校に来なくなった。で、学校来いってメッセージ入れたら、辞めるって返って来た」

聞いてるだけでもなんか辛い。もう聞きたくない気分。でもここからが本番だ。ここから先に進まなきゃ何の意味もない。

「で、どうしたの?」

「……俺も学校辞めることにした」

想像できた答え。

「それは義康君に知らせたの?」

「メッセージ入れた」

「で?」

「辞めるなって、俺には辞めるなって、自分はどこかほかの高校行くから心配するなって。そんなことばかり言って来た」

「それもSNSで?」

「うん」

「幸一君はなんて返事したの?」

「……してない。出来ないよ」

コンビニの駐車場で見たSNSの画面はこれだったんだ。なんか話は分かったし、結論も出ている気がする。私はママさんを呼んでデザートを頼みました。レアチーズケーキと飲み物が目の前に来ます。

「おいしそう。食べよ」

私は明るく言いました。幸一君は私にそう言われて手を付けます。私も一口食べる。真紀ちゃんを褒め称えなければ。何かわからないけど、柑橘類のいい香りが広がる美味しいケーキでした。そのケーキのおいしさに明るくなった気分のまま、私は口を開きます。

「義康君に会いな」

こちらを見る幸一君。

「義康君が、もう正式に学校を辞めてしまったのかどうかは分からない。でも、そこは彼の言葉を信じて割り切ろう。全部誤解だとしても、彼が学校に戻ったら、当分は辛い日が続くと思う。他の学校に行くと言う決断をしたのなら、そう信じよう。幸一君はそんな彼だけ辞めさせて、自分が残るのは卑怯だと思ってるかもしれないけど、辞めるのはどうなんだろ。義康君はもっと責任感じるんじゃない?」

「責任」

良かった、聞いてくれてる。

「そ、元々彼の言動から始まった騒動。それに巻き込んで幸一君まで学校辞めたとしたら、責任感じるんじゃないかな。そう言う子じゃない?」

頷きます。

「だったら明日にでも会いに行きな」

手に持ったフォークを見つめている幸一君。

「会って、何て言ったらいい?」

「俺は学校辞めない、って。はっきり言えばいい。そうすれば義康君は安心するはず。辞めるなって何度もメッセージくれてるんでしょ?」

「うん」

「なら、はっきり言ってあげた方がいいよ」

「……」

幸一君は無言で目の前のチーズケーキを見つめている。なのでもう一言付け足しました。

「そして、まだ学校辞めていないなら、辞めるなって言ってあげれば?」

「……そしたらあいつはまたいじめられるじゃん」

小さくなった声が返って来ました。なので私は明るめの口調で返します。

「かもしれないね。でも、もともと冗談が周りに通じなかったってだけなんだから、今度はそれを幸一君が皆に説明したら? そもそもが勘違いなんだよって」

いじめの実態がどんなものか知りもしないのに無責任なことを言ってるかも、と、途中から思いましたがそんなことを言ってしまいました。

 私はコーヒーカップを口に。すると横から声がします。

「分かった。明日あいつの家行ってくる」

少し明るい声に戻っていました。

「よし、食べちゃいな」

私がそう言うと、半分溶けたコーラフロートのアイスを口に入れる幸一君。高二男子はこのレアチーズケーキより、アイスの方がいいのかな。食べ終わるころ幸一君がこう言います。

「梨沙さんって、思ったより大人だね」

私の事をどう思っていたんだろう。

「言いたくないから具体的には言わないけど、あんたよりかなり上なんだから」

あんた呼ばわりしてやる。

「え、いくつ上なの?」

「おしえない」


 すっかり明るい顔に戻った幸一君でした。お勘定を済ませて店を出てから、車で送っていくと言いました。遠慮する幸一君。でも寒そうにしている。彼は薄いトレーナーしか着ていない。今の時期、昼間はそれでもいいかもしれないけど、夜はさすがに寒い。寒いでしょと言うと、頷きます。半ば強引に、車まで引っ張っていきました。どうやら女性と二人で車に乗るのは照れがある様子。なんだかかわいい。

 ママさんや真紀ちゃんのおかげって要素が多分にあるけれども、どうやら解決しそうなこの話。今夜はもう朱美はいない。あの野次馬に、解決編をすぐに話せないのはなんだか惜しい気がする。でも私はスッキリした気分で、明るい顔をした幸一君を乗せた車を走らせました。


 幸一君を家の前で降ろしてから、青木さんに連絡しました。成り行きを全て報告。青木さんも安心したようです。遠藤さへの報告は、青木さんにお願いしました。

 翌朝、喫茶『峰』でモーニング。真紀ちゃんに、深々と頭は下げませんでしたが、改めてお礼を言いました。すると「貸し」だと言われる。何で返せと言われるのか。私と真紀ちゃんのやり取りを横で聞いていた青木さん、笑っていました。ママさんはいませんでした、十時頃まで来ないとのこと。改めてお礼に来よう。午後三時過ぎ、遠藤さんが事務所に来ました。高そうなお店のシュークリームを手土産に。菅野さんの所に行って来たとのこと。昨夜、幸一君はご両親に、やっぱり学校を辞めたくないと言ったそうです。これで落着だと、みんなが和んだところで私のスマホが鳴ります。知らない番号。出ると幸一君でした。義康君に話をした報告でした。昨日より、さらにタメ口度合いが高くなっているのが少し気に入らないですが、嬉しい報告でした。



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