第19話 試合開始

 試合当日の朝は、生ぬるい風の吹く曇り空で、道場の行く末を、天にいる誰かが案じているようだった。

「いよいよじゃの……」

 祖父は、すでに起き上がって着替えていた。

「無理をしないでください。……負けませんので」

 千代は、試合じたくをしながら決然とした声をあげた。


 泣いても笑っても、今日が終われば結果はわかる。いまだに、気持ちの奥底には、もやもやとした不安がうごめいている。

 試合が始まるまで、この不安が消えることはないだろう。それでもよいのだ。どのような心持ちであっても、試合のときには消えるよう、そう修業してきたのだから。

 相手方もいくら強いとはいえ、同じだろう。

 いや、相手方の心持ちを詮索しても、しかたがない。

 

 試合場所は、藩の侍たちが、昔から、城内にて鍛錬を行うときに使っている稽古場だった。下級藩士たちが全員入れるという、だだっ広い板間で、試合場を囲む縄が張られているほかには何もない、殺風景な場所だった。


 二郎と森幸四郎と一緒に、稽古場に入ると、千代は、大きくため息をついた。

 大事な試合前なのですから、少しでも体力を蓄えてください、そう言いはって荷物を持ち運んでくれた幸四郎から、木刀を受けとる。

 千代には、特別に別室が用意されていて、そこで道場着に着替える。

 着替えを終えると、歩く姿勢を正し、気を引きしめて試合場にもどった。


 木刀を腰に据え、試合場の板間に裸足でたたずむと、深く息をはいて、できるだけ肩の力を抜いた。今から力んでいると、試合まで持たない。もう一度、深く息を吸い、ゆっくりとはいた。道場の板間と同じ足裏の冷たさが、ここちよい。


 試合の始まるぎりぎりの時刻に、相手の師範代がやってきた。

 城内の知り合いの部屋で着替えたのだろうか。すでに道場着を着こんでおり、試合場に入るやいなや、鋭い眼光でにらんできた。

 思っていたほど大柄ではない。が、首回りや腕周りの並はずれた太さ、厚い胸板やがっしりとした腰周りは、長年の鍛錬によりつちかってきたものだと、ひと目でわかる。


 やはり、尋常な相手ではない。

 千代は、ぐっと歯を噛みしめた。

 試合は、なるようにしかならぬ。曾祖父の言葉を思い浮かべる。ああしよう、こうしようと思っても、相手は思う通りには動いてくれぬ。

  千代は、肩を上げて限界まで息を吸い、肩を下げながら、溜めこんだ息をはきだしていった。全身の力が抜けてゆく。ただただ、無心にて備えるのみ。


 試合の見届け人が、千代と相手を呼ぶ。もう備えは済んだか、試合を始めてもよいか、穏やかな声で尋ねる。

 千代も、相手の師範代も、備えは終わったと答えた。

 見届け人が、千代と師範代――森清右ヱ門と低い声で名乗った男――を、試合における左右の定位置に導いた。

 千代は片足を前に少し出す形でしゃがむ。

 相手は、そのまま大きく股を開いてしゃがんだ。木刀を、互いに相手の顔の中心に向ける。


 見届け人が、手を正面にかかげた。

 すっと、見届け人の息を吸う音が、かすかに聞こえた。

「はじめ!」

 手が、さっと上にあげられた。

 瞬間、うおおっと声をあげ、清右ヱ門が激しく木刀を打ちおろしてきた。

 すかさず、右へ木刀をはじく。そのまま直進し、相手の右手首をねらう。

 清右ヱ門は、気にせず、そのまま突進してきた。千代の木刀が肩にあたるが、間合いをずらされたため、威力がない。

 清右ヱ門の身体が、千代の身体の右側にぶつかる。最初から体当たりを狙っていたようだ。身体の横側だったにもかかわらず、千代は弾きとばされた。身体の重みの差はどうしようもなかった。


 速さは、わずかに千代が上まわっている。

 清右ヱ門の体力が落ちてくるのを待つしかない。


 何度目かの激しいぶつかりあいのあと、千代は、妙な違和感をおぼえた。相手の木刀と打ち合ったときのあたりが変に軽かった。

 気のせいだろうか。

 木刀同士をぶつかりあわせた瞬間から、普段ほど押し込めないとは思っていた。道場をかけた試合で大勢が見ている、そのために身体がかたくなっているせいとも思っていた。


 千代は、一瞬、眼を木刀に向けた。

 父から譲り受け、長年使ってきた木刀だった。どこに凹凸があり、どこに傷があるか、すべて把握している。

 清右ヱ門が、視線をはずしたすきを逃さず、打ちかかってくる。

 千代は、相手の木刀を下側からはじき、かろうじてよけた。右手が、木刀同士のぶつかった衝撃でしびれた。

 おかしい。これくらいで、こんな衝撃が来るはずはないのに……。


「待て!」

 見届け人が、試合を止めた。

「両者、見苦しき姿になっておる。着物を直しなさい」

 気づくと、相手の道着の上衣の端が腰からはずれ、たれさがり、床に引きずるほどになっていた。


 千代も、ゆるんだ袴のひもを締めなおした。

 気にかかっていた木刀を、まわりの者達に気づかれぬよう、さっと手元から刃先まで見た。

 あっと、千代は唇を噛んだ。

 木刀の長さ、半分のあたりに、かすかにひびが入っている。昨日まで、こんなものはなかった。ひびは、薄い糸のような線状のもので、この木刀を扱いなれている千代でなければ、気づかなかっただろう。

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