#2  発進、灼熱のテンピン号

 それは、赤い軽自動車だった。いや、正確にはピンクともオレンジともつかない妙な色だったが、元が赤であったことには間違い無さそうだった。恐らく長年の間風雨にさらされ、陽を浴び続けた結果、そんな色に変わったのだろう。窓枠のゴムも、すっかり干からびてひび割れ、灰色に変色している。要するにそれは、相当な年代物の車だった。エンブレムやネームプレートの類いは全部取れて一つも残っておらず、どこの何という車なのかはさっぱり分からない。ただ、真ん丸のヘッドライトや妙に角張ったボディからしても、かなり昔のモデルなのは間違いなさそうだった。


「よう、おはよう」

 車の横に立った長身の大沢さんが、そう言って右手を高く上げた。この人は大学OBでバイトの先輩、今は市役所で働いている。

「どうも、おはようございます。しかし、こいつは……」

 僕はそのボロボロの車をまじまじと見た。

「すごいだろ。これでも、まだ走るんだぜ。日本車ってのは優秀だな」

「日本車……なんですよね、これ一応」

 もし、「こいつがあのインドの国民車『インディラ・カバディ』なんだぜ」とか言われたとしても、ああこれがねとしか言えそうにない。

「調べてみましたが、スズキのアルトですね、これ。恐らく初期型の」

 白滝が、横から言った。

 彼の話では、この車の新車価格は四十七万円だったらしく、昔の話とは言え随分安い。


 車内をのぞきこむと、白滝の同級生である阿倍野が小太りの体を窮屈なリアシートに押し込んで、おとなしく座っていた。こいつも、昨晩の騒ぎに巻き込まれた一人だ。エンジンが止まってエアコンの効いていない車内はサウナ並みの暑さだったが、こいつは涼しい顔をしている。

 よう、おはようと声を掛けると、彼は黙って会釈を返した。

「せっかくの戦利品だしさ、名前付けようぜ、この車」

 そう言ってボンネットに手を置いた大沢さんが、あちちちと言いながら慌てて手を離した。強い日差しとエンジンの熱で、卵が焼けるくらいの温度になっているに違いなかった。

「『テンピン号』ってのはどないでしょうかね。テンピンのレートで打った麻雀の戦利品なわけやし」

 車内の阿倍野が、突然口を開いた。

「お、いいなテンピン号。この車が我々のものになった、その由来を見事に表した名前だ」

 白滝がはしゃいだ声を上げた。

「じゃあ、そうしましょうか。テンピン号ってことで」

 と猪熊が無精ひげをさすりながらうなずく。

「ただ、これは俺の車であって、『我々のもの』じゃないんで、そこはよろしく」


 さあ出発だと言うことで猪熊が運転席に乗り込み、イグニッションを回した。途端にエンジンが、景気の良い爆音を立てて回転を始める。その音は今まであまり耳にしたことがないもので、タンタンタタタンとでも言うような、どこかの原住民の太鼓のような独特のリズムである。

「ところでさ」

 と僕はサイド・ウインドウ越しに運転席の猪熊に話し掛けた。大きな声を出さないと、エンジンの音に負けてしまいそうだ。

「みんなで、五人いるよな」

「ええ、いますね」

猪熊はうなずく。

「この車って、五人も乗れるのか? 軽自動車だろ?」

「こいつは4ナンバーの、いわゆるボンネット・ヴァンてやつなんですよ」

「だから?」

「税制上は貨物車の扱いですから、フロントシート以外は荷物室ってことになってます。つまり、皆さんには貨物としてリアに乗ってもらうことになるわけです。ですから、定員も何も関係ありません。安心してください」

「そういうもんかね」

 僕は首を傾げる。まあ、猪熊は法学部だし、あながちでたらめでもないのだろう。


 俺を荷物室なんかに載せるのか、俺はお前らより先輩だぞ社会人だぞと大人げなくごねる大沢さんを助手席に乗せることにして、白滝と僕は阿倍野と一緒にリアシートに乗り込んだ。2ドアの車だから、前席の背もたれを前に倒して、ドアの隙間をすり抜けるように乗らなければならない。

「うわ、こりゃ狭い」

 太った阿倍野と僕に挟まれた白滝が、悲鳴を上げた。

「おい、早くエアコン入れろ」

 前席の猪熊に向かって、僕は叫んだ。太陽に熱せされた車体の鉄板が、熱気をダイレクトに車内に放射していた。こんな中で黙って待っていた阿倍野は、どうにかしているのではないか。五人の男でぎゅうぎゅう詰めになった車はもはや灼熱地獄だ。

「これだな」

 大沢さんが、ダッシュボードのレバーを動かす。途端にレバー下の送風口から勢い良く風が吹き出して来たが、それはまるっきり熱風と言って良かった。直撃を受けた大沢さんがうおっ、とたじろぐ。

「すみません。無いんですよ、この車」

 ハンドルを握る猪熊が、意味不明のことを言った。

「無いって、何が」

「クーラーですよ。元が『お得な四十七万円』ですからね、そんなのありません。まあ、走り出したら外の風が入ってきますから、涼しくなりますよ。大丈夫です」


 ちっとも大丈夫ではなかった。爆音を立てて走り出したテンピン号の窓から吹き込んで来たのは、当たり前だがやはり熱風だった。車内の四人はたちまち汗だくになった。ただ一人、阿倍野だけがなぜか汗一つかいていない。

「このままじゃ、海に着く前に脱水で死んじまう」

 白滝が悲鳴を上げた。

「コンビニ寄ってくれ、ポカリ買う」


 これにはみんな異議なく、猪熊は近くに「デイリーストア」を見つけると、迷わず広大な駐車場へとハンドルを切った。マイナーな店だが、そんな贅沢を言っている場合ではない。

 効きすぎるくらいに冷房の効いた店内はまさに天国で、我々はほっと一息ついた。さっそく冷蔵ケースの前に向かい、ここからのドライブにおける生命の維持に欠かせないと思われる、ドリンク類を物色する。みんながポカリだの烏龍茶だのを選ぶ中で、阿倍野だけはピーチネクターなんていう濃厚な飲み物を手にしていて、水分補給目的とは到底思えない。やはりこいつにはあの暑さはなんともないようだった。

(#3「罠にかかった猪熊、また騒ぎを起こす白滝」へ続く)

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