2 再就職

 朱美に背中を押されて決心した週明けの月曜日、私は青木さんに電話しました。入社させてくださいとお願いしました。返事は即OKでした。ただ、この前言われた書類を持って、一度会社に来て欲しいと言われます。バイトの都合もあり、木曜日に伺うことになりました。そして今、約束の二時の五分前に会社の前までやって来ました。電話でOKを頂いているとはいえ緊張します。ビル二階の屋外通路に並ぶガラスの壁。マンション部分だとベランダにあたる部分。階段、エレベーターのホールから手前の方は法律事務所でした。そしてホールから二つ目のガラスの入った扉。そのガラス部分に青い文字で『一級建築士事務所 株式会社 青田設計』と貼ってあります。私は意を決してノックします。反応なし。ややすると、扉のガラス越しに人が近付いてくるのが分かります。ガラスは元々透明なようですが、上下の部分以外の大半に半透明のシートが貼ってあるようです。それは扉の両脇の大きな嵌め殺し窓も同じ。なおかつそちらにはブラインドが下ろされています。「はい」と言う声と共に扉が開きました。青木さんではありません。若い男の人です。若いと言っても私よりは上でしょう。三十歳は超えている感じ。私は名乗ろうとしましたが先を越されました。

「高橋さん?」

「はい、高橋です」

私は慌てて名乗りました。

「どもども、清水です。宜しくね。さ、入って」

清水と名乗ったその人は、そう言うと扉を大きく開けて招き入れてくれました。しゃべり方も仕草もなんか軽そう。

「はい、よろしくお願いします」

そう言って中へ。扉から二、三歩の所にカウンター。その向こうにミーティングテーブルを二つくっつけて並べています。椅子が手前に四つ、奥に四つの八人掛け。打ち合わせスペースの様です。左側の壁には大きな液晶モニター。打ち合わせスペースの向こうには申し訳程度に衝立があります。でも、身長160cm足らずの私が向こうを見通せる程度の高さ。衝立の向こうは少し離れて事務机が二つあるようです。その向こうはもう窓です。人影はなし。右側の壁に二か所ドアがあります。衝立より少し奥の辺りに一つと、この打ち合わせスペースの所にもう一つ。

「社長呼んでくるから座ってて」

清水さんはそう言って奥に。右側のドアを開けて向こう側に消えました。でも、閉まりかけたドアはすぐに開いて、清水さんが顔を出します。

「えーと、高橋さん。そこのドアから入ってもらえる?」

「あ、はい」

 私は打ち合わせスペースの所のドアを開けて隣の部屋に入りました。入って右側、外の通路側は同じでドアもありました。こちらはドアの部分も含めて上から三分の二くらいまでブラインドが降りています。部屋の中は事務机ではなく、事務机より一回り以上大きめの打ち合わせテーブルが四つ並んでいます。いえ並んでいません。両側の壁に向って左右に二つずつ。四か所のうち三か所はパソコンがあり、モニターが二台ずつあります。そのモニターも、私が前の職場などで見ていたものと違って大きいです。中央には1mくらいの高さのキャビネットが、背中合わせに四台並んでいます。部屋を左右に分ける壁のように。ただこちらの部屋の奥は窓ではなく壁です。その壁にはキャビネットの並びの延長線上、ちょうど中央にドアがあります。最初の部屋より奥行きがない感じなので、もう一部屋ありそう。

 青木さんは右奥の机の所にいました。立ち上がって私の方を見ています。その横には青木さんより年上っぽい男性がいます。青木さんは黒いポロシャツの上から青みがかった明るいグレーのジャンパー姿(ジャンパーの左胸のポケットの上に会社名が刺繍されています)。先程の清水さんは、やはり黒のポロシャツの上にセーターを着た格好。でも青木さんの横に立つ男性は、ワイシャツにネクタイを締めた上から青木さんと同じジャンパーを着ています。清水さんが社長を呼んでくると言った時、青木さんのことだと思いました。でもひょっとするとこちらの方が社長さんかも。そしてもう一人その横に立っている人がいます。青木さんよりかなり年上に見える小柄な女性。こちらに見せている笑顔はとてもチャーミングですが、還暦はすでに越えていると思われます。

「高橋さん、こっち来て」

青木さんがそう言って手招きします。

「失礼します」

私はそう言ってしずしずと、二歩くらい手前まで近寄ります。

「ドタキャンされたらどうしようと思ってた。ありがと、来てくれて」

青木さんが笑顔でそう言います。

「いえ、こちらこそありがとうございます」

「早速だけど紹介するね。僕を含めたここにいる四人がうちのフルメンバー」

青木さんはそう言ってから右側に立つ男性を右手で指します。

「僕の隣にいるこの人は久保田さん。一応僕が社長なんだけど、ここは久保田さんとの共同経営だから」

「久保田です。よろしく」

「高橋です。宜しくお願いします」

私は結構深めに頭を下げました。後から聞いたことになりますが、久保田さんの肩書は専務です。青田設計の「田」の字は久保田の「田」なのでしょう。続いて同じようにさらに隣の女性を紹介されます。

「こちらは田子(たご)さん。総務部長やってもらってます」

「田子です、よろしくね。部長って言っても私一人しかいない総務部だから肩書だけ。仲良くしてね」

本当に、好感度抜群の笑顔でそう言ってくれます。

「はい、よろしくお願いします」

私も自然と笑顔で挨拶。

「騙されたらダメだよ。田子さんは経理の長でもあるんだから。ここで一番偉いのは、実は田子さんだから」

青木さんが笑顔でそう言います。

「青木君、最初から変なこと言わないで。第一印象が悪くなるでしょ」

そう言う田子さん。青木君? 社長を君って呼ぶ? 本当に田子さんが一番偉いのかも。『田』の字は田子さんの物かも。なんて思って、少しおかしくなりました。

「そして、あっちにいるのが清水君。僕がまだ自営でやってる頃から手伝ってくれてる変な奴」

「変な奴って紹介するか? ま、さっき挨拶したけど改めて、清水です。よろしくね」

「よろしくお願いします」

私は改めて頭を下げました。

「で、さっき自分からもう名乗っちゃったけど、こちらが高橋さん。うちに入ってくれることになりました。みんな仲良くしてください」

青木さんが私の方を指して皆さんにそう言います。

「改めまして、高橋です。どうかよろしくお願いします」

あ~何回同じこと言うんだろう、と思いながら私は、また深々と頭を下げました。すると拍手が。なんだか照れる、恥ずかしい。

 紹介の儀式が終わると、清水さんはすぐに出掛けてしまいました。

「そこの椅子持ってこっち来て」

青木さんが右手前の机の椅子を指さしてそう言います。さっきは気付きませんでしたが、背中合わせに並んだキャビネットに続いてミーティングテーブルがありました。久保田さんと田子さんも左側の机から椅子を引いてきてテーブルに着きます。私も言われた通り椅子を引いてきてテーブルに着きました。

「いつから来れそう?」

いきなり聞かれました。

「あ、え~っと、今のアルバイト先のシフトが三月十五日まで決まっているので、それ以降にしていただけると、アルバイト先にもそんなに迷惑かけずに済むので助かります」

私は正直に思っている事を言いました。

「感心、感心。ちゃんと気遣いできるのね」

田子さんにそう言われました。私は軽く頭を下げます。青木さんは壁のカレンダーを見てこう言います。

「三月十五日は木曜日か。十六日からって言うと慌ただしいだろうから、十九日の月曜からってことでどう?」

「分かりました。大丈夫です」

「以前は松本産業に勤めてたって聞いたけど、仕事は何してた?」

久保田さんがそう聞いてきます。以前の勤め先は地場では結構大手の設備機器の販売施工会社です。設計事務所の人なら知っていて当然でした。私は慌てて履歴書を鞄から出してテーブルの上に差し出します。

「すみません、お見せするのが遅くなって。え~と、ここに書いた通りメンテ部の業務課です」

三人の視線が私の履歴書に。

「メンテ部の業務課って言うのは何するところ?」

また久保田さんの質問。

「メンテ部はビルや施設のメンテナンスを請け負っているところです。その業務課は客先の設備機器の点検スケジュールを管理したり、修理などの時の部品や機器の手配をしたりしています。また、故障連絡の窓口もしています。二十四時間体制だったので、週に一回程度は夜勤もありました」

「二十四時間体制ですか、大変ですね」

これも久保田さん。

「病院とかホテルとかの空調設備の保守契約とかがありましたから」

「なるほど」

そう頷いてからまた質問してくる久保田さん。それは聞かれたくないことでしたが、当然聞かれることでもありました。

「で、何でお辞めになったの? 夜勤とか仕事がきつかった?」

「それは、人員整理と言いますか、他の拠点との合併での規模縮小と言うのがありまして、その整理対象に入ってしまった感じです」

少し言い辛そうにそう言いました。でもこのセリフは自分なりにロールプレイング済みの物。退職理由は絶対に聞かれると思い、用意していました。それに、全くの嘘ではありません。実際に他の業務課との合併があり、会社は退職者を募っていました。それに私は手を上げた形です。実際は問題を起こして居場所がなくなった時に、渡りに船で手を上げたのですが、そんなことは言えません。言いたくない。前の会社に問い合わせされてもそこまでは言わないでしょう。

「と言う事は、解雇されたってこと?」

久保田さんの執拗な攻撃。ロールプレイングでもこの問いに対する良い回答は出てこなかった。

「いえ、依願退職になっています」

こう言うしかありませんでした。

「そっか、会社も体面があるからそうなるわなぁ」

ああ、理解ある方に取ってくれて助かった。私と久保田さんが話している途中から、私の履歴書を手に取って見ていた田子さんが口を開きます。

「高橋さん、私の後輩なのね」

「……?」

「私も椙城の卒業生なの」

「そうなんですか」

「でも高橋さんは大学からだから優秀ね。私は中学から行ってたから」

相変わらずの笑顔でそう言います。田子さんの言う通り、この辺りでは名門女学園と言われる椙城は、それなりにレベルの高い大学です。トップクラスではないけれど。一般入試で入るには少しハードルの高いところ。でも内部進学はそんなに難しくないと聞きます。よほどのことがない限り進学出来るようです。また、一般入試でも入れるくらいの成績の子は、よりレベルの高い大学に行ってしまいます。なので学内では一般入試組の方が優秀と言われます。でも見方を変えると名門私立で学費の高いところ、中学や高校から等、長くいる生徒の方が経済的に豊かな家の子と言われます。幼稚園からいるような子は間違いなく、いいとこのお嬢様です。

「そんなことないですよ」

私は謙遜するわけでもなくそう言います。田子さんは笑顔で私を見つめたまま。

「えーっと、下の名前は梨沙か。梨沙ちゃんって呼んでもいい?」

祖母より少し若いくらいの方にそう言われて嫌と言えるわけがない。嫌なわけでもないし。

「はい」

「じゃあ梨沙ちゃん。前のお給料は…二十八万ちょっとか、結構沢山もらってたのね。あ、夜間手当とか休日手当てがあるのか。それくらいは欲しいよね?」

履歴書と一緒に出した前の給料明細を見ながらそう言う田子さん。でも、二十八万? いやいや二十三万あるかないかだったぞ。と一瞬思ってから気付きます。そっか、色々引かれるから総支給額はそのくらいあったんだと。給料明細なんてほとんど見たことありませんでした。見ていたのは通帳に印字される振込額だけ。

「はい、出来れば」

「うん、問題ない。問題ないけど、最初の一、二か月はお試しってことで少し少な目にするけどいいかな?」

「はい、構いません」

正直なところ、少しがっかりしながらそう言います。この前の三十万が頭の中で勝手に決定事項になっていました。しかも手取り額で三十万として。

「お試し期間をいつまでにするかの判断は青木君ね」

田子さんは青木さんにそう言います。

「ま、一か月でいいよ。二か月目以降も来てくれるなら問題なし」

青木さんはそう言います。二か月目以降も来てくれる? その言い方どうなの? やっぱりハードな仕事なの?

「そんなこと言って、海老原君には三か月で逃げられたのに」

逃げられた? 三か月?

「まあ逃げられたって言えばそうなのかな。彼の理想は世間に注目されるような大型建築物の設計に関わることだったみたいだから、うちではその理想に程遠かったってことだよね」

そう言う青木さんに続いて久保田さんも口を開きます。

「作業着着て尺金片手に小さな木造の現場を這い回るなんて、思いもしなかったみたいやな」

「ですね、スーパーゼネコンの所長クラスに『先生』なんて呼ばれながら現場内を闊歩する。そう言う姿が理想だったんでしょうね」

「大工仕事もやってるような現場監督に頭下げるなんて、想像もしてなかったってか」

私は反応出来ずに二人の話をただ聞いていました。するとその様子を見て青木さんが私に言います。

「ああ、この前言った去年の夏に辞めたやつの話ね」

そして田子さんもこう言います。

「ごめんなさいね、最初から変な話聞かせて。現場這い回るとかって久保田さんは言ったけど心配しないで、べつに作業員やってもらうわけじゃないから。うちは施工業者じゃないからね」

「あ、はい」

私は田子さんのその言葉に別のことを思っていました。久保田さん? 青木さんよりは年上に見えるけど、そんなに年の差はないような感じ。でも青木さんは「君」で、久保田さんは「さん」なんだ。変なことに興味が行ってしまいました。

 そして、入社に関する書類を何枚か渡されてその場で記入したり、初出勤までに記入して提出するように言われました。途中、青木さんがタバコに火を付けました。最初の部屋では見なかったですが、こっちの部屋には灰皿があったので、誰か吸う人がいるんだとは思っていました。部屋に入った瞬間臭いもしたし。青木さんは一口目の煙を吐き出してから慌てて言います。

「ごめん言ってなかった。ここは男三人とも吸うんだけど、いいかな?」

「はあ」

「高橋さんには設計部の仕事してもらうんでこっちの部屋なんだけど。一応換気はしてるから」

外の通路側のブラインドの上の方を指さしています。欄間に排煙窓があって開いているのでしょう。それに奥側の間仕切り壁も天井まで届いておらず、50cmくらい空いているので、奥の窓が開いてれば風が抜けるのでしょう。そう言えばこっちの部屋は少し寒いかも。

「向こうは禁煙なんだけどね」

田子さんが隣へのドアを指しながら言います。

「分かった、高橋さんの席はあっちの部屋にしよう」

「いえ、いいですよ別に」

私はそう言いました。タバコの臭いや煙は好きじゃありませんけど、本気で毛嫌いするほどでもありませんでした。今のバイト先だってタバコの煙はすごいです。パチンコをしにくるお客さんの大半は吸っていると思う。混み合う夜なんか、あの広いホールが霞んじゃう時もあるほど。

「ひょとして、タバコ吸う?」

久保田さんがそう言います。

「いえ、でも慣れてますから」

慣れてるって言うのは変かな? なんて思いながらそう答えました。

「そっか、助かる。やめれないんだよねみんな。でもどうしてもいやになったら言って、隣に席を作るから」

「はい」

 そのあとは田子さんと隣の部屋に。別にタバコから逃げたわけではなく、私にまだ用があるとか。事務机と衝立の間には四人掛けのソファーセットがありました。衝立で入り口からは見えていなかったのです。そこに座るように言われました。事務机の一つに田子さんは着きます。そこが彼女の席なのでしょう。一台だけですが、やはり大きなモニターのパソコンがありました。田子さんは机の引き出しから取り出したファイルから何かの用紙を取り出します。そして私の前に。

「シャツなんだけど、何種類か選べるからどれがいいか選んで、それとサイズも」

差し出された用紙はポロシャツの発注用の物です。四種類写真で載っています。全て黒のポロシャツ。そう言えば田子さんも黒のポロシャツを着ています。ユニホームだったんだ。良かった、これでだいぶ洋服代が抑えられる。四つの写真を見比べると、完全に黒一色の物と、襟やポケットの所に水色、黄緑、ピンクのラインが入っているかの違いだけ。

「やっぱりピンクかな?」

田子さんがそう言います。でも田子さんは黒一色の物を着ています。そう言えば青木さんも清水さんもラインが入っていたようには見えませんでした。

「私もこれでいいです」

黒一色の物を指さしながらそう言います。

「そ、じゃそこにチェック入れて、サイズもチェックしてね。それから下の方にスラックスのサイズ書く欄があるんだけど、ウエストは分かると思うけど、股下寸法は分かる?」

「大体は、でもお店と言うかデザインで微妙なので」

「そうよね、じゃあ、長めにしといて。折り曲げて履いててもいいし、自分で裾上げしてくれてもいいし」

「分かりました。靴のサイズもですか?」

一番下に靴のサイズを書く欄があったのでそう聞きます。

「うん、そこも足のサイズ書いといて。現場行くときは安全靴だから」

「そうなんですか」

私は靴のサイズも記入します。

「スニーカータイプの軽いのにしとくから」

そっか、一式用意してくれるんだ。大助かりです。

「今着てるのみたいなスーツは何着か持ってる?」

今日は一応スーツ姿でした。でもそんなに何着も持っていません。だって、着る機会なんてなかったから。前の会社も制服があったので通勤は私服だったし。

「いえ、冬用はこれともう一着、あとは夏用って言うか合服が一着あるだけです」

「そっか、合コン用の派手なやつ?」

「いえいえ、普通のです」

田子さんはおかしそうに微笑みます。

「うん、今日着てるのみたいなのなら大丈夫。たまにだけど、ちゃんとした格好して行かなきゃいけないところがあるから」

「そうですか」

スーツは支給してくれないんだ。

「あとは、通勤どうするかは梨沙ちゃんが決めて」

「……?」

意味が分かりません。

「私服で通勤してもらっていいんだけど、着替えは隣の奥の部屋になっちゃうから。あそこが倉庫兼更衣室。ロッカーもあるから」

「わかりました」

「いやいや分かってない。あんな簡単な間仕切り隔てて男の人がいるとこで着替えられる? 鍵はちゃんとかかるけど、恥ずかしくない?」

そう言う事か。そう言われると恥ずかしいかも。

「考えます」

「うん、そうして。で、この辺りはよく来る?」

「はい。アルバイト先もこの近くなので」

「良かった。じゃあ、揃ったら電話するから取りに来てくれる?」

そう言って先程記入したポロシャツなどの注文用紙を私に見せます。

「分かりました」

 それで今日の用事は全て終わったようです。田子さんは隣の部屋に青木さんを呼びに行きました。青木さんは現れるなり、立って待っていた私に言います。

「三月十九日だったね。待ってるからね」

「はい。あ、朝は何時からですか?」

私は勤務時間を聞いていなかったのを思い出しました。

「ああ、定時は八時から五時だから。八時までに来てくれたらいいよ」

「分かりました。よろしくお願いします」

私はまたまた深く頭を下げます。

「こちらこそよろしくね」

青木さんがそう言ってくれます。横で田子さんも笑顔で頷いていました。


 青田設計にお邪魔した翌日、バイト先にいつもより早く行きました。三月十五日での退職を伝えるために。パチンコ店でのワゴンサービスの担当者は午後からしか来ません。なのでカフェのオーナーにそのことを告げると、

「あっそ、お疲れさまでした」

そう言われてあっさり終了。厄介払い出来たみたいな言われ方に少しショック。夕方の休憩時間に賄いの夕食を食べていたら、担当者が来ました。今日の賄いはカップケーキが三つ。場所はパチンコ店内の休憩室。パチンコ店の従業員が休憩に使っているところ。その時も女性店員が二人と男性一人がいました。女性店員がカップケーキをおいしそうに見ていたので一つ差し上げました。二人で分けて食べています。そんなところにやって来た担当。普段はパチンコ店内まで来ないので珍しいことです。やって来るなりしゃべり始めました。

「高橋さん、どういうこと? 辞めるの?」

オーナーから聞いたんだ。

「はい、すみません。三月十五日で辞めさせていただきます。お世話になりました」

私は一応立ち上がってそう言ってから頭を下げました。

「なんで? 売り上げも上がってるし、楽しそうにやってるじゃん。天職じゃないの?」

いやいやいや、私には全然むいてない仕事。楽しそう? 勘弁して、生活のために売り上げ上げたかっただけ。天職なわけない、転職するまでのつなぎ。

「すみません、再就職が決まったので」

「え~、高橋さん抜けると売り上げ下がっちゃうじゃん」

「すみません」

確かに言いたいことは分かる。一杯も売れなくても平気。時間給もらえればOKって子もいる。まさに今日一緒に入っている子がそう。今日私はパチスロコーナーを担当しているけど、パチンコやってる常連さんがわざわざパチスロコーナーまで来て私に注文していく。よっぽどサービス悪いんだろう。そう言えばその子がホールで微笑んでいるところなんて見たことないかも。でも正直言って私には迷惑。パチスロコーナーを担当しているときは、代金代わりに頂いたパチスロのコインしか私の売り上げにならない。パチンコ玉をもらってもその子の売り上げになるだけ。でもはるばるパチンココーナーまでお届けしなければならない。今日はもう十回以上行っている。そんな私の姿を見ても無反応。自分の売り上げになるんだから礼くらい言え。こういう子が多いと売り上げは増えないだろうな。

「売り上げ下がって怒られるのは僕だよ。何とかならない?」

何とかって言われても……。

「怒られると言えば、何でオーナーに直接話したの。俺の所に直接来させるなって怒られたよ」

こらこら、パチンコ店の店員さんがいる前でカフェ内のことを言っていいのか?

「教育がなってないとか、ワゴンのスタッフは常識がないとか、余計なことまで怒られたよ」

だからやめろって、それこそ余計なことだよ。そうやってカフェのイメージを悪くするな。

「すみません。そろそろ休憩終わりなんで、帰る前にまたお聞きします」

私の方がカフェに気を遣ってそう言います。まだ十五分ほど休憩時間は残っているけれどしょうがない。そもそもこの人が問題かも。パチンコ店でのワゴンサービスはカフェの宣伝のはず。なのでワゴンにも、使っているカップ類にも、カフェのロゴと名前が入っている。売り子が着けているエプロンにも。そしてコーヒーとココアが売りのカフェ。この二つだけはカフェと同じものを出している。他は業務用の安いもの。その責任者が宣伝とは逆の、イメージダウンになるようなことを平気で言うとは。愛想の悪い売り子のアルバイトを平気で使っているのもそう。私ならイメージの為に接客を教育するけどなぁ。今日一緒に入っている子なんて、言っちゃあ悪いけどいるだけでイメージダウンだよ。ま、私にはもう関係ないけど。

 私がそう言ってテーブルの上を片付け始めたら担当が言います。

「もういい、辞めてく人に言ってもしょうがない。とりあえず最後までシフト通りに入ってちゃんと仕事してね」

そして出て行きました。私は閉まったドアを見て大きくため息一つ。すると遠巻きにしていたパチンコ店の店員さんたちが私の傍へ寄って来ます。

「高橋さんほんとに辞めるの?」

女性の一人がそう言います。

「はい。再就職が決まったので」

「え~、残念。高橋さん結構人気あるのに」

「高橋さん目当てで来てる人もいるから、うちもお客さん減っちゃいそうだな」

女性店員に続いて男性店員にもそう言われます。

「そんなことないですよ」

「高橋さんいない日に時々聞かれるんだよ、今日は梨沙ちゃんいないのって? 休みみたいですねって言うと、みんながっかりした顔してすぐに帰ってくよ」

「はあ、そうですか」

確かに注文されたものをワゴンで用意しているときに話しかけてくる人は結構いる。フルネームの名札を付けているので、梨沙ちゃんと呼んでくるお客さんも何人かいる。そう言ってもらえると悪い気はしない。むしろ嬉しい。でもそれだけ。まだ私が辞めることになんやかやと言っている三人に私はこう言いました。

「まだ半月ちょっとはお世話になるんで、その間はよろしくお願いします」

そして私はホールに戻りました。


 初出勤前の土曜日、私は朱美に呼び出されて名古屋駅前に。午後五時の待ち合わせ。場所は学生時代から時々来ているビアレストラン。十分前に到着して店に入ると朱美はまだの様子。先に座っておこうかと思って、店員さんの案内について行きかけたところで名前を呼ばれます。

「梨沙! こっち!」

声の主を探すと右手のテーブル席にいました。誰かは声を聞いて分かっています。若山由美、大学の時からの友人です。案内してくれていた店員さんに断ってからそちらへ。

「由美も?」

私は由美の前に座りながらそう聞きます。

「うん、久しぶり。夏以来かな?」

「そだね、その時もここじゃなかったっけ?」

「あ、そうだ、ここだ」

テーブルにはお水とおしぼりのみ。みんな揃うのを待っているのでしょう。私もお水を持って来た店員さんに注文は後でしますと告げました。

「あの時は真由と晴美もいたよね」

「晴美は今日も来るよ。真由は用事でダメみたいだけど」

そう言う由美。そしてそのタイミングで店の入り口に現れました。須藤朱美と森田晴美の二人が一緒に。二人が席に合流して、なんだかんだと盛り上がる前にまず注文を済ませました。結構色々頼みました。すぐにビールが届きます。ジョッキが四つ。各々手に持つと朱美が口を開きました。

「今日はお祝いなので、まずは乾杯しよう」

みんなジョッキを持ち上げます。私はやっぱりそう言う事か、朱美が私の為に二人を呼んでくれたのかと嬉しくなりました。でも次の朱美のセリフでがっかり、いやいや、びっくりです。

「では、若山由美さん、ご結婚おめでとうございま~す。乾杯!」

乾杯の掛け声でジョッキをぶつけ合います。口々に、「乾杯」「おめでとう」を言いながら。

でも晴美がこう言います。

「知らなかった、おめでとう由美。梨沙は知ってた?」

「ううん、晴美も知らなかったんだ」

「うん、朱美はみんなで飲もうとしか言わなかったから」

「私は五時にここに来いってメール来ただけ」

「私も今日聞いたとこだよ。だから二人を驚かそうと思ったの」

私と晴美の会話に朱美がそう言って割り込みます。

「ごめんね、話の流れで朱美に話しちゃったから、二人にもすぐに知らせようと思ったんだけど、朱美が言うなって言うから。で、今夜集まろうって」

「そうだったんだ。ほんとにおめでとう」

私はそう言って、もう一度由美とジョッキを合わせます。

「ありがと」

「で、式はいつ? て言うか相手誰? 由美の彼って私知らない」

私は由美に質問。

「同じ会社の人、同期だから同い年。式はね、ちょっと先で八月なの」

「この子ハワイで式挙げるんだよ」

由美の返事に朱美がそう言います。

「ハワイ? いいなぁ。この前朱美とハワイにでも遊びに行こかって言ってたとこだよ。ねえ」

晴美がそう言うと朱美が受けて言います。

「そう、その話を今日由美にしたの。梨沙も就職決まったし、夏に皆でハワイ行かない? って。そしたら、実はハワイに行くんだって」

一瞬の間。由美と晴美が私を見ます。そして由美が口を開く。

「就職決まったの? 梨沙」

「うん」

「そっちの方がお祝いじゃん。おめでとう」

「しまった~、あとで言うつもりだったのに」

由美の言葉の後に朱美がそう言います。料理が運ばれてき始めたので少し休憩。店員さんが下がって行ったところで晴美が言います。

「じゃあもう一回乾杯しよ。梨沙の就職を祝って」

「乾杯、おめでとう」

また四つのジョッキが合わさりました。

 その後、女四人の話は取り留めもなく続きました。いつもの事なんだけど。料理の皿も、ジョッキやグラスも何度入れ代わったか分からないほどに。九時を過ぎてやっと終了。今日は盛り上がりすぎて、もう一軒行こうと言い出すものはなし。全員飲み過ぎの食べ過ぎの上に、しゃべりすぎで疲れていました。名駅の地下街を駅に向かって歩く四人。私と朱美は地下鉄の東山線なので最初に別れました。桜通り線を使う晴美は、一緒に途中まで行って乗り換えてもいいのですが、JRを使う由美と一緒に桜通り線の駅に向かいました。

 朱美の降りる駅は覚王山なのですが、着いても降りません。私の所に泊まると言い出します。なので二人で本郷まで来ました。本郷駅は地下鉄と言っても地上です。高架の上です。ホームからの階段を下りながら朱美が言います。

「あんたんとこ、お酒ある?」

「まだ飲むの?」

「だって、あんたの就職祝いしなきゃ」

「もう十分してもらった」

「だめ、まだ足らない」

と言うわけで、駅を出たところのコンビニに直行しました。バス停に行くと次のバスは三十分以上後の終バス。土日は本数が少ないのでそうなります。朱美は迷わずタクシー乗り場へ方向転換。タクシーで帰りました。そしてそのまま二人で深夜まで。

 翌日は当然のことながら、朝と言える時間帯には起きれません。起きた時は二人ともひどい状態。入れ替わりでシャワーを浴びてましな姿になったのはお昼過ぎ。あり合わせで食事を作って食べました。朱美が帰るときに私も駅まで行くことに。特に必要はなかったのですが、スーパーに行くからと言いました。私の為に気を遣ってくれた朱美を見送りたかったから。二人で玄関を出たところに階段から人が上がって来ました。青木さんです。

「こんにちは」

私がそう言うと朱美も同じように挨拶してました。

「こんにちは」

青木さんも当然言葉を返してくれます。

「あ、友達の須藤さんです」

私は朱美を紹介。

「青木です、よろしく」

「須藤です」

「二人でどっか行くの?」

「須藤さんが帰るので、私は送りながら駅の所のスーパーまで行こうかと」

すると青木さんはポケットから使い捨てライターくらいの大きさの、黒いプラスチックの塊を出します。そしてそれを私に差し出します。

「車使っていいよ」

車の鍵のようです。

「ええ? ダメですよ。いいですいいです」

私は遠慮します。

「あの車は会社のだから、高橋さんはもう使ってもいいよ」

「でも……」

「いいからいいから、遠慮しない」

青木さんはそう言って私の手に鍵を握らせます。

「では、お借りします。ありがとうございます」

もうしょうがありません、借りることにしました。朱美もお礼を言っています。

「いえいえ、気を付けてね」

青木さんはさっさと玄関を開けて入ってしまいました。

 青木さんの車に乗った私達。でも、エンジンがかからない。ドアはリモコンで開いたけど、どうやってエンジン掛けるのか分からない。だって差すべき鍵も鍵を差すところも見当たらない。受け取った時から疑問がありました。これって別に鍵があるんじゃないの? って。

「これどうやってエンジン掛けるの?」

独り言のように私が運転席でそう言うと、朱美が呆れたような感じ。

「知らないの?」

「だって、鍵ないもん」

「キーレスだから、ブレーキ踏んでそこのスタートボタン押せば掛かるよ」

言われたとおりにすると掛かりました。

「すごい、よく知ってるね」

「私の車も同じようなもんだから」

「私は鍵差して回すのしか知らないもん」

母が乗っていた車も、前の会社でたま~に使った車もそういうタイプでした。

 走り出すと朱美が口を開きます。

「今の人が今度の会社の社長さん?」

「そうだよ」

「いい人そうね」

「うん」

「でも、恋愛対象になる年じゃないね」

「ばか」

 駅前で朱美を降ろして別れました。スーパーに特に用はなかったし、駅前のビルの一階にあるスーパーなので駐車場もない。そこは近くのコインパーキングに停めて、買い物したらサービス券をもらうって感じ。なのでせっかく足があるついで、うちに帰る道からは少し寄り道になりますが、ホームセンターに行くことにしました。少し日用品を買いに行きたかったのです。あまり遅くなってもいけないのでさっさと買い物を済ませて帰宅。荷物を部屋に置いてからお隣のインターホンを押しました。インターホンに返事はなく、玄関が開きます。

「車、ありがとうございました」

私はそう言って鍵を返します。

「早かったね」

そう言って鍵を受け取りながら続けて青木さんは言います。

「明日、初日だったよね」

「はい」

「明日は朝乗せてくよ。ちょっと早いけど、六時四十分に車の所に来て」

「え?」

私が返事する前に「じゃ、明日」と、閉まってしまう扉。決定事項になってしまいました。


 緊張もあり、翌朝は五時過ぎに起床。あ、普段はちゃんと起きれる人です、私は。お酒を飲むと事情が変わるだけ。朝食を済ませて着替えることに。一週間ほど前にユニホーム類は受け取っていました。黒のポロシャツ六着。長袖と半袖が三着ずつです。会社のジャンパーと同じ色のスラックスも三本。これは冬用のみ。夏用は生地が薄いので紺色だそうです。田子さんがその理由を説明してくれた時の会話。

「現場入ると色の濃い衣服は真っ白になっちゃうからこういう明るいグレーにしてるんだけど、夏用は別だから」

自分の着ている青みがかったライトグレーのジャンパーを示しながらそう言います。

「何でですか?」

「夏用は布が薄いでしょ、色まで薄いと下着が透けちゃうから」

「ああ」

納得でした。

「見た目は白っぽい方が涼し気なんだけど、久保田さんの赤い下着が透けてた時はさすがに近寄れなかった」

私は想像しかけて、やめました。

「でも、ポロシャツは黒ですよね」

「あ、それはね、首回りが黒ずんじゃうとみっともないでしょ? ちゃんと洗濯してても黒くなってくるから。ワイシャツみたいにきっちり上までボタン閉めて着るシャツなら分からないけど、ポロシャツはそんなきっちり着ないでしょ」

「なるほど、色々考えてるんですね」

「まあね。でも、まだ三年かそこらよ、会社で同じ服着始めたのは。青木君が現場で服装がバラバラなのはなんか嫌だって言い出して」

みんなで現場行くことあるのかな? 行っても二人くらいならバラバラでもいいような。そんなことを思っていると田子さんが続けます。

「ま、ゼネコンにいたから、同じ会社の人間は同じ服装してるって感覚が染みついてるのかも」

「ゼネコンにいたんですか、青木さん」

「あら、聞いてなかったんだ」

「はい」

「ま、それはいいとして、出掛けないのが分かってる日は私服でもいいよ。清水君なんて一日図面書く日なんかは私服だし」

話題を変える田子さん。

「梨沙ちゃんの常識で、仕事しててもOKって格好なら私服でもいいから」

それが一番難しいかも。

 そんな感じで受け取りました。他にもジャンパー二着と安全靴にヘルメットがありましたが、それらは事務所に置いてきました。出勤してから着ればいいことなので。安全靴は某スポーツ用品メーカーのブランドラインが入った、白いスニーカーにしか見えないもの。ラインはピンク色。残念ながら朱美の勤める会社の物ではないけれど。持ってみると安全靴と言ってもそんなに重くない。本当に安全靴かと思いましたが、つま先はちゃんとカチコチでした。

 長袖のポロシャツを着て、スラックスを履いてからグレーのトレーナーを着ました。トレーナーは新調したもの。トレーナーの首周りからポロシャツの襟を出すと少し窮屈。この前の清水さんのようにV首のセーターの方が良かったかも。その上から白いハーフコートを着ることに。四月前と言っても朝と夜はまだまだ寒い。かと言ってもうダウンを着るほどでもないからそれを選択。六時三十五分にそんな格好をして玄関を出ました。通路に出て下を見ると、青木さんがもう車に乗っている。青木さんが部屋を出る音を気にしていたのですが、全然聞こえませんでした。私は階段を駆け下りて車の所に行きました。

「おはようございます。遅れてすみません」

運転席のドアの所でそう言います。窓が開いて青木さんの声。

「おはよう、まだ時間前だよ。乗って」

「はい」

私は助手席側に回って乗り込みます。車内はもう暖まっていて暑い。コートを脱げばよかった。少し窓を開けました。走り出すと青木さんが口を開きます。

「ごめんね早い時間で、もう少しゆっくりでもいいんだけど、七時過ぎると渋滞がすごいから。僕は渋滞大嫌いなんだよ」

「いえ、朝は苦手なわけじゃないので」

「それは良かった。しょっぱなから説教じみたこと言うのはどうかと思うけどいいかな?」

ええ、いきなり? 私なんかやったっけ?

「……? はい」

「朝だけは遅刻しないで。ああ、出社に多少遅刻するのは別にいいけど、社内のことだから。でも、社外の人との朝一番の約束にだけは絶対に遅れないで。一時間前には着いてるくらいの余裕持って行って」

「はい」

「僕が社会人になった時に先輩から言われたんだ。朝一番の遅刻だけはどんな言い訳も通用しないって。間に合うように早く出ればいいことだからって。その先輩に言わせると、電車が事故で停まったなんてのも言い訳にならないって。そのくらい見越して動けばいいって。ま、僕はそこまで言わないけど。でも車で動くときは、ある程度は予想外の渋滞があっても余裕があるくらいにして欲しいな」

「分かりました」

十分納得できる話でした。肝に銘じたいと思います。

 七時には会社の駐車場でした。青木さんは一階の喫茶店に向い、店の前まで来て私を振り返ります。

「朝ご飯食べた?」

「はい」

「そっか、僕は大抵ここでモーニングなんだ。ま、コーヒー付き合ってよ」

そう言って店に入って行きます。入り口横の棚から新聞を手に取ると、この前と同じカウンターの端に座ります。店内は半分ほどの席が埋まっていました。私は青木さんの横に。カウンターに着くまでに数人の人と挨拶を交わしていた青木さん。常連仲間かな?

「おはようございます。アイスでいい?」

この前私をじろじろ見ていた女性店員が、カウンターの向こうから青木さんに声を掛けます。

「おはよう、うん、頼む」

「そちらの方は?」

今度は私に向って聞いてくる店員さん。

「私はアメリカンで」

「はーい。お待ちください」

店員さんはキッチンに消えました。この女性の話方はやっぱりなんか独特。妙なリズムとアクセントです。わざとやっているのかな。店内にはこの前見なかった女性の店員さんがもう一人。結構な年齢に見えます。ママさんより上かも。そのママさんの姿はなし。ママさんは青木さんと同じくらいか、少し若いくらいに見えました。頼んだものはすぐに来ました。でも、私もモーニング付き。そっか、朝はいらないって言わないと勝手に付いて来ちゃうんだ。トースト一枚とサラダに小さなオムレツ。オムレツの下に焼いたベーコンまで敷いてある。

「あ、モーニングいらないんだったっけ?」

新聞を読んでいた青木さんがそう言います。

「はい、でもせっかくなので頂きます」

「うん、もったいないからね」

食べ始めると新聞を見ながら青木さんが話し掛けてくる。

「ここは会社でコーヒーチケット買ってるから使っていいよ」

「はい」

「だからモーニングもチケットで食べれるからね」

「ありがとうございます」

「ま、朝は僕と出くわすだろうから、それだけは覚悟してね」

「はい。他の方も来られるんですか?」

私はなんとなく店内を見回します。

「いや、朝は誰も来ない。みんな家で食べて来るから。清水は朝飯食べないって言うし」

「そうですか」

 食後はすぐに事務所へ向かいました。手前の部屋には誰もいません。隣の部屋に行くとすでに久保田さん、清水さんがいます。清水さんは左手前の席でパソコンをいじっています。久保田さんはミーティングテーブルでタバコを吸いながら図面か何か、紙の束を見ています。横には錨のマークがプリントされたマグカップ。

「おはよう」

と言う青木さんの声に続けて私も挨拶。

「おはようございます。今日からよろしくお願いします」

二人がおはようと返してくれた後、清水さんが言います。

「来た来た、よろしくね、梨沙ちゃん」

梨沙ちゃん、この人にはそう呼ばれるのか。

「はい、よろしくお願いします」

「高橋さんの席はそこね」

青木さんがそう言って右手前の席を差します。この前来たときはこの席だけパソコンも何もありませんでした。でも今はパソコンが置いてあります。他の席と同じで大きなモニターも二つ。

「はい」

私はデスクの方へ行きました。上に鞄を置きます。普通の事務机よりも大きなデスクなので、パソコンがあっても十分なスペースがありました。

「コートなんかはロッカー使って、名前貼ってあるから」

青木さんが後ろのドアを示しながらそう言います。

「はい、ありがとうございます」

私はそちらへ行ってドアを開けました。中に入ると正面にロッカーがあります。上下二つずつ扉の付いたロッカーが二つ並んでいます。八人分? と思いながら自分の名前を探すと、右端の上の扉に「高橋」とテプラで打ったシールが貼ってありました。中はハンガーが二つあるだけ。あ、扉の内側の小物入れに鍵が二本入っています。私はコートを入れてからこの部屋の中を見回します。ドアから入って右側には小さなキッチンと冷蔵庫があります。冷蔵庫の上には電子レンジ。その横の窓には換気扇が付いていて、すでに回っています。左手は収納棚が向かい合っています。棚には分厚いファイルが数十冊と段ボールが数箱だけ。半分くらいは空いています。

 私が更衣室兼倉庫から出ると青木さんが口を開きます。

「じゃあみんな集まってくれる?」

ミーティングテーブルの周りに皆寄って来ます。田子さんもいつの間にかいました。私は田子さんの横に行って小さな声で挨拶。田子さんも小さな声でよろしくね、と言ってくれます。

「見ての通り、今日から高橋さんも加わりました。ま、顔合わせはこの前済んでいるから改めて挨拶はいいよね。建築のことはほとんどわからないと思うので、何かにつけ丁寧に教えてあげてください。高橋さんもどんどん質問してくれていいから」

「はい」

皆さん頷いています。

「じゃ、何かあるかな?」

青木さんがみんなを見回します。

「IKO(アイケーオー)さんから教文大三号館の図面修正、メールで来てました。ざっとしかまだ見てないですけどかなりいじらなきゃダメそうです。外注に振ります?」

清水さんが言います。

「一度見てみるわ、データ僕んとこに入れといて」

「了解」

「あとは?」

「三輪君からアネックス丸の内の図面修正上がって来てました」

「あ、それ丁度いいな、高橋さんにチェックしてもらおう。高橋さん初仕事、あとで説明するから」

青木さんがそう言って私を見ます。

「はい」

何をするのか分かりませんが、取り敢えずそう答えます。

「清水は今日出掛ける?」

「今から小林邸の現場行ってきます」

それを聞いて後ろを振り返る青木さん。更衣室へのドアの左右の間仕切り壁には大きなホワイトボードが掛かっています。右側のホワイトボードは細かく罫線が引いてあり、上部には1~31までの数字が並んでいます。予定表なのでしょう。左側には現場名が書いてあります。上から2番目に小林邸とありました。私は十九日の所を見ますが何も書いてありません。と言うか、今週の部分には何も標記がないです。日にちの近いところでは十六日に『キッチン』と標記があるだけ。

「そっか、カウンターの長さが合ってないって言ってたな。現場見てどうするかは任す」

青木さんが清水さんにそう言います。

「了解」

「昼くらいで帰って来れる?」

「多分」

「じゃあ、さっきの図面チェック、午前中にやってもらうから、昼から一緒に確認しながら教えなきゃいけないとこ教えてあげて」

「え? 了解」

俺が? と言うような顔をしながら返事する清水さん。今度は久保田さんが口を開きます。

「僕は午前中はここで山城邸の書類確認。午後から現地確認行ってきます。現地は太田工務店さんも来ます」

「竣工希望日早かったですよね。事前審査はいつ出す予定?」

「来週中には出したいですね」

「そっか、超特急になりますね。分かりました、お願いします」

後は誰からも発言なし。

「田子さんいい?」

「私からは何も」

「では皆さん、今週もご安全に」

青木さんがそう言うと皆も「ご安全に」と言ってから解散となりました。朝礼だったようです。でも「今週も」と言っていたので月曜日だけなのかな? 

 青木さんは先程の右側のホワイトボードに近寄って何やら書き始めます。

「高橋さん、こっち来て」

左側の現場名欄には三現場書いてあったのですが、四番目に山城邸(太田)と書きながら私を呼びます。

「はい」

私は青木さんの横に並びます。青木さんは三十日の所に『事前審査』と書いてから私に説明します。

「このボードに書いてあるのは、うちで設計監理している物件の予定」

「はい」

「最近二件終わったから今は四件。でも来月にはまた二件増えると思う」

「はい」

そこへ間仕切りの裏から田子さんの声がします。

「青木君、コーヒー飲む?」

「お願いします」

「梨沙ちゃんは?」

「あ、すみません、お願いします」

「はーい」

キッチンでコーヒーを淹れているのでしょう、いい匂いがし始めます。青木さんは私を左側のホワイトボードの方へ誘導します。左側のボードは横にノートのように罫線があるだけのものです。ただ、一杯書き込まれています。

「こっちは他の設計事務所からの下請けで図面を書いたりしている物件」

「はい」

設計事務所が設計事務所の下請け?

「ただこっちの物件はボリュームがあって手を取られちゃうから、外注に出しちゃうのがほとんど」

「外注?」

「自営でされてる建築士さん」

「ああ」

「例えばさっき言ってた教文大学の三号館改修工事、ここに書いてあるでしょ」

「はい」

青木さんが指さしたところには現場名が書いてあります。現場名の横に赤と黒のマグネットがあります。その下に『三月十二日 竣工図用チェック中』の標記。

「このマグネットはどこの依頼かと、どの外注さんに頼んでいるかを表してる。赤はIKO都市開発さん、黒は自社作図って意味」

ホワイトボードの上を差して青木さんがそう言います。ホワイトボードの上部には各色のマグネットが付けてあり、そのマグネットが意味する会社名などが書いてあります。

「分かりました」

「じゃあ、今から高橋さんに図面チェックやってもらうアネックス丸の内は、どこの依頼で誰に頼んでるか言ってみて」

青木さんはその物件名が書かれたところを指さします。黄色と水色のマグネットが付いています。私は上を見ながら答えます。

「大川設計さんの依頼で、三輪設計さんにお願いしてる?」

両方とも設計と付いてるので疑問形の答えになってしまいます。

「そ、正確には大川一級建築士事務所って大きな設計事務所なんだけど、そう書くと長いから省略してる。ゆっくりでいいから覚えていって」

「はい」

「それと三輪設計って言うのは、三輪さんって方が個人でやってるところだから」

「はい」

「三輪さんは一社だから近いんで、よくここにも来るからそのうち会えるよ」

一社と言うのはここから二駅目の駅の名前です。

「はい」

その三輪さんの話をしているときに田子さんが出て来て、コーヒーの入ったマグカップをミーティングテーブルに置いてくれていました。

「梨沙ちゃん、砂糖とミルクいる?」

こちらの話が途切れたタイミングで田子さんがそう言います。

「ブラックで大丈夫です」

「空いてるマグカップそれしかないからそれ使って」

上下に青いラインが入っているマグカップを指しながらそう言います。ちなみに田子さんが手に持っているカップは、薄い黄色に犬のイラストがプリントされたもの。青木さんのは大きなキスマークがプリントされています。

「ありがとうございます」

田子さんは微笑んでから隣に行ってしまいました。

「じゃ、コーヒー持って高橋さんの席に行こうか」

青木さんはもう移動を始めています。私は返事してから付いて行く。

「座って」

そう言われて席に着きました。パソコンの電源はもう入っていて、デスクトップ画面が出ています。大きいと思ったモニター、端に書かれた型名を見ると27と言う数字があります。27型と言う事でしょう。自宅のテレビと同じ大きさです。

「左がメイン画面で、右が作業画面にしてあるけど、使ってて逆の方が良ければ変えちゃってもいいから」

青木さんが後ろから言います。

「はい」

「で、メイン画面の右上にフォルダが並んでるでしょ?」

「はい」

「その『高橋共用』ってフォルダに入れたものは、他のパソコンからも見れるようになってるから」

「はい」

「そして他の人が高橋さんにデータ送ったとかって言った時は、そこに入ってるから」

「はい」

「その横に並ぶ各自の名前が入ったフォルダも同じ。青木のフォルダに何かのデータを入れたら、僕のパソコンの共用フォルダにそれが入るから」

「すごいですね」

「僕の席の向こうにサーバーがあって、そのフォルダは全部サーバー内にあるんだ」

「分かりました」

「で、もう一個、そこの『サーバー』って名前のアイコン、それ開いてみて」

言われたとおりに開くと、フォルダがいくつも並んでいます。さっき教えてもらった個人名のフォルダもあります。

「物件情報ってフォルダ開いて」

「はい」

開くと年度名の付いたフォルダが並んでいます。

「そこに過去の物件データが全部入っているから、過去のデータ探してとか言われたらそこを探して」

「分かりました」

「じゃあ、一旦全部閉じて」

言われた通りウィンドウを閉じます。

「高橋さんのフォルダ開いて」

開きます。フォルダが一つ入っていました。

『丸の内』となっています。

「それがさっき清水が言ってたやつ。あ、大事なルールをもう一つ。フォルダ名の最初に日付が入ってるでしょ?」

確かに年月日が数字の羅列で入っています。

「はい」

「共用のフォルダに入れるときは、ファイルであれフォルダであれ、同じように日付を先頭に入れて。そうしないと探すの大変だから」

「分かりました」

「じゃあ、その丸の内のフォルダ開いて」

「はい」

開くとフォルダが二つ。『チェック図』『修正図』と名前が付いたものです。

「チェック図開いて」

開くとフォルダと同じ名前のPDFファイルが一つと、『連絡事項』って名前のエクセルファイルが一つ。

「まずPDF開いて、A3に設定して全部打ち出して」

「はい」

言われた通りにします。印刷ボタンをクリックすると、ややあってから私の席と青木さんの席の間にあるコピー機が動き始めます。それを確認してから青木さんが言います。

「今度はエクセルの方開いて」

開いた画面を見てまた青木さんが言います。

「こっちはA4でいいや、打ち出して」

これも言われた通りやります。

「しゃあ、今度は修正図のフォルダ開いて」

開くと沢山のファイルが入っていました。青いアイコンが付いたDWGってファイル。『1階平面詳細図』とか『矩計1』とかってファイル名があります。青木さんが少し呻いた様子。

「そっか、三輪さんはPDFにしてくれないんだった」

しばらく考えている様子。私はコーヒーに口を付けます。もう冷めて暖かい程度になってる。

「しょうがない、一枚ずつ打ち出すか。一番上のファイル開いて」

ダブルクリック。すると右側のモニターに大きなウィンドウが開きます。CADの画面でした。それからCADの操作を教えてもらいます。と言っても、表示されている図面をちゃんと印刷するための操作だけだけど。私が図面書くなんて無理だから。でもちょっと楽しかったです。CADなんてプロが使うソフト。そう思っている私。それを私が使うなんて、ワクワクします。

「じゃ、その要領で全部打ち出して。続きはそれからにしよう」

三枚目まで私に付いて教えてくれていた青木さんが、そう言って傍を離れました。DWGのファイルの羅列を見ます。よく見るとファイル名の前に、通しで番号が付いています。画面をスクロールして一番下を見ます。112となっていました。112枚、いつまでかかるんだろうと考えてしまう。

 私が全部の出力を終えたのは十時半を過ぎた頃でした。ファイルは全部で112個でした。でも一つのファイルに何枚も図面が書いてあるものがあり、総枚数はもっと多くなりました。結構疲れました。コピー機はまだ出力中です。出力された用紙が溜まり過ぎないように時々抜いて、席の後ろにあたる中央のキャビネットの上に並べて置いていました。それを図面の番号順になるように整理しながら積み直します。

「出力終わった?」

青木さんが声を掛けてきました。

「まだ出力中のが何枚かあります」

私はコピー機の方を見ながらそう言います。

「お疲れさん、適当に休んでて」

「はい」

「裏の冷蔵庫に沢山入ってるドリンクは貰い物だから飲んでいいよ」

「ありがとうございます」

取り敢えず私は手を止めて、冷蔵庫を覗きに行きます。何が入っているかと思えば、よく見る小さな瓶の栄養ドリンクが一杯。他にもペットボトルが何本かありますが、みんな一本ずつなので誰かの物でしょう。ちょっと迷ってから栄養ドリンクを手に取ります。宣伝とかでもよく見かける物ですが、飲んだことはありませんでした。飲んでみると意外に美味しかったです。飲んでいるときに見上げるようなポーズになります。ロッカーの上に目がいきました。このドリンクの段ボール箱が二箱ありました。思わず吹き出しそうになります。キッチンとロッカーの間にある小さな食器棚を覗くと、来客用と思われるカップやコップがありました。カップはウェッジウッドのワイルドストロベリー柄の物でした。なにかこだわりがあるのかな? と思ってしまう。高価なので一つも持っていないですが、私はウェッジウッドの食器が好きなので気付いてしまいます。喫茶店なんかで見つけると嬉しくなって、それだけでそのお店が好きになってしまう。

 部屋に戻るとコピー機も出力を終えていました。私は排紙された用紙をすべて抜いて、キャビネットの上で整理。ミーティングテーブルは、朝からずっと久保田さんが書類を広げて何かやっているので使えません。私は青木さんに声を掛けます。

「社長、出力終わりました」

社長と呼んでみる。モニターを見ていた青木さんが振り向いて言います。

「社長はやめて、名前でいいから」

そう言って腰を上げるとこちらに来ます。

A3の束二つのうち一つと、A4の紙を持って私の机に持っていきます。

「そっちのも持って来て」

私は残ったA3の束を持って机に。青木さんはA3の束を左右に並べて置いてから左の束をめくっていきます。5枚くらいめくったところで手書きされた赤や青の文字や線がありました。すると右の束も同じところまでめくって私に見せます。

「この左側の図面、手書きで寸法が直してあるでしょ?」

「はい」

「これがチェック図。そしてこっちの図面が手書きでチェックされたところを直した図面。見比べて直ってるかどうか確かめていってほしいんだ」

「分かりました」

「で、注意があるんだけど、チェックしてあるところに時々『全箇所共通』とか書いてあるときがある。そう言うところは他の図面では何もチェックされていないことがあるからそれも見て欲しい」

「はい」

「いや、はいって言っても多分いきなりは無理だな」

「……」

「そう言う表記があったらそれも見ていって欲しいんだけど、その表記があったところに付箋つけといて。後は、何々書き足すとか削るとかそんな表記があった時も、そうなってるかは見て欲しいんだけど、そこにも付箋貼っといて。で、直ってないとか怪しいところは修正図の方にも付箋貼っていって」

「……分かりました」

なんだか少し高度な作業になったような。

「こっちの連絡事項ってのは色々と質疑や検討して欲しいことなんかが書いてあって、それに対してどうしたかとかが書き足してある」

数枚のA4の紙の方を見せながら青木さんが言います。

「でもこれは専門的なことが多すぎて、しばらくは意味不明だろうから見なくていいよ。清水にやらせるから」

「すみません、頑張って覚えます」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、ま、二年くらいかかるんじゃないかな、この手の内容が分かるようになるには」

そう笑顔で言う青木さん。二年か……。

「ま、焦る必要は全然ないから、気長にやって」

「分かりました」

青木さんが席に戻ったので私は確認作業を始めました。

 間違い探し作業に没頭して少し要領を掴んだ頃、左の方から声がしました。

「高橋さん、お昼どうする?」

「……」

青木さんと久保田さんが並んでこちらを見ています。

「下で良ければ今日はご馳走する」

「あ、ご一緒します。ありがとうございます」

と言うわけで、下の喫茶店にまた行きます。青木さんはまた同じ場所。私を挟んで久保田さんと三人並んで座りました。

「あ~、この前のお嬢さん。あおちゃんのとこ入ったの?」

カウンターの前からママさんがそう言います。

「はい」

「そう、これからよろしくね」

「はい、よろしくお願いします」

「今日は生姜焼きだけど」と、ママさん。

青木さん、久保田さんは「それで」と言うので私もそれにします。そしてトイレに行かせてもらいます。実は栄養ドリンクを飲んだ後から我慢していて限界でした。あの事務所にはトイレが見当たりません。どこにあるんだろう。

 別に大した会話もなく昼食は終了。事務所に戻る前にコンビニに行きたいと言って二人と別れました。コンビニで暖かいミルクコーヒーを購入。栄養ドリンクばかり飲みたくない。事務所に戻ります。事務所に戻ると田子さんが、打ち合わせコーナーのモニターで某局の連続ドラマを見ていました。これってテレビも見れるんだ。邪魔しないようにそっと奥の部屋へ。清水さんが戻っています。パソコンで動画サイトを見ていました。久保田さんはスマホを触りながら煙草を吸っています。青木さんも自席でモニターを見ながら煙草を吸っていました。私は自分の席に着いて午前中の続きを始めることに。しばらくして田子さんが入って来ました。自分のマグカップを持って更衣室の方に入っていきます。ドラマが終わったのでしょう。と言う事は一時です。

「じゃあ、行ってきますね」

久保田さんが鞄を持って立ち上がりながら青木さんに声を掛けます。

「はい、お願いします」

そう言って久保田さんが出て行くのを見送ると、青木さんは手早くパソコンを操作して画面を消していきます。そしてUSBメモリをパソコンから抜き取ります。

「僕も家で教文大の直しやっちゃうから出るね」

私と清水さんの方を向いてそう言う青木さん。

「ちょっと待って、まだやることあるでしょ」

田子さんが更衣室から出て来てそう言うと隣の部屋に行きます。すぐに戻って来ますが手には封筒と、昨日見た青木さんの車と同じ車の鍵があります。

「青木君、これ梨沙ちゃんに」

「あ、そっか。高橋さんこっち来て」

私はミーティングテーブルの方に行きます。青木さんは封筒を差し出して、

「これ五万入ってる、経費の前渡し。外で使う経費はここから出して、そして領収書はあんまりたまらないうちに田子さんに清算してね」

と、言いました。

「はい、でもいいんですか?」

「いいよ、仮払いだから、もし辞めるときは返してもらうから」

「わかりました。ありがとうございます」

そして車の鍵も差し出してきます。

「それとこれ、会社の車。前から話に出てる去年辞めたのが使ってたやつ。新車で買ったやつだからきれいだよ。先週洗車もしてあるから」

「私が使う車ですか?」

封筒と鍵を受け取ってそう聞きます。

「そ、それと、バス通勤したい? そうじゃなければ通勤に使ってくれてもいいから」

「あ、ありがとうございます。そうします」

「うん、私用に絶対使うなとは言わないけど、ほどほどに。事故したとき厄介だから」

「分かりました」

「その車はここの裏じゃなくてスーパーの北側の月極駐車場に停まってるから。白い軽自動車。分からなかったら清水に聞いて、あいつの車も同じ所に停まってるから」

スーパーの北側。買い物して帰れる。私はそれだけでも嬉しくなりました。

「わかりました」

 私がそう言うと青木さんは「じゃ」と言って出て行ってしまいました。田子さんも隣の部屋に戻ります。席に戻りかけたら清水さんに話しかけられました。

「梨沙ちゃん、丸の内のチェックってどう?」

「もう少しで半分くらいです」

「え、もうそんなに終わってる?」

私は自分の席に行ってチェック図の方の山を示します。

「あとこれだけですから」

言いながらチェック済みの方の束も手で見せます。

「うそー、打ち出すだけでも昼までかかると思ってた」

清水さんがこちらに来ます。

「青木さんが打ち出した?」

「いえ、教えてもらって私が出しました」

「早いね」

「はあ」

「どんなふうに確認してる?」

「どんな風にって……」

私は青木さんに言われたことを清水さんに伝えました。清水さんは修正図の方の確認済みの山を見て言います。

「こっちも付箋沢山付いてるけど、そんなに未修正あった?」

「いえ、えーっと、例えばこういうのがちゃんとそうなってるかどうか見て、見ましたよってことで貼りました」

自分で書いたメモを清水さんに見せます。今までに二項目メモしていますが、一つはこんな内容です。

『27,2Fから上 Y5通のX3からX7 壁の内側の寸法75と30 192.5』

清水さんはメモをじっと見ます。

「27って言うのは27号図かな?」

チェック図の確認済みの方をめくりながらそう言います。

「はい」

清水さんが手元に開いた図面の赤で書き込まれた記載を指さします。そこには前の数字が×で消されて書き換えられた後、メモに書いた内容が書かれており、共通と書いて丸で囲んであります。

「こう書いてあるので、2階から上の部分の図面はそれも確認しました」

清水さんは一枚めくります。さっきの27号図は『2F平面詳細図1』と書いてあるもので、一枚めくると『2F平面詳細図2』です。平面詳細図と言うのは各階3枚あるようです。そして、そちらには何も赤チェックされていません。

「建築図見れたんだ」

清水さんはもう一枚めくりながらそう言いました。

「いえ、図面なんて初めて見ます」

「え? ああ、通り芯とか青木さんが教えたんだ」

「通り芯?」

「聞いてないの?」

「……はい」

清水さんは私の顔を見ます。

「すごいね、よく理解できたね」

私は清水さんの手元の図面を27号図に戻して言います。

「このY5通って何だろうって思ってたら、この横の線の所にY5って書いてあるから、グラフとかのX軸Y軸みたいなもんかなって縦の線を見たらX1、X2、X3って並んでて、次のページ見るとX4から並んでるからこの部分かなって」

なんだか失敗の言い訳をしているみたいに一気にしゃべってしまいました。

「いや、それで正解」

「よかった」

「いやでも、初めて図面見て普通はそんなこと気付かないよ。訳分かんなくて聞くでしょ」

「はあ、でも何だろうって思って見てたら辻褄があっちゃったから」

清水さんはまた私の顔を見ます。勝手なことをしちゃったのかな?

「すみません。これからはちゃんと聞いてからやります」

ちょっと間があってから清水さんが言います。表情を和らげて。

「ごめんごめん、怒ってるわけじゃないから。驚いてるだけ」

「はあ」

「いや、普通はこんな細かい建築図なんて、見慣れない人が見たら辻褄合わせて理解しようなんてしないって。何これ? Y5? Y5って何? ってなるって」

「そうですか」

「お~、梨沙ちゃんは即戦力になりそうだね。すごいよ」

「そんなことないと思いますけど……」

なんだか照れます。

「そんなことありますよ~。で、こっちはノータッチなんだね」

キャビネットの上に置いていたA4の紙を手に取って清水さんがそう言います。

「はい」

「じゃあ梨沙ちゃんはそのまま続けて。僕はこれの確認していくわ。確認済みの図面、両方頂戴」

「はい」

なんだかホッとしました。一時は余計なことしてッて言われるかとヒヤヒヤしました。

 残りの図面の方がチェック内容が多くてちょっと手間取ります。それでも三時過ぎには終わりました。私は残りの図面を清水さんの所に持っていきます。

「終わりました」

「わかった、後ろに置いといて」

清水さんはCADで図面を書いていました。この図面をいじっているのかと思って見ていたら、ウィンドウ上部のファイル名は小林邸となっていました。確か午前中に行っていた現場です。別のことを始めていました。私の手が遅かったのかも。後ろで見ていたらこう言われます。

「切りのいいとこまでやっちゃうから休憩してて」

「分かりました」


 私は事務所を出て通路を建物の奥に向かいます。トイレは通路の突き当りだと田子さんに教えてもらっていました。歩いて行くとうちの事務所の隣は空室でした。その奥は『株式会社コンショウ』と扉にありますが、ブラインドが下ろされている上に電気も消えている様子。何の会社か分かりません。そしてその向こう、建物の反対側の階段の手前がトイレ。共用のトイレと言う事だったので期待していませんでした。でも、思った以上にきれいだったので安心しました。

 トイレを済ませて戻っても、清水さんはまだかかりっきりの様子。お昼に買ったミルクコーヒーをマグカップに入れて電子レンジで温めました。それを持って席に戻ります。とりあえずやることがないのできょろきょろ。清水さんの席と久保田さんの席の間に気になるものが。横長の何かの機械だと思うのですが、ビニールのカバーが掛かっていて何か分かりません。私の席の右側は少しスペースがあってから外の通路に面したガラスと扉です。ガラスの前に長机が畳んで2台置いてあります。壁には折り畳み椅子が、やはり畳んだ状態で6脚立て掛けてあります。このスペースで何かやるのかな? でも、何かやるには狭い、不明です。暇なので田子さんの所に何かお話に行こうかと思いました。でも、さっきトイレに行った時に見かけた姿は、難しい顔でパソコンの画面を見ているものでした。やめておくことにします。そう言えば全然電話が鳴らない事務所です。各自のスマホは時々鳴っているし、掛けているところも見ます。でも電話機の音はしません。と言うか、こっちの部屋には電話機がありません。たしか田子さんの机の上にはあったと思うけど。FAXはコピー機がその機能を持っていました。

「どした?」

後ろに清水さんがいました。

「いえ、なんでも」

「なんか変な顔してたよ」

変な顔してたのかなぁ……。

「いえ、電話機が無いなって思ってただけです」

「ああ、電話は田子さんの所だけ」

なんか腑に落ちない。不便そう。

「じゃあ、清水さんに掛かってきた電話とか、田子さんの所に行って話すんですか?」

そのために田子さんの前に空いてる机があるのかな? それでもやっぱり不便だ。

「ううんまさか、スマホが会社の電話とつながってるから、田子さんが内線で振ってくれる」

「へえ、そんなこと出来るんですね」

「何言ってんの、梨沙ちゃんのスマホも内線でつながってるよ」

「私のも?」

机の下に入っていた引き出しの付いたワゴン。それを引っ張り出して脇机のようにして、その上に置いた自分の鞄を見ます。いつの間にそんなことされたんだろ。いや、スマホをここで鞄から出したこともまだない。え? そんなこと出来るの? そう思っていると清水さんがこう言います。

「ひょっとして、スマホもらってない?」

「はい」

会社のスマホあるんだ。清水さんは隣へのドアを開けて田子さんに呼びかけます。

「田子さん、梨沙ちゃんのスマホは?」

「……忘れてた。すぐ持ってく」

清水さんはドアを閉めてこちらに来ます。

「聞こえたでしょ」

「はい」

田子さんはスマホの箱を持ってすぐにやって来ました。そしてそれをミーティングテーブルに置くと、久保田さんの椅子を引き寄せて座ります。

「こっち来て」

「はい」

私も自分の椅子を引いて行きます。

「これも忘れてたから渡しとく」

小さな紙の箱を渡されます。名刺でした。田子さんはスマホの箱を開けて中を出している最中なので、私は名刺の確認。所属が設計部となっているのを見てなんだか感慨深いです。設計なんて言葉が付くところに自分が所属しているなんて。そして気付きます。携帯電話の番号が書いてあります。もちろん私のスマホの番号ではありません。

「清水君、内線でこれ鳴らしてみて」

田子さんが清水さんに言います。

「確認済みじゃないの?」

「いいから」

清水さんは自分の机の上に置いていたスマホを手に取って操作します。ほどなく田子さんの手にあるスマホが鳴り始めました。

「大丈夫ね、ありがと」

そう清水さんに言ったあと私の方を向きます。

「ごめんね、ピンクが無かったからこんな色なの。いいよね?」

きれいなワインレッドのボディーでした。田子さんは私がピンク好きだと思ってる様子。嫌いじゃないけどピンクのスマホは持ちたくないなぁ。

「いえ、その色好きです」

「良かった。スマホの使い方なんて私より知ってると思うから言わないけど、内線の使い方だけ教えとくわね」

「はい」

スマホを私に持たせます。

「このアイコン、タップして」

すごい、この年齢の人からアイコンとかタップなんて言葉が出てくるとは思わなかった。そう思いながら言われたとおりにタップ。すると、この会社の四人の名前が出てきました。

「掛けたい人の名前をタップするとまず内線でつながるから。内線でつながる範囲にいなかったら勝手に外線で掛けてくれるの」

「すごい」

「内線でつながるのはこのビルのほんとに近くだけ。どうなってるのかは知らないけど、もっと高いプランにすると、どこにいても内線でつながるみたいだけど、うちにはメリット無いから」

「外に出る人が大勢いる会社だとその方がいいんだろうけど、うちはこの人数だから」

田子さんの説明を清水さんが補足してくれます。そしてさらに続けてくれます。

「梨沙ちゃんの車のナビとそのスマホ、ブルートゥースでもうつないであるから、ハンズフリーで話せるよ」

「あ、ありがとうございます」

「でも、誰かと乗ってるときは接続切った方がいいかも」

「なんでですか?」

「ハンズフリーやったことない?」

「はい」

「車のスピーカーから相手の声が出るから、一緒に乗ってる人に全部聞かれるよ」

「なるほど」

「今日乗って帰るんでしょ? 多少の私用電話は怒られないから、友達にでも掛けて試してみたらいいよ」

「はあ、分かりました」

「わざわざ試さなくてもいいわよ、そのうち嫌でも使うんだから」

田子さんはそう言います。

「ですね、すみません」


 そのあとは清水さんが建築図の見方を教えてくれました。でも短時間だったので触りだけ。五時になるともう上がっていいよと言われました。私が机を片付けてパソコンの電源を落としていると田子さんが傍に来ます。

「これ渡しとく。なくさないでね」

鍵でした。

「事務所のですか?」

頷く田子さん。

「下まで一緒に行きましょ。清水君お先ね」

そう言ってもう隣へのドアに向かいます。

「お疲れさまでした。梨沙ちゃんもお疲れ。また明日ね」

清水さんもそう言ってくれます。私は清水さんに挨拶して田子さんを追いかけました。ビルから出ると田子さんは駅と反対方向に向いて言います。

「じゃ、また明日ね」

「田子さん電車じゃないんですか?」

「私の家、歩いて五分くらいなの。ほら、あの茶色のマンション。あそこなの」

田子さんが指さす方に、確かに茶色のタイル貼りのマンションがあります。すぐそこです。

「そうだったんですか。お疲れさまでした」


 田子さんと別れてからスーパーの方へ。買い物しやすくなりましたが今日は用事なし。北側の道を入って駐車場を探します。探すまでもなくすぐにありました。両側に十数台ずつスペースのある駐車場。八割がた車が停まっています。それに白い軽自動車と言ってましたが、白い軽が何台も停まっている。駐車場に少し踏み入ったところで鍵の開錠ボタンを押してみます。反応なし。もう少し入ってもう一度。右側の中ほどに停まっている車でオレンジのライトが点滅しました、これだ。なんだか感動。会社の軽自動車と言うことで、ごく普通の軽自動車を想像していましたが、今時の後ろがスライドドアになった少し大きめのタイプでした。車を一回り眺めてみることに。駐車スペースの後ろのブロックに会社名のプレートが貼ってありました。これで停める場所も間違わずに済みそうです。隣にもうちの会社の名前が貼ってあり、青木さんと同じ車が停まっています。清水さんのでしょう。でも2台だけです。久保田さんはまた別の所なのかな? そう言えば久保田さんは帰って来ませんでした。

 車に乗ってエンジンを掛けます。昨日、青木さんの車に乗っていて良かったです。今日これにいきなり乗っていたら、エンジンの掛け方が分らず困っているところでした。そして自分のスマホを取り出します。さっきはああ言いましたが、ハンズフリーを試してみたい。ナビの方の設定の仕方が分らず、手間取りましたが何とか接続完了。朱美に早速掛けます。驚いたことにナビの画面にも朱美の名前や電話番号が表示されます。なんかワクワクしていましたが朱美は電話に出ず、留守電になってしまいます。しょうがないので車を出して帰ることに。

 最近はいつも歩いて上っていた坂道を登り始めた頃、電話が鳴りました、車のスピーカーで。ナビの画面に着信の表示と朱美の名前が出ています。びっくりしながらもハンドルに付いている通話ボタンを押すと、朱美の声がスピーカーから流れます。確かに同乗者がいるとまずいかも。

『なんかあった?』

「ごめん掛けただけ、用事ない」

『何それ、今日、初出勤だったでしょ? なんかあったのかと思った』

「ううん、何もないよ」

『そ、なんか声が変だよ』

「そう? 別に何もないけど」

『いや、なんかいつもと違う感じ。スピーカーにしてる?』

「ああ、ナビにつないでハンズフリーにしてる」

『ナビ? 車乗ってるの? まだ仕事中?』

「ううん、会社の車で通勤していいって言われたから」

『へー、良かったじゃん。バスとおさらばだね』

「うん、やっぱり楽だわ」

『どんな車?』

「軽だけど大きいやつ」

『今度乗せてねって、電車来たから切るね』

「うん」

私が返事してる途中で切れました。地下鉄のホームにいたようです。メインのバス道は混んでいましたが、左にそれてからはスイスイ。すぐに帰りつきました。車を停めてからまたナビを操作。私のスマホの登録を消すため。誰か乗せてる時に私用電話が掛かってきたりしたら困るので。でも、誰か乗せることあるのかな? 車を降りていつもは使わない階段で上に上がります。いつもの階段は表に回らないといけないので、駐車場からはこっちの方が便利。階段から部屋までもはるかに近いし。でも集合ポストは表にあるので、定期的に郵便物を取りに行かなくては。階段を上りながら気付きます。会社のジャンパーを着たままでした。私の席のある方の部屋は換気の為に風が抜けています。なので少し寒い。真冬はどうなるのだろうって感じ。それでジャンパーを着たのですが、そのまま帰って来てしまいました。ま、車で通勤なら構わないのですが。部屋の鍵を開けるときにキーホルダーを見て思いました。帰るときに渡された会社の鍵。自宅の鍵のキーホルダーに付けましたが、会社の車のキーホルダーに付けた方がいいかなと。玄関に入って付け替えます。会社の車のキーホルダーは黒いプラスチックの棒状の物。直径1センチ弱くらいで長さが4センチくらい。何かアルファベットで書いてあったようですが、擦り切れていて読めません。適当にあったものを付けたのかな? ま、会社からの支給品なのでこのままにします。玄関わきの靴入れに何故か最初からついていた四つ並んだフック。両面テープで貼るタイプの物。そこにいつも家の鍵を掛けていますが、今日からは車の鍵もそこへ。自分の車ではありませんが、なんだか少しうれしい気分。



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