Case.1 ‐方舟へみちびく女‐(4)

     4


 前日の夜──。

 かがみモアの配信は、終盤にはかろうじて盛り上がりを見せた。

 突如あらわれたいわしクンというリスナーのスパチャによって、魚類の難読漢字に話題が転じ、魚の焼き方をネタに、場を取り持つことができたのだ。

 海那は内心ほっとしていた。感謝の意を込め、せめて次の夕食は鰯にしたい。

 モニター前のウェッジウッドの置時計をいちべつし、配信を終える頃合いを見計らう。

『はーい。じゃあ、そろそろ今夜もコールと行きましょう』

 画面の中の自分──鏡モアが笑顔を向ける。海那は昔から〝お開き〟のことをコールと呼ぶ癖がある。そのままVTuberとしての配信でも使っていた。

 ○とどめの目刺しは草

 ○モアラーも目刺しになるんやで

 ○目がぁぁ目がぁぁああ

 ○えーいまきたばっかり〜

 ○告知期待

『あ、その前に……告知でしたね』海那はごくりと唾を飲み込み、覚悟を決める。『なんとなんと! 明後日あさっての金曜日二十時より、いま話題のゲームを配信しま〜す!』

 ○おおお?

 ○なんだろ?

 ○視聴者参加型?

『ゲームの内容はこちら──夏の備えに! スリムハンドルアドベンチャー! ……というわけでシルエットわかりますか? 察しのいい人はわかるよね? そう、みんな気になってることだと思うんですけど……。やっぱり女の子としては夏に向けたシェイプアップをとね〜。あはは』海那は気丈に振る舞う。

 ○そっちかぁ〜

 ○切り抜きがはかどるな

 ○モアちゃんスリムハンドル初見じゃない?

 ○体重バレ注意

『あ、そうなんです。初めてなのでお手柔らかにお願いしますっ。──必ず見に来てくださいね! それではまた〜。おつもあー』

 ○おつもあ〜

 ○言うて大した告知じゃなかったな

 ○楽しみにしてます! またねモアちゃん!

 小鴉海那は、逃げ去るようにOBSの配信停止を押した。配信終了を確認したあと、その場で腕を組んで頭から突っ伏す。「はぁ〜……」

 二日後のゲーム配信のことを思うと、憂鬱で仕方がない。

 やおら顔を上げ、魂の抜けたLive2Dアバター『鏡モア』と向き合う。

 スリムハンドルアドベンチャーとは自宅で運動ができる体感ゲームだ。この実況配信を考えたのは海那自身である。だが、望んだことではない。

 プロデューサーである鏡モアのママ(=キャラクターデザインを担当したイラストレーター)からプレッシャーをかけられ、追い詰められた結果、海那が自らこの配信を企画したのだ。

 鏡モアはデビューして二ヶ月の新人VTuber。

 まだ絵に毛が生えた程度の若輩だが、YouTubeのチャンネルはデビュー直後から登録者数二万人を突破して好調な伸びを見せた。というのも、そのママであるベササノの影響が大きかった。その肉体ガワのデザインに合ったつやのある声、配信慣れしてないピュアな反応がリスナーにウケた。

 一方で、そこから先、跳ねる要素がなかった。

 最近は配信の同時接続者数も二百人に届かず、百人程度を推移している。コアなファン以外、リスナーには飽きられたのだろう。

 ファンが一人でも見ているなら──という言葉はマネタイズを無視した甘い幻想。

 結局のところ、VTuberは収益性が見込めなければ、かさる運営費をペイしたり、活動の意義をいだしたりすることが難しくなる。デビュー時期が同じ新人VTuberにはチャンネル登録者十万人も目前という者もいる。そういった新人はグループの影響が大きく、箱推しファンの存在がリスナーの増加に拍車をかけるのだ。

 その格差を鏡モアが良しとしても、ベササノが許さなかった。

 そこで考えた苦肉の策が、ややセクシーな活動路線へのシフト。

 スリムハンドルアドベンチャーの実況がなぜVTuber──とくに女性VTuberがよくやっているかというと、きつい肉体負荷によって自然と出てくる喘ぎ声が色っぽくなり、センシティブギリギリを攻めることで視聴者数を稼げるからだ。

 しかし、この策も成功するかは怪しい。既存VTuberが散々やり尽くしたネタだ。

 ピコ──。Discordの通知音が鳴った。それも何度も。


 ──2022年6月24日──

 ○ベササノ  今日21:07

 :さっきの配信は何だよ?

 :告知の仕方もっとなんとかならなかったのか?

 :もう少し盛り上げて言わないとちゅうはんになるだろ!

 :明後日これで反響が薄かったどうする? もう後がないだろ?


 いつも通りの威圧的なチャット。……ベササノからだった。

 鏡モアが所属する『ベササノ・Vプロダクション』のプロデューサー。

 彼はイラストレーターかいわいでは有名絵師とたたえられ、SNSでも人格者と評されている。

 人気絵師が生んだキャラクターなら伸びること間違いなし。さらに人格者と名高く、活動に困ったときも良き相談相手になってくれるだろう。

 ──と、このオーディションが行われた頃には話題になったものだ。

 そんなネットの評判は、無情にも実態とかけ離れたものだった。


 :このあと反省会な。ビデオオンにして待ってろ。


 始まった──。

 配信が終わった後、必ず行われる反省会と称したハラスメントボイスチャット。

 ベササノはほぼ半裸に近い状態でビデオ通話を始め、嫌がるにもビデオ機能のオンを強要する。そしてセクハラ発言を繰り返す、オンライン反省会が延々と続くのだ。

 はじめてベササノに接触をしたとき、その違和感に海那は気づくべきだった。


 ──『ベササノ・Vプロダクション』始動! 魂オーディションを開催します!

 その告知をTwitterで目にしたとき、海那はちゅうちょなく飛びついた。

 オーディション内容は公開されておらず、希望者に直接連絡されるという。

 海那はそういったオーディションにありがちな審査を想定し、歌ってみた音源の準備、特技や一芸──とくにバレエの経験でつちかったダンス、あとは滑舌披露といったものを熱心に練習した。ここでの海那の最大の落ち度は、世間知らずを自覚していなかったことだ。

 面接は、夜間に何度かビデオ通話をしただけで終わるお粗末なものだった。

 ビジネスやサービスにおいて〝簡単無料〟といううたい文句はリスクを伴っている。

 それはがらす海那が、鏡モアというVTuberとなって学んだ最初の教訓だった。

 そうして一ヶ月がち、ベササノの嫌がらせは日に日にエスカレートした。

 海那のストレスは限界に達していた。まだかろうじてリアルの住所を知られていないことが救いだ。これで住所まで特定されようものなら自宅に押しかけられ、最悪、直接的な性的嫌がらせを強行されるかもしれない。

 両親にも相談できない。この状況をどう説明できるだろう? VTuberをやっていることも秘密にしている。──その活動をサポートしている成人男性から性的嫌がらせを受けている。そう親に相談する勇気は、いまの海那にはない。

 その個人情報もスリムハンドルアドベンチャーの配信に賭けられていた。

 同時接続者数の目標は五百人。その結果次第では、小鴉海那はベササノとの夜の食事デートを強要されることになっていた。

「ああ……どうしよう」海那は嘆いた。

 ベササノは性欲の強い男だ。

 海那も察していたことだが、これまでコラボ配信がかなったほかのVTuberの女の子から、その配信後には遠ざけられるのを感じていた。

 意を決して、そのうちの一人から、訳を聞いてみたことがある。

 どうやらベササノはその肩書きを利用し、ほかの女の子と関係を作ろうとしつように鏡モアのコラボ相手に粘着しているようだ。およそ海那が未成年のため、手出しすることに踏ん切りがつかず、ほかの女性VTuberでひとまずの性欲を満たそうとしているのだろう。

 VTuber界にも義理人情というものがある。ろうぜきをはたらくVTuberはつまはじきにされ、コラボ配信の機会を失う。すると、リスナーの動線がなくなって視聴者がつかなくなる。

 不届き者は村八分にされるというわけだ。

 海那も自ら、誰かとコラボ配信をすることを避けるようになっていた。ベササノの本性を知らずつながったVTuberの女の子に、嫌な思いをしてほしくない。

 ベササノからのチャットが続く──。


 :ところで明日の賭け、覚えてるか?

 :楽しみだな。どっちに転んでも俺はいいけどな。


 海那はおぞましさを感じた。そのメッセージを見たとたん、海那は吐き気を覚え、部屋を出てトイレに駆け込む。

 最低の男にガワをもらってしまった。

「う……うぅ……うっ……」

 引退したい。自分が甘かった。VTuberをやめたい。

 けれど、少なからず百人のファンが鏡モアを応援してくれている。

 彼らの期待に応えられなければ、海那は自分自身が許せなくなり、ほかのどんなことにも挑戦できなくなるような気がした。

 推しの引退がどれほどつらいかは、よく知っている。

 以前は自分も、そちら側にいた身だから──。


     ◆


 小鴉海那は、容姿にコンプレックスがあった。

 その顔はむしろ人から羨まれるほど美人。父親は日本人で、母親はイングランド出身。いわゆるミックスドレースである。親の世代からは「ハーフ」と呼ばれることのほうが多い。この境遇は、日本のような島国ではとくに不便だった。

 幼少期、海那はクラスメイトからよく特別視されていた。

 ほかの子と同じように日本で生まれ、日本の国籍を持ち、日本語を話すというのに。

 海那は物心つく前からダンス好きな母に連れられ、バレエスクールに通っていた。

 その癖でしゃくはカーテシーが基本だった。バレリーナは指をれいに伸ばし、服をすっとつまみ、お辞儀する。それがカーテシーだ。そういった高潔な作法が小学生の目には奇異に映ったのだろう。お人形めいた上品さはクラスで浮く原因となった。

 海那はとしを重ねるにつれ、自分という存在がコミュニティにめない、恥ずべき人間なのではないかと思うようになった。学校生活だけではない。街へ買い物に行けば、読者モデルのスカウトによく声をかけられる。もちろんナンパにも──。

 まるで四六時中、誰かに監視されている気分だ。

 すれ違えば誰かが視線を向ける。注目を浴びる。品評にかけられる。

 常にランウェイを歩かされる心境。それゆえ、美容には気が抜けない。美しさの誇張ではなく、他人に細かな欠点を見透かされないようにするための防衛本能だった。

 そうして守ってきた玲瓏な髪。白い肌。細い足。ぱっちり二重のまぶた。

 街中で声をかけられるたび、海那は身をすくめ、自らの容姿を気にかける。そんな絵画めいた完璧性を求められる容姿が嫌いだった。


 人間不信に陥りかけていた小鴉海那にも一人、友達がいた。

 それがきりたにあやという、さばさばとした性格の少女だ。彩音とは中学三年生のとき、都内の私立高校の説明会で知り合った。

 学校説明会には清潔な服装とふさわしい頭髪で、といった暗黙のドレスコードがある。

 海那は地毛が金髪なのでどうしようもなく、説明会では終始目立っていた。

 そこに霧谷彩音が登場。──彼女の髪は紫がかった銀髪。これでもかというくらい髪を派手に染め、誰かあたしを止めてみろ、と挑発的な態度でせ参じたのである。

 そんな彩音のことが、海那はひと目で好きになった。

 晴れて同じ高校に入学したあと、海那は彩音とよく一緒に過ごした。

 彩音は流行はやり物が好きだ。それは海那のように人におびえ、人に合わせるための振る舞いではなく、逆に脚光を浴び、毎日を楽しむための自己アピールの手段のようだ。

 高校に入学して一ヶ月経ったある日のこと──。

「なあ、ミーナ〜。これ知ってる?」

 彩音がスタバでフラペチーノに吸いつきながら、スマホを海那に見せた。

 彩音は海那のことをミーナと呼ぶ。ミとナの間の〝ー〟があったほうが語感がいいのだとか。

「ん?」海那は口をすぼめて画面をのぞき込む。「なにこれ、アニメ?」

 とぼけた返答すらわいい海那。そんな彼女に彩音はほほみながら答えた。

「ちがうちがう。これね、ブイチューバーっていうんだ」

「ぶい……ちゅー?」

「にひひ、かわいいなミーナ」彩音はからかうように笑う。「YouTuberはわかるよね」

 彩音もVTuberに憧れを抱く一人だった。

 ──VTuberになれば簡単に別の自分になれる。彩音がそう説く。

 容姿を好きに決め、画面の中でチヤホヤされる存在。なんて気楽だろう。

「へぇ〜」海那は食い入るように見つめた。動画の中で面白おかしくしゃべる、VTuberなる美少女たちの振る舞いに心奪われたのだ。

「おもしろいね。彩音も推しがいるの?」

「あたし? あたしはこの子かな〜。かわいいっしょ」

 彩音がアプリの中で特定の動画をタップし、推しを海那に見せつけた。

 それは『星ヶ丘ハイスクール』というVTuberグループのせい系黒髪少女──ほうこうれいという女の子だった。

「歌がすごく上手うまいんよ。……だけじゃなくてれいちゃんはこう、カリスマ性があって、見てるとスカッとする。リスナーにびないってーかさ。海那も推そうよ」

 それから彩音に誘われるまま、海那はSNSでアカウントを作り、YouTubeでほうこう玲のチャンネルを登録した。当初は玲の活動を追うためだったが、そこから『星ヶ丘ハイスクール』という箱を知り、ほかのVTuberも知るようになった。

「──ねえ彩音。ちゃんだけなんかファンの活動がきわってない?」

 一学期の中間考査も終わる頃、すっかり二人は推し活に熱中していた。

「ああ」彩音は当然のように言う。「乃亜推しカルゴな。こいつはヤバい」

「か、カルゴ?」

 はその奇抜な名前に戸惑った。かなえ乃亜の活動を受け、にぎわうファンの発信源はいつだってそのリスナーだった。海那はそのTwitterアカウントに目を通す。

 ポップに描かれたカタツムリのアイコンが非公式イベントの告知を繰り返している。

「投げてるスパチャの額がヤバいんだわ。まず当然のように乃亜の配信には一番乗りで現われるし、かけてる金と時間がすごい。けど、こいつの一番ヤベーところは乃亜だけじゃなくて同じファン──ノア友って言うんだけど、そこに積極的にからんでくとこかな」

「……それ怖くない? 囲われるみたいで近寄りがたいんじゃ……」

 推しに迷惑をかける事態になりかねない。海那も距離感の近い人は苦手だ。

「それがそうでもないらしくてねー。不思議だけど、乃亜推しカルゴは絶対に自分が一番乃亜を推していることをひけらかさない。リスナーのどんなさいな声援にも真摯にお礼を言う。──乃亜本人以上にね。絡みを無理強いしなくて、あっさりしてるらしいよ」

 アイドルを推すような競争心の強いファンとは正反対だった。

「へぇ……。変わった人だね」

「ノア友が個々でやってる趣味にも付き合ってくれるんだって。ゲームはもちろん、カードとか映画とかプラモとか声劇とか……? リスナーもリスナーで趣味あんじゃん? 推し事以外のさ。そういうのを応援してくれるんだと。あたしもよう知らんけど。本人いわく『乃亜ちゃんのスローガンに準じてます』だってさ」

 夢叶乃亜のスローガン。──〝ノア友と一緒に夢を叶える〟だ。

 乃亜推しカルゴは、ノア友の夢も応援しているのか。それはもはや推し事の域を超えている。まず、個人では身がもたない。

かいわいでは人外説もささやかれてるよ。運営が雇った組織説だの、仕組まれたAI説だの。海外ニキも──あ、海外のVTuberファンのことね──英語や中国語、インドネシア語で絡まれたとかって騒然としてる」

「語学もたんのうなの?」海那は親近感が湧き、目を見開いた。

「うーん……。うわさだからね、あたしも詳しくはわからん」

 彩音が頬を掻き、情報屋の名折れを恥じるように目を伏せた。

 がらす海那は、気づけば乃亜以上に乃亜推しカルゴのことが気になっていた。

 人を避けて生きる自分とは対照的なその存在が、奇特に思えたのだ。

 そうして海那は乃亜推しカルゴをきっかけに乃亜を推すようになった。海那もまた、カルゴの策略にやられた一人というわけだ。


     ◆


 思えば、憧れていたにすぎなかったのかもしれない。

 海那はトイレで気分の悪い脊髄反射に耐えながら、そう振り返っていた。

 この殺伐とした世界でもインターネットという電子の水面下では、なにか飛び抜けたことをしでかし、誰かの心をときめかせる存在がいる。それが〝界隈〟をつくり、眺める人々の心を躍動させるのだ。乃亜とカルゴは、合わせて一つのエンターテインメントだった。ノア友はその一幕を観劇しているだけでよかった。

 でも夢叶乃亜は炎上し、乃亜推しカルゴも消えた。

 二人が消えてから、喪失感の中で海那は、自分にも何かできるのでは、という地に足のつかない計画を考えていた。

 それこそが自分もVTuberとなり、VTuberを救う方法を探すことだった──。


 日本にはVTuberが三万人ほどいる。全世界で見れば、五万人だ。

 ただ、この数値はどうやってもちゃんとした統計が取れないようになっている。

 名乗るだけでVTuberになれるのだから。中には配信活動もしないまま、SNSにだけ存在するはん者もいた。ファンが誤ってVTuberの一人にカウントされることさえある。きっとこれからの技術の進化により、VTuberはより普遍的な存在になるだろう。

 一方で、いくら体裁の整った配信を行い、ファン獲得競争に参戦したとて、ざんぱいして引退するVTuberも多い。

 おそらく五万人のうち、半数以上はもう活動していない。

 引退理由は体調不良、プライベートの都合、やる気がなくなった、など様々だ。

 けれど、やむにやまれず引退に追い込まれるVTuberもいた。その最たる要因──それが海那もの当たりにした【ネット炎上】だった。

 VTuberとは、体のいいペルソナであり、中には〝魂〟がいる。

 AIがVTuberとして配信する例もあるが、それはそれとして魂──すなわちガワを操り、意思を持つ〝中の人〟がいるのが前提だ。

 だから、VTuber界隈ではその生身の存在を〝魂〟と呼んでいた。

 魂が核となり、VTuberをパーソナライズするのだ。

 その魂がどこかで、いかにも人間らしい失態を見せたとする。

 すると、それがスキャンダルとして取り沙汰され、目撃者の手で拡散されて糾弾が始まり、ネット炎上として燃え広がるのである。かなしきかな、VTuberの引退もそうして引き起こされる。あの夢叶乃亜のように──。

 それなら魂を替え、また別の誰かが〝夢叶乃亜〟を演じればいい。

 それがそうもいかない。VTuberの個性は魂やその運営方針によって成立し、中の人が変わるということは、まずありえない。過去にそういったケースを目の当たりにしたリスナーは、どこかおかしな現象を見せられた気分になった。

 ──あれ? いままで応援していた子は……? と。

 仮にそこにいるのが同じガワだとしても、魂が変われば別人だ。では、VTuberがやむなく引退したあと、魂はどこへいくのか?

 VTuberではなく、生身の配信者として活動しているかもしれない。

 どこかの芸能事務所でタレントとして活動しているかもしれない。

 あるいは、また別のVTuberに〝転生〟しているかもしれない。

 取り残されたVTuberファンはそんな彼らにどう向き合えばいいのだろう。

 魂のことが好きになってまた推す者もいる。もう推しのVTuberではないからと別人として扱い、追いかけない者もいる。

 それぞれの価値観に基づき、吹っ切るしかないのである。

 ただ唯一、それぞれの中で変わらない真実がある。……ファンが推しの死に嘆き悲しんだという過去は、二度と変わらない。


 そんな悲しい出来事が、VTuberという存在が生まれてからこの六年もの間、頻繁に繰り返されてきた。

 彼らはどんな思いで仮想世界を去ったのだろう。

 無念だっただろうか。道半ばで諦めて悔しかっただろうか。

 VTuberの先には数多くのファンがいる。規模によっては数十人から数百万人のファンを抱えるVTuberもいる。もし彼らがいなくなれば、悲しみの声は際限なく増える。

 鏡モアですら百人ほどのリスナーを抱えているのだから──。

「うっ……ぷ……。うぅ……」海那はまた、えずいた。思考の現実逃避から舞い戻り、またトイレの水を流す。

 れいになった水面に映る〝鏡モア〟が、じっとこちらを見ている気がした。

 どうしてこうなってしまったのだろう?

 海那が目指した〝魂〟の救済──。同じ世界の住人になれば、より近い距離でVTuberの魂を救う方法が見つけられるのではないか。当初はそう思っていた。しかしこれでは、自分自身が悲劇のるつぼのただ中だ。

 所詮は海那も他人を救うなどという英雄的所業を成し遂げる器ではなかったのだ。どうかつに怯え、なさにいらち、震えて何かに寄りかかるだけの──。

「ああ…………。ああぁあ……っ」海那はまた泣き、その恥辱をそぎ落としていく。

 揺れる水面鏡の中、VTuberの自分がまどろんで消えた。

 一階で楽しそうに過ごす両親の会話にはっとなり、自室に戻る。

 スリムハンドルアドベンチャーについて、せめてあえぎ声というバーチャルタトゥーを最小限にとどめる方法でも考えようとiPhoneを取り出した。

 ブラウザを立ち上げ、〝Discover〟に表示されたページの数々をスクロールする。

 この機能について、海那はどうにもスマホ越しに日常が盗撮されているように思えてならない。ふと、ページのスクロールがぴたりと止まる。


 ──あらカザンの【燃えよ、ぶい!】


 VTuber界隈の炎上ニュースを取り扱うそのサイトに目が留まった。

 まるで誰かが意図的に、そこへ導いたかのようだ。海那はどういうわけか、そのブログにくぎけになっていた。

「あれ……ら……と? あら……ら……?」

 プロフィールにはりちに「あららと かざん」と、ふりがなまで振ってある。

 変わった名前だ。批判覚悟でこんなゴシップをまとめ上げる度胸もすごい。不思議とその名前の響きが印象に残り、興味本位で「あららと」とは何かを調べてみた。

 ──アララト。アララト山。

 アルメニアの都市やトルコの山が検索に引っかかる。海那は驚き、目をいた。アララト山とは伝説によると、ノアの方舟はこぶねが大洪水のあとに辿たどり着いた到着地点だ。

 ノアの方舟。夢叶の初シングル【Ark!】が頭に浮かぶ。

 そしてVTuberの炎上記事を扱っているという関連性。海那は夢叶乃亜を推し、VTuberを始めるきっかけにもなった、とある男を思い出した。

「……カルゴ……さん?」

 そこにはすがるような思いがあった。

 VTuberになってからの苦労を踏まえ、あらためて海那は自分に欠けていて、けれど救済に必要不可欠なパワーを持つ男の存在に気づく。

 誰かのために、他人のために、全力を尽くして突破口を開くバイタリティの塊。

 彼こそ、夢叶乃亜がのこした方舟のエンジンだ。

「乃亜ちゃんの……方舟アークがここに……」

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