第16話
相澤はその昔何度も見合いをした。その相手たちはみな彼女の好みと合致せず、結婚には苦労した。十人以上と食事を共にしてやっと一人、良いと思える男性と出会った。その男こそ何十年と連れ添ってきた夫である。あんまり人間に完璧を求めすぎてはいけない。それは夫と出会えるまでに何度も実感したことだ。高学歴で見た目も良いが性格が合わない、などといったものではない。大雑把なことではなく、細かい物事への捉え方であったりとか、家族観だとか、そういったことである。少しでも自分と違うからといって、その人が自分と合わない人物だというわけではない。合う人物というのは、互いの考え方を認め合える者のことだ。
ある日、相澤の家に一本の電話がかかってきた。その人物は探偵をやっていると言った。町内会の磯村さんについて調べている、と。特段不審には思わなかったので協力すると答えた。一人で探偵は家にやって来た。そして開口一番彼は言った。
俺が調べている事件は磯村美和が失踪したという件についてだ。彼女について少しでも違和感を感じた出来事などがあれば教えて欲しい。しかしその案件は俺が知りたいことの末端に過ぎない。前原という人を俺は追っている。そっちが本丸だ。
相澤は言った。前原は大学時代に、自分の彼氏だった。学食で何度か会ううちに恋に堕ちていた。自分は経済学部、彼は医学部だった。四年間を終えて卒業したとき、彼にはまだ二年間のカリキュラムが残っていた。生活がすれ違い、次第に疎遠になっていってしまい、そして別れた。
前原は大学を出て脳科学者になった。人間の叡知が記録されたハードディスクは果たしてどのような仕組みで成り立っているのか。それを解明することで、人類はさらに優秀になれると考えていた。
探偵は相澤に言った。
前原は事件に関わっている。二〇〇一年に起こった連続殺人事件だ。あの事件の首謀者こそが前原だ。だから協力して欲しい。あなたなら前原についてよく知っているはずだ。
相澤は承諾した。夫にも話した上で、かつて愛した男性が今何をしているのか、そして探偵が言う人類の叡知とは何なのか、それを知るために行動することにした。危険を感じつつ専ら興味本位で、この話に関わることを決めた。たまにはハラハラしてみたい。長年狭い世界で家と地域を守り続けてきたんだから。
「いらっしゃい。まあ、若いお兄ちゃんたちだこと。」
「お邪魔します。」
今日の聞き込みは三人。朝イチで町内会長の
文化祭の準備も佳境に入り、今ごろ学校では実行委員会の面々があくせくしながら働いていることだろう。楽しい行事が待っているのと同時に第二回の定期考査も近づき、朝丘の生徒たちはみな学校や塾に入り浸るころだ。
「磯村さんとこよね。あそこは不思議な家よねえ。うちも困っとったんよ。」
急須で茶を淹れながら彼女は話す。探偵はこの人から多くの情報を得ることは難しいと思っていたため部屋には上がり込まないつもりだったが、無理矢理入れられてしまった。
「と、いいますと。」
「公園掃除とか来ないし、会合は全部欠席だし、ゴミ捨て場の見回りは雑だし。最近の若い家庭はこんなもんなのかしら。
しかも娘は私立の中学なんでしょ。しかもえらいええとこの。わざわざお受験なんかせんでもええのにね。普通の公立が近いんだから。あの親子、妙によそよそしいし私立なんかに通ってるし、全く、昭和の頃が懐かしいわ。みんな仲良く地元で暮らして、地域の絆ってものがあったのに。今はなくなっちゃったわねえ。
そうだ、ご存じかしら。こないだ美容院行ったときにね、週刊誌で読んだのよ。習い事やらなんやらやらせるために、親が子供を子ども会に入れさせない家庭が増えているけど、それは良くないんだって。やっぱり子どもは遊んでるのがいいのよ。年齢に合った過ごし方ってのがあるんやね。」
「あの、今日聞きたいのはそういう話ではなくて。」
「あら、違ったの? てっきりあそこのことで何か困ってるのかと思ったわ。で、何を知りたいん?」
「あの家の娘のことです。例えば、最近様子が変だった、とか。」
「あの子、越してときにもう中学生くらいやなかったっけ。小さいうちならまだしも、そんな大きい子じゃあなあ。付き合いなんてないもんでね。
ていうか、あんたの方が詳しいやろ。隣の家やし。」
僕を顎でしゃくった。
「他にも当たってるんですけど、分からなかったんです。相澤さんなら何かご存じかと思いまして。」
「残念だけど、お話することはないわ。
あらそうだ、エスエヌエスを使ってみればええんやない? 誰かがひとたび書き込みをすると、何でも分かっちゃうらしいじゃない。恐ろしいけど、これが良いんでしょ? うちの孫だって、まだ三年生なのにスマートフォンを持たされて、いつもラインをやっとるわ。まだ習ってない漢字のはずやのに、既読ってのはわかるんやね。」
「俺らは存分に活用しながら頑張ってますよ。インターネットは便利です。」
「既にやってたの。じゃあ私がいろいろ言っても無意味やない。」
相澤さんは大声で笑った。
「しっかし、あんたらも大変ね。一人の家出少女を捜すために、こんなとこまで話を聞きに来るなんてね。ほら、何でも答えるから、知りたいことがあったらいつでも言うんやよ。」
「ありがたいです。」
「今日はもうええの。」
「はい、ありがとうございます。」
「これお菓子、あげるわ。うちの孫、ピアノを習っとって忙しくてね、なかなか顔見せてくれんから、食べる人がおらんのよ。ほら、好きなだけ持ってき。」
やたらと文中に「ん」を入れる喋り方を聞いていたら、どっと疲れた気がした。探偵も同じだったらしく、あっという間に切り上げて相澤家を去ることにした。
「やっぱり何も分かりませんでしたね。」
「それにしてもよく喋るおばさんだったな。」
「今日の会話のうち、八割はあの人の台詞でしたよ。
まあ、そんなことはともかく、何でこの人を訪ねようと思ったんですか。無駄足じゃないですか。」
「まあ、こういう人捜しのときは近所の人はマストで当たるからな。近くに住む住人なら、家庭内のトラブルは見つけやすい。」
「それが探偵のノウハウってやつなんでしょうね。今回は外れたけど、気を取り直していきましょう。次は彼女の祖母でしたね。」
磯村礼子は夫と大学時代に知り合ったらしい。
探偵による情報で知った。彼女の夫、つまり美和の父の名は
礼子の母は娘を裕福な家に嫁がせたがっていたらしい。礼子自身も恋に落ちた相手が経済的に余裕のある人物だったので、母子の願いは一致した。正の両親も育ちは決して良い家ではないということは関係なく、彼女自身を気に入ったため、大層スムーズに結婚に至ったというわけだ。
「小野智子、七十八歳。四年前に未亡人になっていて、今は娘が六歳の時に買った一軒家に一人で住んでいる。渡虹橋に住んでいる者からの依頼で話を聞きたいと伝えたら、何を勘違いしているのかわからんが、自分がその素敵な観光地に出向くと言っていた。もしかしたら案内しろと言ってきたり、面倒なことになるかもしれんが、その時はお前の出番だからな。」
今度は接待係かと思うとうんざりする。探偵たるもの人を相手にするんだからそのくらい自分でやって欲しい、という本音は秘めておく。美和さんのためならお安いご用だから。
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