狂恋
はる
第1話
洗っても洗っても落ちないシミがある。
高梨草子は、風呂場にしゃがみこんで力任せに白いワイシャツを洗っていた。
夫の白いワイシャツの胸のあたりに、ほんのりとついた赤い口紅。草子に向かって自己主張しているかのように見える赤い口紅のシミ。こすればこする程、シミの自己主張が、草子の心の中にどす黒く色を変え広がっていった。
草子の手が止まる。
朝、夫が何食わぬ顔で出勤してからずっと洗い続けているので、草子の腕も肩も痺れるような痛みに悲鳴を上げていた。
もう無理だ。
広がりすぎたシミはもう消すことは出来ない。消せないならいっその事捨ててしまおうか。
夫は浮気をしている。
草子はワイシャツのシミを見つめながら、底なし沼に沈んでいくような気持ちで、遂にその事を認めた。
「夫は浮気をしている」
今度は声に出して言ってみた。言葉にしてみると、そんなに大した事ではない気がしてきた。
「浮気、浮気、浮気」
草子は歌うように呟いてみた。
大丈夫、私はこんなことぐらい平気だと、草子はスクっと立ち上がった。
突然、強い胸の痛みが草子を襲った。涙がポロポロと流れ落ちた。草子は自分を抱きしめるようにして、その場に崩れ落ちた。草子は不覚にもたやすく傷ついてしまった事に、敗北感にも似た気持ちを抱いた。
その敗北感を消し去るように、草子は再び白いワイシャツを力を込めて洗い始めた。
このシミさえ消せたら。このシミさえ消せたら、きっとこの結婚生活を続けられるはずなのだ。
お経を唱えるかのようにブツブツと声に出しながら、草子はワイシャツを洗い続けた。
ワイシャツが破けた。
シミが二つに裂けている。
あまりにも長い時間、力を入れて洗いすぎたからだ。まるで私達夫婦みたいだと草子は思った。
ふと草子の手が止まる。
本当に私はこの結婚生活を続けたいのだろうか。裏切られた痛みだけが、私をここから立ち去らせてくれないだけではないのか。
裏切られる痛みは決して初めてではない。だが、何度裏切られてもこの痛みには慣れる事が出来ない。どうしてこんな痛みを与えられなければいけないのだ。私がいったいどんな罪を犯したというのだ。
真面目に結婚生活を送っていただけ。
ただそれだけなのに。
一度、夫に言われた事がある。
「お前、真面目で面白くないんだよ」
結婚生活に面白さが必要なのかと、その時草子はひどく驚いた事を今でも鮮明に覚えている。
生活というものは現実なのだ。真面目にコツコツと日々を積み上げていくこと、それが結婚だと草子はずっと信じていた。
草子は夫に言われた言葉を何度も何度も繰り返し考えてみた。真面目は駄目な事なのかと不思議に思った記憶がある。
草子は、浮気は罪だと頑なに信じていた。
好きな人は一人でいい。
カバンも靴も気に入ったものが一つあればいいと考えている草子にとって、夫が浮気をする気持ちは全く理解することが出来なかった。
草子にとって浮気というものは、積み上げてきた日々を一気に崩され、苦しみの付き纏う日々を課せられ、心の底から笑うことを取り上げられ、心を殺される事でしかなかった。
(つづく)
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