第13話 決着
「藤ちゃん!」
美雪と冴が駆け寄った。そのうしろから、冴の父と、弟子のひとりが小走りに近寄る。弟子の誰かが、藤吾たちの後をつけていたのだろう。知らせをうけた冴の父も、藤吾たちの後を追って柔道場に来ていたのだ。
冴の父と、常にそばについている弟子――確か、師範代で佐山といった――が、驚きの表情で、顔を見あわせた。
佐山は、刈り上げた頭を力まかせになでつけながら、
「驚きましたな」
冴の父も、目を見開き、藤吾を見つめながら、
「……うむ」
それ以上は、言葉が出ないようだった。
「確かに、古文書には、そういう例があるとは、書かれておりましたが、観るのは初めてです。……ひとりの人間に、こだまが、ふたつ、憑いているとは」
佐山も、どう考えたらよいのか、わからないようだった。
「波長が、よほど合わなければ、こだまはとり憑くことができぬ。二種類のこだまが憑くなど、考えられぬが……」
冴の父は、倒れた武蔵をのぞきこんだ。
と、うつぶせに倒れた武蔵が、うなり声をあげながら、上を向いた。
冴の父と、佐山は、あわてて後ろにさがった。
武蔵の顔が、徐々にぼやけている。その下から、武の顔がかすかに見えた。
武蔵は、寝転んだまま、かすれるような声で、
「おぬし、名はなんという? ……わしを負かした相手の呼び名ぐらいは、知っておきたい」
藤吾は、よろよろと立ち上がった。藤吾であって藤吾でない声が、耳をすませなければ聞こえないような低く、しゃがれた声でこたえた。
「……伊藤弥五郎と申す」
武蔵は、かっと目を見開いた。
「一刀斎殿であったか。道理で……」
武蔵は、かすかに笑って、目を閉じた。
武蔵の顔がさらにぼやけ、ますます武の顔がはっきりしてきた。武蔵の身体も、少しずつ縮んでいるように見えた。やがて、目を閉じて横たわる武の姿が、畳の上にはっきりと現れた。
冴が、武の呼吸を確認した。冴の父も、膝をついて武を調べ、大丈夫だとうなずいた。 藤吾は、大きく息をはいた。
「藤ちゃん!」
振り向くと、心配そうな顔で美雪が近づいてきた。
美雪が手のひらを、藤吾の顔の前にかざし、左右に動かした。
「だいじょうぶ?」
藤吾は、意識を失くしていたわけではなかった。武蔵との戦いも、はっきりと覚えている。ただ、ひどい消耗感がまだ残っている。身体が自分であって自分でないような、両足に力が入らず、他人にささえられて立っているような、そんな感覚だった。
冴が無言で近づいてきた。
じっと、藤吾の顔を見ている。緊張で顔色が、青白い。何事かを見極めようとしているようだった。
藤吾も、冴を見つめた。不思議に目が離せなかった。
冴の表情が崩れた。組んでいた腕をほどくと、深呼吸のときのように深く息を吸い、ゆっくりとはいた。
「よかった。もう、〝こだま〟は引っこんだみたいね」
冴の父が、娘に声をかけた。
「おまえにも、見えたか?」
藤吾に憑いていたふたつの〝こだま〟のことだった。
冴は、うなずいた。藤吾のほうに振りむくと、
「試合のあいだ、意識はあった?」
「おぼろげだけど、何をやっているかは……わかってたよ」
藤吾は、疲れた頭に、身体じゅうの血を集めて、試合のあいだのことを思い出そうとした。
「あなたには、こだまが、ふたつ憑いていたの」
冴は、ひとつ、息をついた。
「……そのこだまは、伊藤弥五郎となのってた。イトウヤゴロウ……伊藤一刀斎を、知ってる?」
藤吾は首を振った。そんな物々しい名前の人物は知らなかった。昔の剣豪なんだろうか。
「一刀斎は、一刀流の創始者とされている人物なの」
冴は、大きく息を吸った。
「いろいろ伝説が残っているけれど、剣豪のなかでも、謎の多い人物なの。出身地、夭折地、ともに不明。……経歴も、それほど詳しくはわかっていなくて」
「一刀流って?」
美雪が、横から声をかけた。
冴はうなずくと、
「今の剣道は、明治期に、それまでのいろいろな流派の要素を集めて創られたものだけど、ベースになったのは一刀流なの。それだけ、わかりやすい、一般のひとが理解しやすい流派だった……。でも、よく知られた流派のわりには地味で、これといった、代表的な剣技がないの。そのせいもあって、新陰流などと違って、時代劇なんかに、あまり使われていないの」
冴の父が、横から声をかけた。
「〝こだま〟が2種類も、ひとりの人間につくなど、ありえない。おまえはよく古文書に目を通していたようだが……知っていたか?」
「確かに、〝こだま〟がふたつ、憑いてたけど、2種類じゃない。わたしには、ふたつとも、同じ人物の〝こだま〟にみえた。……どちらも、伊藤一刀斎の〝こだま〟だったと思う。一刀斎の魂の反響(エコー)が、こだまが、いくつも響いて残っていくように、ふたつ、存在していたの」
「そうか、なるほど。……それなら、こだまがふたつ憑くのも、納得はいくが」
冴の父は、大きくうなずいた。
藤吾は、武のそばにしゃがみこんだ。不精ひげの生えた青白い顔は、昔から知っている武の顔だったが、こころなしか、しわが増えたようにみえた。まだまだ若いのに、老け込んだ壮年の男のようだった。
武が、うめき声をあげながら目を開いた。
「大丈夫か?」
藤吾は、ゆっくりと息をはき、また吸って声をかけた。
武は、藤吾をまぶしそうに見た。
「なんで、ここに?」
どうやら、藤吾と戦ったことは、記憶に残っていないようだった。
「お母さんから電話があって、……探したんだ」
「心配性だからなあ……」
つぶやくと、武は疲れたのか、また目を閉じた。
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